神無月15日島田を出て、綱政侯の一行は、大井川を渡っています。その時の歌です。
「東路の 大井の川の 浅くとも いく瀬の波に 心ゆるすな」
大井川を渡るには、この広重の浮世絵のよう川を渡す専門の人夫に依頼するか自分で一人で渡るか、いずれかの方法で渡るしか他はなかったのです。舟も有りません。まして橋などは禁止されていました。江戸を外様大名から守るために家康が決めた決まりだったのですが、時代が進み、人や物資の交流が多くなったのですが、「橋を作ってはだめです」と言う決まりは、それはそのまんま徳川幕府の時代270年間も、明治政府になるまで続いていたのです。人々の不便より決まりの方が優先さた時代だったのです。
橋もない舟もない大井川を渡る綱政侯は、大藩である岡山藩の大名です。駕籠に乗られたまま、絵のような方法で渡ったのだと思いますがが、その御籠から人夫が歩む川底を見えます。大井川の流れは速いし、瀬の中は苔むした滑りやすい石がごろごろしています。そこで、人夫達に「十分注意してくれよ」と、呼びかけた歌なのです。
私が子供の頃は高梁川でよく遊んだものですが、流れが速い瀬には大きくなったアユがたくさん泳いでいました。「アユは瀬に付く」と言われ、瀬には、そのアユが好んで食べる苔が石に付いており、そのために川底はいつも大変滑りやすくなっているのです。瀬ですから小石や砂ではなく、10cmぐらいの石がごろごろしていて、誠に滑りやすいこと限りなしだったと覚えています。
それを19歳の綱政侯は何処でかは知らないのですが、その川底の石ころの状態を知っていたのだと思われます。だからこんな歌が作れたのです。
そんなことを思うと、この歌は大名が作る様な歌では決してないように思えます。俗っぽい言葉ですが、綱政侯は、よほど「下世話に長けていた」のではないかと思われます。
「東路の 大井の川の 浅くとも いく瀬の波に 心ゆるすな」
大井川を渡るには、この広重の浮世絵のよう川を渡す専門の人夫に依頼するか自分で一人で渡るか、いずれかの方法で渡るしか他はなかったのです。舟も有りません。まして橋などは禁止されていました。江戸を外様大名から守るために家康が決めた決まりだったのですが、時代が進み、人や物資の交流が多くなったのですが、「橋を作ってはだめです」と言う決まりは、それはそのまんま徳川幕府の時代270年間も、明治政府になるまで続いていたのです。人々の不便より決まりの方が優先さた時代だったのです。
橋もない舟もない大井川を渡る綱政侯は、大藩である岡山藩の大名です。駕籠に乗られたまま、絵のような方法で渡ったのだと思いますがが、その御籠から人夫が歩む川底を見えます。大井川の流れは速いし、瀬の中は苔むした滑りやすい石がごろごろしています。そこで、人夫達に「十分注意してくれよ」と、呼びかけた歌なのです。
私が子供の頃は高梁川でよく遊んだものですが、流れが速い瀬には大きくなったアユがたくさん泳いでいました。「アユは瀬に付く」と言われ、瀬には、そのアユが好んで食べる苔が石に付いており、そのために川底はいつも大変滑りやすくなっているのです。瀬ですから小石や砂ではなく、10cmぐらいの石がごろごろしていて、誠に滑りやすいこと限りなしだったと覚えています。
それを19歳の綱政侯は何処でかは知らないのですが、その川底の石ころの状態を知っていたのだと思われます。だからこんな歌が作れたのです。
そんなことを思うと、この歌は大名が作る様な歌では決してないように思えます。俗っぽい言葉ですが、綱政侯は、よほど「下世話に長けていた」のではないかと思われます。
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