私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

播磨稲目大郎媛

2010-04-19 10:08:05 | Weblog
 「播磨稲目大郎媛や吉備武彦が、どねえして吉備と繋がっているのじゃ。そげえなもんがおったけえ」

 又も、飯亭寶泥氏からメールが届きます。
 それもそうです。古代吉備にあまり関心のないお方はそんな人が歴史の中にいたなんてことも知らないのが当たり前です。高等学校の教科書にも、勿論、ありません。

 あまり面白くないとは思いますが、メールを無視することもできませんので、一応は説明しておきます。
 
 前に一度くらいお話したこともあるような気もせんでもないのですが・・・?????

 例の温羅の伝説と共に語られている吉備津彦命(五十狭芹彦命)は、崇神天皇の時、吉備の国の制圧の為に派遣されています。

 この時に、吉備津彦命の副将として吉備の国にやって来られた人に、命の弟君であられる「若日子建吉備津日子命」がおられます。
 このご兄弟の父が孝霊天皇なのです。

 この二人が、どのように吉備の国を制圧したのか、古事記等の歴史書には書かれてはいないのですが、吉備地方の伝説として伝わっています。あの温羅の物語です。相当長期に渡る激戦であったことには間違いありません。吉備津彦命の2本の矢がそれを物語っています。神の助けを借りなくては勝利できないような一進一退の激戦だったのです。
 この温羅と吉備津彦命の戦いがあの「桃太郎」伝説の元にもなったと言われています。
 家来になった「いぬ」が出てきますが、これは吉備地方の山賊か海賊の様な人たちの吉備地方の情報を熟知していた集団だと考えられています。また、あの「さる」ですが、言い伝えによると、この地方にいた、温羅に対抗できるだけの力を蓄えていた相当な力を持っていた吉備の豪族だったのです。いま吉備津神社の本殿の中に祭られている「楽々森彦命(ササラモリヒコ)」という吉備地方の大豪族だったのではないかと考えられています。彼を吉備制圧のための作戦本部長の役目に付けたからこそこの戦いに勝てたのです。楽々森彦を味方につけるために、その娘「百田弓矢比売命」を妃にしています。もう一人「きじ」ですが、これはどうも朝鮮や支那からの渡来人ではなかったかと語られています。鉄の生産に関わっていたのではないかと
 このようにして、吉備津彦の命は、吉備の情報を正確に掴みながら、吉備地方にいた一方の勢力と上手に融和しながら制圧されたのだと考えられます。

 さて、吉備の国制圧後、二人はそのままま吉備の国に留まり、この国を治めています。しかし、兄である吉備津彦命にはお子様が一人しかおらず。その人は葦北国造(熊本県)となって、吉備の国とは無縁な人になってしまわれます。
 結局、それ以後の吉備の国を治めたのは、弟君「若日子建吉備津日子命」の後裔です。
 この弟君の姫君の一人が「播磨稲目大郎媛」であるのです。
 何故、吉備でなくて「播磨」なのかは分からないのですが、多分、吉備津彦命ご兄弟が吉備を制圧するために西国に派遣された時、直接に、強大な力を誇る吉備の国に入ることが難しかったのでしょう、一旦、針間(播磨)の国の氷河(ひかわ)に上陸されたから、そこを起点として(道の口)段々に吉備を制圧して行ったようです。その播磨の国との和を深めるためにでしょうか、そこの豪族か誰かの娘を妻にした為に、播磨と言う名がそのまま付いているのではないかと、私は推測しています。
 なお、吉備津彦命の妃「百田弓矢比売(ももたひめ)命」の百田という地名も足守にあります。足守付近にいた豪族の娘です。古代社会では、特に、女性の名前には、出身地の名前を初めに付けることもよくあります。
 
 「若日子建吉備津日子命」のお子様が3人おられました。それが、この播磨稲目大郎媛と播磨稲目若郎媛と御鉏友耳建日子命(みすきともみみたけひこのみこと)です。御鉏友耳建日子命の子が吉備武彦なのです。

 播磨稲目大郎媛は、その後、景行天皇の后になられますが、そのお子様の一人が日本武尊なのです。だから、吉備武彦命とは従兄弟同士の関係にあったのです。また、吉備武彦の子に吉備穴戸武媛がおられますが、この媛は日本武尊の妃になっています。
 
 随分と長ったらしく話が込み入っていますが、よかったら知っておいてください。

 まあ、吉備と大和は、古くから大変深い関係にあった事だけはお分かりになると思います。