私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

永忠の瀑によす思いと序破急

2009-11-16 12:02:17 | Weblog
 後楽園は、遠州流造庭の代表である京都桂離宮の庭園と酷似していると云われています。
 平地(元々は、河川の中洲にあった田んぼだった所です)に旭川の水を取り込み、水路・池・滝・池と3段から4段に利用して、それ以外の平地には芝(6千坪)を付け、種々の梅桜蘇鉄などの樹木を植え、また、中央には小高い岡を取り入れて、四季折々の景色が楽しめるようにした回遊式の庭園です。
 操山などの借景も取り入れつつ、平面的な平地に上手に岡などを設けて、高低の差を設けながら種々なる多くの佳景(後楽園十勝)の場所を造ったのです。
 それらの総ては、ただ、平面的で具象的な色彩的な自然の美しさ(横に広がるの美)を鑑賞するだけのことで、そこからは、何か深い抽象的な精神的な美しさまでを発見することはできません。
 こんな庭園ですと、そこを歩きまわるだけで、橋や池や山や木といった自然に擬して造った物を、ただ眺めて、
 「ああ、秋だなあ、もみじが本当にきれいだな。」
 などと言う、単純な癒し以外の何物も造りだせない、見て、歩いて、それだけで終わってしまうような庭園になり下がってしまう恐れがあります。それでは、あまりにも、一般的な、どこにでもあるようなごくありふれた普通の庭園にしかなりません。
 そこで、永忠は もう少し、人々の心の奥底にある、人間としての思惟的作用としての時間的精神的美(縦に連なった美)への追求の場の後楽園にと、それが日本唯一の名園になると確信して、この「序破急」の花交瀑も、わざわざ、ここに造ったのだと、私は考えています。
 だから、
 「この瀑を見ずして、後楽園を語るなかれ」
 と、言われそうな場所でもあるのです。ここは???・
 
 なお、芝生は、江戸の昔には、沢の池の西側だけに植えてあったのだそうです。今みたいに前面に植えられたのは明治になったからのことだそうです、念のために。

後楽園の序・破・急

2009-11-15 16:27:38 | Weblog
 「序・破・急」とは聞きなれない言葉と思いになられませんか?

 この「序破急」とは、古来から日本の芸能全般で、特に、雅楽、能楽を中心にして、使われている概念です。
 「序」とは、ゆっくりと事なく、すらすらとした静かな感じです。「破」とは、変化に富んだ、曲折のある激しい感じで、「急」とは、速く短く、又は、さらさらと軽やかな結末を告げる感じを言うのだそうです。なお、「急」には、ひきしまる、きびしいと云う意味もあるのだそうです。
 この概念は、最初は「雅楽」で取り上げられたのですが、次第に、楽能、茶道、俳諧など芸事全般に取り入れられ、あの「風姿花伝」でも、世阿弥は「一切の事は序破急あれば」と、書いております。万道に通じる概念だそうです。
 中国の起承転結に通じる概念で、序は「起・承」で、破は「転」、急が「結」に当たるのだそうです

 この「序・破・急」の考えが、庭園にも取り入れられていることについて、かって兼六園を訪ねた時に、そこの案内人によって説明を受けたことがありました。
 兼六園にもあるのだったら、後楽園にもと、園内を探しました。こここそ間違いないと思った場所が、昨日、取り上げた「花交瀑」です。
 
 でも、これも、先の蘇鉄と一緒で、今まで、誰からもそんな説明は受けたこともなく、それらしい説明書もないのですが、私は、「そうだ。これこそ違いないと」と、一人、何時もにやにやしながら、この「岐蘇谷」一帯に広がる永忠の序破急に思いを馳せながら散策を楽しんでいます。

 なお、昨日の3枚の写真はその思いを載せて写してきました。どうでしょうらとか。
 序と破と急となっていると思いになられませんか。1,2枚目は、正にそのものズバリです。3枚目の写真は「さらっとした何か身の引き締まる」感じがします。これが「急」という言葉と、何かしら合わないようにも考えられますが、激しい流れ「破」から激変して、急に、静閑かな池に流れ落ちていますので、「急」という概念でもいいようにも思われます。
 その効果を意識的に意図して、永忠は、わざわざ百石島の前に、小さな石灯篭を置いたのではと、私は推測しています。
 
 こんな散策が私の後楽園散策法です。

花交瀑

2009-11-14 20:27:48 | Weblog
 唯心山の周りを流れ下る泉水は、流店の中央をゆっくりと直線となって通り抜け、八橋の下を緩やかに流れ、やがて、奇石錯落した渓壑へと下っていきます。
        
