又、朝からメールが届いています。寶泥氏が言います。
「おめえは、〈弥生〉の説明に、書紀の中から、神武天皇が吉備の国に来た時が春三月で、それを〈やよい〉と言わした日本で一番初めの事じゃったというんじゃがのう。今日は4月1日じゃ。その書紀にゃあ「4月」はどうけえておるんじゃ。やっぱし卯月か。ちょと捜してみて、ちいでにおせえてくれんかのう」
と。
早速、本棚の奥に閉っている「日本書紀」を取り出してみました。
なお、私の持っている日本書紀は、江戸の末の天保の頃に作られた本で、相当に傷んで、どうにか本の形を整えていると言った方がいいようなオンボロなものです。
この本に、春二月を〈きさらぎ〉、夏四月を〈うづき〉と、ルビをふって読ましていますが、「如月」「卯月」という語は載ってはいません。
なお、これも〈うづき‐卯月〉とは全く関係はないのですが、チョビットですが、吉備の自慢になりますので書いてみます。
書紀には、神武は、三年間、吉備でその軍備を増強されたと書いています。でも考えて見ると、他所の国からやってきた、所詮、他所者に対して、当時、この相当な強大国であった誇り高き吉備の大王が、そう易々と「神武」の軍門に下る訳がないと思います。そこらあたりの状況については、この書物には何の記述もしてはありません。一方、古事記には、九年も、この吉備にいたと書かれていますから、神武の軍門に下るまで、相当の激しい戦い等があり、この吉備でも神武は苦労を重ねたことは確かなことではないかと想像しています。なお、吉備の国には、神宮皇后が、三韓征伐の時に、2万の軍隊を集められたという話も残っていますが、それとこの神武との話が一緒になったいるのかもしれません。
どのような争いがこの土地であったのか、それともなかったのかは、歴史書には、一切は記載されていませんが、兎に角、神武は、この吉備で軍備を増強して東に向います。そして、着いた所で〈奔潮(はやきなみ)が有って、太急(いとはやき)に会います。直ぐには上陸できなかったのです。それにも相当な困難が伴ったのではと思われます。
そこで、神武は、そこを「浪速(なみはや)」と名付けます。それが「波華(なみばな)」と訛って、今の「難波(なには)」にと変わっていきます。その浪が速い埼、難波に上陸して、更に、「春三月(やよい」)には河内の国に、「夏四月(うづき)」には瀧田(たづた)と言う順で東進して行くのです。ここに〈うづき〉と言う言葉が出てきます。これが〈うづき〉と言う言葉が使われた最初ではないかと思われます。古事記には「詞志比(かしひ)の宮」の所に〈四月之上旬〉とあり、それを〈うづきのはじめつかた〉と読ましています。
時間的に考察すると、こちらの方が瀧田の方より随分と早い時期になりますが????
なお、旧暦四月は、この神武天皇の時から、づっと〈うづき〉卯月呼ばれていたのですが、それは、卯の花が咲く月だからそう名前が付けられたのだと説明がなされてきましたが、弥生と違って、これが4月を卯月という呼び名となった真の原因であるかというと、案外、そうでもなく、異説ぷんぷんなのだそうです。
その異説の一つと、太陽が出る方向が卯辰の方向からだと言うのもあるようです。本居宣長の言うように、三月の〈弥生〉以外は、睦月・如月・卯月など、どうしてそう呼ばれるようになったのかはよくわからないのだそうです。
さて、この四月の呼び名としては、此の「卯月」の他に、花残り月、正陽月、余月、陰月、巳月、中呂、朝月、乾月、孟夏など、今ではすべて死語になっているような聞いたこともないような言葉が並んでいます。総て旧暦の四月ですから、新暦でいえば五月の事ですから、まんざら意味が分からないと言う事でもありませんが。でも、陰、余、巳、乾など何故だろうかと思いめぐらさせられます。
なお、古い記録によると、今日、四月一日〈朔日〉は、特に「綿貫」と呼ばれていたのだそうです。今では全くの死語ですが。一年ほど前までは永田町辺りにいた人の名前に見たことがあるように思えますが。
この「綿貫」は、陰暦の四月一日、宮中の夏に移るための衣替えが行われた日だったためにこう呼ばれたのだそうです。綿の入った(綿入れ)の冬用の着物から綿を貫いた単衣の着物「あはせ」に替える日であったから「綿貫」なのです。
そう言えば、私の子供時代は、「綿貫」と言う言葉は使ってはいなかったのですが、「綿入」と言う言葉をしばしば耳にしていたと思います。冬用の着物をまとめて一般にこう呼んでいたのです。
あ!また悪い癖がでて、今日も、とんでもない方向に進んでしまいました。お許しください。明日からは綱政侯に歌紀行に戻ります。
