「いま、男ありけり」です。また、例の飯亭寶泥氏からのメールが届きます。
彼の曰く;
「蘇鉄と八橋にちいて書えておられるんじゃが、そげんに愚にもつかんことを、ああでもね、こうでもねえと、見てきたように吹聴するのは、どげえなのんじゃろうかと思うとるんじゃが。おめえの書えておる「八橋」を見て、わしも、もういっけえ、その七・八・九段を読み直してみたんじゃ。・・・
あんたが言うとりんさるような、そげえな当てつけがましいことを、自分のご主人様に対して、忠臣永忠がする筈はねえとは思うんじゃが、いままで、でえもしたことがねえような、いいかげんなことを思いついたと云う事だけは褒めてやってもええどー。よっぽど暇なんじゃなあ。あんたは・・・
まあ、わしもお前さんみてえにじゃ、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」じゃないのじゃが、ちょっくら、ちょっくら遊び心を起こしてみとうなってのう、こげんことを思ってみたんじゃが・・・」
と言うのです。
土佐日記をここで持ち出しながら、もったいぶって遊び心なんか起こしてくれなくてもよかりそうなのですが、彼も人の子です、飯亭寶泥氏です。相当なひねくれ者です。いつも言うことと為すことが違うことが多いのです。私に負けじと、暇に任せて、ない頭を働かせたことに間違いありません。こんなことを言ってきているのです。
「九段では、あんたの書えた続きに、「かれいの上に涙おとしてほとびにけり。行き行きて駿河の国にいたりぬ」と、あるんじゃが、その次が問題なんじゃ。「すずろなるめを見ることと思ふに」とあるじゃろう。この「すずろ」という言葉も、あんたがゆうとりんさる「要なきもの」という文句と同んなじ働きがあると考えられるじゃろうが。よう考んげえてみいや。「ある筈がない物を見る」と云うぐれな意味じゃけん。有る筈のないとんでもでもない「すずろなるめをみる」物をこげん所に置いてと、この蘇鉄を見て見学者に非難させることもできるよ。・・・そのためにも八枚の板の仮橋をこけえ置いたんじゃあねえかなあ。・・・・わしの説はどうじゃな」
と、言うのです。
「ほん、そんなことはないでしょう」
と、完全に否定もできませんが、やっぱり、永忠の心をしっかり現わしているのは「要なきもの」を置いて他にないと思います。此の寶泥氏の言うのは、こじつけもいい所で取るに足らないいい加減な戯言だと決め付けてもいいのではと思うのです。でもよく考えてみると私の考えも、彼の考えも、どちらにしても“牡蠣が鼻だらを笑う”類のことだと思います。
そんなことは抜きにして、此の八枚の板橋をご覧下さい。
「お前たちみたいな、どうでもええようなことをガチャガチャ言わんで、そんなようわからん事にうつつを抜かさんと、ただ、この美しい仮橋の姿だけを見てくれれば、それでいいのじゃ」
と、訴えているようではありませんか。
彼の曰く;
「蘇鉄と八橋にちいて書えておられるんじゃが、そげんに愚にもつかんことを、ああでもね、こうでもねえと、見てきたように吹聴するのは、どげえなのんじゃろうかと思うとるんじゃが。おめえの書えておる「八橋」を見て、わしも、もういっけえ、その七・八・九段を読み直してみたんじゃ。・・・
あんたが言うとりんさるような、そげえな当てつけがましいことを、自分のご主人様に対して、忠臣永忠がする筈はねえとは思うんじゃが、いままで、でえもしたことがねえような、いいかげんなことを思いついたと云う事だけは褒めてやってもええどー。よっぽど暇なんじゃなあ。あんたは・・・
まあ、わしもお前さんみてえにじゃ、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」じゃないのじゃが、ちょっくら、ちょっくら遊び心を起こしてみとうなってのう、こげんことを思ってみたんじゃが・・・」
と言うのです。
土佐日記をここで持ち出しながら、もったいぶって遊び心なんか起こしてくれなくてもよかりそうなのですが、彼も人の子です、飯亭寶泥氏です。相当なひねくれ者です。いつも言うことと為すことが違うことが多いのです。私に負けじと、暇に任せて、ない頭を働かせたことに間違いありません。こんなことを言ってきているのです。
「九段では、あんたの書えた続きに、「かれいの上に涙おとしてほとびにけり。行き行きて駿河の国にいたりぬ」と、あるんじゃが、その次が問題なんじゃ。「すずろなるめを見ることと思ふに」とあるじゃろう。この「すずろ」という言葉も、あんたがゆうとりんさる「要なきもの」という文句と同んなじ働きがあると考えられるじゃろうが。よう考んげえてみいや。「ある筈がない物を見る」と云うぐれな意味じゃけん。有る筈のないとんでもでもない「すずろなるめをみる」物をこげん所に置いてと、この蘇鉄を見て見学者に非難させることもできるよ。・・・そのためにも八枚の板の仮橋をこけえ置いたんじゃあねえかなあ。・・・・わしの説はどうじゃな」
と、言うのです。
「ほん、そんなことはないでしょう」
と、完全に否定もできませんが、やっぱり、永忠の心をしっかり現わしているのは「要なきもの」を置いて他にないと思います。此の寶泥氏の言うのは、こじつけもいい所で取るに足らないいい加減な戯言だと決め付けてもいいのではと思うのです。でもよく考えてみると私の考えも、彼の考えも、どちらにしても“牡蠣が鼻だらを笑う”類のことだと思います。
そんなことは抜きにして、此の八枚の板橋をご覧下さい。
「お前たちみたいな、どうでもええようなことをガチャガチャ言わんで、そんなようわからん事にうつつを抜かさんと、ただ、この美しい仮橋の姿だけを見てくれれば、それでいいのじゃ」
と、訴えているようではありませんか。