 雑樹が生い茂った中を、今までのゆったりとした水の流れは、ここで突如として激しく変化し、瀑となって流れ落ちていくのです。これが後楽園十勝「花交瀑」です。
         
 この渓壑が信州木曽谷に擬して造ったといわれる「岐蘇(きそ)谷」です。この谷を通り、瀑となって流れ落ちた水は「花交の池」に流れ込みます。こそには百石島」と呼ばれている、小さな島があります。この島の前には灯篭もしつらえてあり、雑樹の間から流れ落ちる真っ白の滝の水と相まって何とも云われぬ雅趣を描き出しています。ここは又、後楽園の隠れた佳景の一つに数えられています。
        
  

池田斉敏侯

2009-11-13 18:00:25 | Weblog
 「唯心堂月」を詠んだ歌に

      ・出づるより 入るまでかヽる 雲もなし
                 心のまヽに 月をこそ見め

        
 (唯心山にある六角の建物が唯心堂です)

 があります。
 この歌を作ったのは、九代岡山藩主池田斉敏侯です。斉敏侯の兄が、あの鹿児島藩主島津斉彬侯で、島津氏から養子として岡山藩主になられた人ですです
 園内にある「井田(せいでん)」を造った人としても知られています。「井田」というのは、中国の周の税制、田租法を習い造られています。
  
              

 
 なお、これは余談事ですが、あの「岡山名物「大手まんじゅう」の命名者でもあったと云い伝えられています。でも、若くして(32歳で)亡くなられています。

 この斉敏侯の他にも、沢山唯心堂の月を詠んでいますが、貴島磯麿の歌を上げておきます。

       ・むらきもの 心のくまも はれにけり
                 この高殿の 月にむかひて



 

再び 後楽園   

2009-11-12 10:37:19 | Weblog
 再び 後楽園に戻ります。
  流店の北西にある小高い丘で、園内第一の勝景の地でもあるのです。山腹には沢山の躑躅が植えられており、その間にが多くの岩が布置され、小径が3方へ通じ、山頂はやや平坦になっており、眺望頗る広豁にして「園中の勝景は総て眉睫の間にあり」と称えられてい所です。
    唯心山への登り口(流店からの)と頂上からの展望

 なお、この登り道の側に、約二坪ほどのの六角堂が設置してあり、檻を設けて人が自由に出入りすることが出来ます。ここからの観月は絶佳です。
 ここが後楽園十勝の一つに挙げられている「唯心堂月」です。

光明皇后の楽毅論

2009-11-11 10:21:36 | Weblog
 もうこの辺で後楽園の十勝に進もうかと思っていたのですが、またもや、またもやです、あの寶泥氏からのメールです。
 「まあ、いっか。どうせ、水行く河の蜘蛛手なれば、ついでのこと、今日も余談の事と相なり候」とばかり、ちょっぴり気取って、もう一日横道へ反れてみました。
  
 今日もかの寶泥氏曰く、です。

 「おめえは光明皇后という人を知っているのか」と、まず、書いてあります。
 彼によりますと、光明皇后は、癩患者の膿を吸ってやって、その人の病を治したとか、また、悲田院や施薬院を設けて、病人や孤児を救ったなどと、慈悲の権化のような人と思われ、その書についても、その慈悲の心が表れて「人を思いやるような崇高な温かさが表れている精華な筆跡」だと、大いに讃美されているのだが(実は私もそう信じていたのです)、実情は現実とは随分と異なっているのだと、寶泥氏はおっしゃられるのです。
 ここにあるような、これらの逸話は、総て、政治権力を自分の一手に掌握するための、藤原氏の計算ずくの巧妙な作り話だと云うのです。長屋王の話もその一環なんだそうです。

 「おめえが、えろうありがたがって、どうやって列のなけえ、へえりこんだんかしらんが、2けえも3けえも見るほど価値のあるよなええ書じゃあねえど。」

             楽毅論の一部です。
 
 そう言われて、もう一度、一字ずつ買ってきた図録の書を見てみました。
 改めて見てみると、彼が言うように、今までは、全然、気の付かなかったのですが、何かごつごつとした如何にも力強よそうな、言いかえると、あたかも男が書いたのではと、まがうような感じさへ伺えるような気にもなります。私が、今までに漫然と見てきた感じとは随分違って見えます。例えば、二行目の「劣」という字を見てください、鈍角に曲った先までピンと伸びた線の醸し出す強烈な強さ、それから、「次」の、つとに落ち着き払った安定感など、どう見ても男その物を感じさせるような書きぶり。自分を十分主張するような個性がにじみ出ている字のように思えてきます。
 細心の女心が漂うような、微妙に柔らかさのある精緻な温かさの見える書ではありません。
 自分の娘(後の孝謙天皇)を、どうしても天皇にと、いう強い思いがあった光明皇后の気の強さみたいなものが浮かんでくるようにも、不思議なことですが、思われます。

 それにしても、この飯亭寶泥氏
 「なんでも、よう知っているのう。てえしたもんじゃのう。」と、思わずにはおられません。

 

