私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

竹の筒

2010-04-11 12:17:39 | Weblog
 ちょっと、また、例の通り横道にそれますのをご勘弁ください。
 というのは。この「宮(七里)の渡し」について、一九のあの「東海道中膝栗毛」を紐解いてみることにします。
 宮から桑名まで七里28kmの船旅です。大名の、この海の行程は、1里が1時間程度だったそうですから、7時間の船旅で、一日の行程でした。しかし、普通の旅人が乗る舟は3~4時間で宮から桑名まで渡れたのです。
 
 それはそうと、弥次さん喜多さんが、此の船旅で一番心配したのが、小便の事でした。そうです、舟には、当然、便所の設備がある筈がありません。
 弥次さんたちが泊った宿の亭主は、その小便対策として舟用の小便器「竹の筒」を用意してくれます。多分サービスであったのではと思われます。、折角、頼んでいた「竹の筒」を、此の亭主がうっかりしていて忘れたために物語が新たに展開していきます。滑稽本の真骨頂です。
 宿の亭主が急いで取りに戻ります。船が出るの時間が決まっていたのかどうかは分かりませんが、とにかく、大急ぎで、船の中で要を達するための「小便用竹の筒」持ってきます。既に、舟に乗っていた弥次さんに取ってきた竹を投げ入れます。受け取って弥次さんたちは驚きます。それは「火吹き竹」だったのです。ご存じ息を吹きかけて火を勢いよく燃やすために作られた道具なのです、竹の筒の先に小さな穴が開いているのです。小説では、これを使って、弥次さんたちがまた大失敗します。女性は、これをどう解決したのでしょうかね。江戸時代の旅にはそこいらの苦労も沢山あったことは確かです。

 また、広重の絵からも伺われるのですが、宮から出る舟には、砂浜から細い板を伝って登っていたのではと思われます。築港はなかったのす。それから、決まった舟が出る時間等もなかったのではと思われます。午後からは出なかったとかも言われていますが、よく分からないのだそうです。舟の大きさも一体いくらぐらいあったか分かっていません。
 こんな細かい決まりはどうも、この港にはなかったようです。時間割なんてひち面倒なものは作られてはなく、潮や風の加減で、大仰に運行していたように思えます。
 「ふねがでるぞー」という呼び声が唯一つの決まりではなあかったかと思われます