「おめえは、〈弥生〉の説明に、書紀の中から、神武天皇が吉備の国に来た時が春三月で、それを〈やよい〉と言わした日本で一番初めの事じゃったというんじゃがのう。今日は4月1日じゃ。その書紀にゃあ「4月」はどうけえておるんじゃ。やっぱし卯月か。ちょと捜してみて、ちいでにおせえてくれんかのう」
と。
早速、本棚の奥に閉っている「日本書紀」を取り出してみました。
なお、私の持っている日本書紀は、江戸の末の天保の頃に作られた本で、相当に傷んで、どうにか本の形を整えていると言った方がいいようなオンボロなものです。
この本に、春二月を〈きさらぎ〉、夏四月を〈うづき〉と、ルビをふって読ましていますが、「如月」「卯月」という語は載ってはいません。
なお、これも〈うづき‐卯月〉とは全く関係はないのですが、チョビットですが、吉備の自慢になりますので書いてみます。
書紀には、神武は、三年間、吉備でその軍備を増強されたと書いています。でも考えて見ると、他所の国からやってきた、所詮、他所者に対して、当時、この相当な強大国であった誇り高き吉備の大王が、そう易々と「神武」の軍門に下る訳がないと思います。そこらあたりの状況については、この書物には何の記述もしてはありません。一方、古事記には、九年も、この吉備にいたと書かれていますから、神武の軍門に下るまで、相当の激しい戦い等があり、この吉備でも神武は苦労を重ねたことは確かなことではないかと想像しています。なお、吉備の国には、神宮皇后が、三韓征伐の時に、2万の軍隊を集められたという話も残っていますが、それとこの神武との話が一緒になったいるのかもしれません。
どのような争いがこの土地であったのか、それともなかったのかは、歴史書には、一切は記載されていませんが、兎に角、神武は、この吉備で軍備を増強して東に向います。そして、着いた所で〈奔潮(はやきなみ)が有って、太急(いとはやき)に会います。直ぐには上陸できなかったのです。それにも相当な困難が伴ったのではと思われます。
そこで、神武は、そこを「浪速(なみはや)」と名付けます。それが「波華(なみばな)」と訛って、今の「難波(なには)」にと変わっていきます。その浪が速い埼、難波に上陸して、更に、「春三月(やよい」)には河内の国に、「夏四月(うづき)」には瀧田(たづた)と言う順で東進して行くのです。ここに〈うづき〉と言う言葉が出てきます。これが〈うづき〉と言う言葉が使われた最初ではないかと思われます。古事記には「詞志比(かしひ)の宮」の所に〈四月之上旬〉とあり、それを〈うづきのはじめつかた〉と読ましています。
時間的に考察すると、こちらの方が瀧田の方より随分と早い時期になりますが????
なお、旧暦四月は、この神武天皇の時から、づっと〈うづき〉卯月呼ばれていたのですが、それは、卯の花が咲く月だからそう名前が付けられたのだと説明がなされてきましたが、弥生と違って、これが4月を卯月という呼び名となった真の原因であるかというと、案外、そうでもなく、異説ぷんぷんなのだそうです。
その異説の一つと、太陽が出る方向が卯辰の方向からだと言うのもあるようです。本居宣長の言うように、三月の〈弥生〉以外は、睦月・如月・卯月など、どうしてそう呼ばれるようになったのかはよくわからないのだそうです。
さて、この四月の呼び名としては、此の「卯月」の他に、花残り月、正陽月、余月、陰月、巳月、中呂、朝月、乾月、孟夏など、今ではすべて死語になっているような聞いたこともないような言葉が並んでいます。総て旧暦の四月ですから、新暦でいえば五月の事ですから、まんざら意味が分からないと言う事でもありませんが。でも、陰、余、巳、乾など何故だろうかと思いめぐらさせられます。
なお、古い記録によると、今日、四月一日〈朔日〉は、特に「綿貫」と呼ばれていたのだそうです。今では全くの死語ですが。一年ほど前までは永田町辺りにいた人の名前に見たことがあるように思えますが。
この「綿貫」は、陰暦の四月一日、宮中の夏に移るための衣替えが行われた日だったためにこう呼ばれたのだそうです。綿の入った(綿入れ)の冬用の着物から綿を貫いた単衣の着物「あはせ」に替える日であったから「綿貫」なのです。
そう言えば、私の子供時代は、「綿貫」と言う言葉は使ってはいなかったのですが、「綿入」と言う言葉をしばしば耳にしていたと思います。冬用の着物をまとめて一般にこう呼んでいたのです。
あ!また悪い癖がでて、今日も、とんでもない方向に進んでしまいました。お許しください。明日からは綱政侯に歌紀行に戻ります。
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