私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

江戸出て8日目

2010-04-07 15:24:16 | Weblog
 「17日御油の宿りを出て、赤坂のすへにつきぬ。明ぬる空にたちまちの月の山の端に残り・・・・」
 
 「御油の宿りを出て・・・」とありますが、江戸時代の旅は、いったい何時頃出発したかと言いますと、御存じ「お江戸日本橋」の歌にも出てきます。
 
  「お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ

 ここにあります「七つ立ち」とは「暁の七つ」(午前3時から4時頃)に出発することです。「初のぼり」とは江戸に留め置かれた大名の子が家督を継いで初めて領国に帰ることと思われます。

 この歌が流行ったのは天保の頃だそうですから、この西国の雄藩備前岡山藩主綱政侯の初めてのお国入りとは、全く関わりがある歌ではありませんが、歌われている内容からも分かりますが大名の旅、そう大名行列そのものもは、藩にとっても、また、大名自身にとっても精神的肉体的経済的に大変な行事だったことが分かります。

 綱政侯の行列は、神無月のです。普通なら、遅くとも午前4時頃には御油を出ているはずです。赤坂で明けぬる空にたちまちの月の山の端に残っていたのが見えたのです。五時か六時頃だと思われます。それから池鯉鮒(ちりゅう)を経由して鳴海までの約10里(42.3km)の行程です。
 池鯉鮒と鳴海の間にある「昔の八橋あとをながめて」進みます。
 昔と違って江戸の初め頃には既に「八橋」はなく、只、その地名だけが残っているだけだったのです。このに現在でもかきつばた園がありますが、明暦の当時もにあったのでしょうか、八橋の「かきつばた」だと聞いて、業平に思いを馳せて歌を詠んだのだと思います。

    むらさきの ゆかりの花は 名のみして
             あわれくちぬる 八橋の跡 
 あの業平が「かきつばた」の五文字を織り込んで詠んだ花は、今は冬枯れて、すっかり朽ちてしまって哀れな姿をとどめている八橋であることよと、言うぐらいな意味だと思います。何か旅の哀愁がにじみ出ている名歌だと思われます。

 19歳の綱政は「きつヽなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、江戸にいる恋人の事を、此の八橋でも、また、思い出していたのではなかろうかと想像しています。その思いは、その夜の宿りでもあった鳴海まで続いています。