 これは楽毅論の最後に付記した光明子の署名です。
 皆さんはどう思われます?。「十」のやけに大きすぎるのはどうしたことでしょう。でも、私は、この「藤三娘」という字が昔から好きでした。いまも、やはり好きですが。緊張感がたち消えたような柔らかな感じがする少々誇り高き女性その者の字だと、思われませんか。
 でも、私は、こんな男っぽい字ですが、今でも好きです。歴史を深く物語ってくれる様な、旦那様の聖武天皇の書とは、又、違ったすてきな書だと思っています。

文字八存

2009-11-10 14:45:59 | Weblog
 「文字八存」というのは、「吾輩は猫である」の最初の挿絵を担当した画家であり、あの豪渓絵葉書の絵を書いた先生でもあった「中村不折」が著した書物です。
   


                     


 この人は画家であると、同時に、書道の大家でもあったのですが、書道の傍ら、殷代からの4千年間に渡るその資料の収集を通して漢字変遷を調べた研究家としても有名な人でもあったのです。
 この本に特別影響されたわけではないのですが、私も、数点ですが、中国の漢字につての資料を持っています。そんなに高価な珍しい代物ではございません。どこにでも転がっているようなものです。
 
 まず、一点目は、これでも漢字かいなと思われるような石の切れ端です。言い伝えによりますと、どこかの中国北部辺りの寺院か何かの石碑の一部を削り取ったものだそうです。
     漢字だとは思うのですが、それ以外のことは一切分かりません。

 次は、戦国時代の貨幣に描かれた文字です。
 貨幣は、最初は、貝であったものが、次第に、農機具(唐鍬)がとって代わり、更に、それではあまりにも大き過ぎて不便だったので、その形を小さくして貨幣専用として造りだされた「空首布」と呼ばれている貨幣が生まれます(文字八存より)。私の持っているのは戦国時代末期のその貨幣らしいのです。
 次の刀形をしたのが、斎の国などで、主に使われていたのが「刀」と呼ばれた貨幣です。
 
 これら戦国時代の貨幣には、どうしてかは知らないのですがです、漢字が、必ず、書きいれてあります。ここに書きこまれた漢字は、どうも、現在のような貨幣の価値を表したのもではないようですが、何を意味しているかは不明です。
 
 最後に、一番下にある丸い貨幣は、秦の始皇帝が造った、全国共通の銅貨です。中央の四角い穴の両側に「半」と「両」という漢字を書きいれ、それまでにはなかった貨幣の価値、[半両]という価を、始めて、示したのです。
 

 漢字には4千年以上の歴史があります。その歴史の重みを受け継いで現在の漢字があるのです。

 「いってえ、おめえのはなしゃあ後楽園じゃあねんか。どけえ、いきょんなら」
 と、でも、お叱りを受けそうです。
 たったの一文字、「烘」という字から、こんなへんてこりんな、思いもしなかったような方向に、「流店」から流れ出てしまいました。
 
 「水行く河の蜘蛛手なれば」ではないのですが、いろんな流れとなって流れ出るのは、まあしようがございません。流店から流れ出た水が八橋に通じているのですから。


    なお、コメントくださったSuzukaさんへ! 
 八橋の「落ち」としてはとは、これぐらいでいかがでしょうか? 物の思いをほのめかすぐらいにはならないでしょうか。 

藤三娘に逢いたくて

2009-11-09 08:53:27 | Weblog
 今、奈良で正倉院展が行われています。その中に、今年は、光明皇后の楽毅論が展示されていると聞いて、それを旅の第一の目的にして出かけました。
 奈良の国立博物館の会場の中は、人、人、人です。これでは展示作品なんて見ることができるのだろうかと言う有様です。並んでいる人々の最後尾にでもいようものなら、それこそ、百年清河ですが、まあ巧いこと、どうにか、列の中に潜り込む事が出来、待望の楽毅論にご対面できました。それにしても例年になく多い人です。ゆっくり一字ずつ丁寧に見ると言うわけにはいきません。流れに沿って歩むだけです。その流れに三度乗りながら見ることが出来ました。さすが藤三娘だけの気品が感じられる皇后の書です。前回と今回の二度目のご対面でした。

     
 この他、今年は「天皇在位二〇年特別展」と言うこともあって、沢山の宝物が展示されています。琵琶・碁盤・銀製の鹿が打ち出されている器など珍宝が並べてありました。普通なら、それから旧館で古い仏とデイトするのですが、今年は、阿修羅と浮気しようと興福寺へ急ぎます。
 興福寺の仮金堂へ来てみればです。こわ如何にです。人人どころ話ではありません。まさに、ここは人の波です。幾重にも張り巡らされた綱の中を進んでいかなくてはなりません。係員に尋ねると「まあ2時間半は待ってもらわんと」と、言うことでした。仕方がありません。
 「奈良のお日さん、なんでこないにお人がお悪いのでしゃろか」
 と、思えるような日差しの中での二時間半でした。どうにか帰る予定時間にようやく間に合うよう拝むことができました。

 お堂の中央に、あの少年のようなお顔を覗かせていました。六本の手の間から右・中・左と順に拝みました。
     
 
 外に出ると、奈良の秋の夕暮れがぼつぼつお寺の屋根の上に懸かっています。夕陽を浴びた五重塔が輝いていました。

            

夏のなき 秋来る方を・・・・流店

2009-11-07 09:52:09 | Weblog
 今日のテーマ「炎熱を烘る夏のなき」ですが、この「烘」るという字はどう読むとお思いですか。・・・・・・・「あぶる」と、読ますのだそうです。「共」には、大きいと云う意味があるのだそうです。それだけ言うと、もうその意味はくだくだと説明する必要はありません。
 それにしても、漢字は、調べれば調べる程、その奥の深さだけではなく、摩訶不思議さを通り越して、漢文字独特の何とも言えない匂いみたいなものまで感じられ、今更なのように感心しています。大した民族ですね。漢字を作りだした中国人は。
 
 この「あぶる」は、他に、「炙る」「焙る」とも書くのだそうですが、火と共にいるようなうだる暑さの夏を表現するのに、これぐらい適した字はほかにないと思います。

 ちょっと余談が長引きましたが、本題に入ります。
 「流店(りゅうてん)の水」と十勝の一つに数えられている「流店」を詠んだ歌も、また、沢山作られています。
 その代表的な歌を、まず、初めに。言わずもがなの綱政侯の御歌です。

    かげ清く 流るヽ浪に 夏のなき
            秋くる方を みなかみにして
 
 “夏のなき秋”をです。炎熱を烘(あぶ)る夏の最中、爽涼たる流店、そこに憩う人たちはみな清風が快通してくる方、そうです。秋か?と、さえ思わすような風に誘われるように、吹く風に体を向けて、人々が座っていることよ。その風と一緒に、そこいらを清らかに流れる水紋の、何と穏やかなにして静かなことだろうか。
 これぐらいの意味だと思います。


  

 なお、この他、多くの詩歌でも取り上げられています。

 貴島磯麿や黒田 慎は、綱政侯の歌の「夏のなき」を本歌取り風に取り入れて、次のように詠んでいます。
 
   ・水無月の てる日のそらも この殿は
              水と風とに 夏なかりけり
   ・園のうち めくる清水を せきいれて
              夏をよそなる やまかげのいほ

 その他、岡 直蘆も
   ・ゆく水を せきもいれつヽ すヽしさの
              名にながれたる いほはこのいほ
 と詠んでいます。 

 この他  
 「珊々床下鳴環珮」、「牀下水泓々」などと、この「流店」を流れる瀬韻の清らかさを褒め称えた漢詩も見られます。

流店

2009-11-06 08:43:22 | Weblog
 再び、後楽園十勝です。
 暫軒風、延養亭鶴、栄唱橋、二色ヶ岡花に続いて五番目に挙げられるのが「流店の水」です。
 ちょっと寄り道をした「八橋と蘇鉄」の北に、12坪ほどの小さな楼閣があります。これが流店です。楼の中央に一条の水道があり、その流れの中に、京都の加茂川から取り寄せられたといわれる6個の青紫の石が並べられてあります。

 この流れは本来は曲水です。曲がりくねって流れるのが普通なのですが、なぜだか知らないのですが、ここだけが、他よりも全く違って、まっすぐな直線の流れになっていて、何か奇異な感じ醸し出しています。ここにも永忠の物言わぬ意図が隠れていそうです。
 その渠を挟んで左右には対坐して歓飲する事のできるようにと桟板間が造られています。そして、その4面には壁はなく、清風は心地よく四方から流れきて、常に爽涼として、真夏時、遊憩する者をして避暑なさざるなし、といわれる所以です。

         

 園内で、これほど直線を強調した場所は、ここ一か所、「流店」の中の、この渠だけです。後は、総て曲線を主体にした構造を取り入れています。
 でも、この流店の直線の渠には、委蛇した奇石を6個配しています。
 その一つ一つの奇石にぶつかった水が描き出す屈曲した流水紋を、より強調するために、敢て、ここでは真っすぐな渠を造ったのです。
 それによって、曲水のそれ自身が画く屈曲の流水紋よりも、もっと効果あらしめる、常に、瞬時に異なる意図しない自然な美しい水の線が見られるように造られたのです。

「滴一滴」

2009-11-05 11:29:19 | Weblog
 この前、この欄で取りあげた「土と日のオブジェ]展についての記事が今日の山陽新聞の「滴一滴」にでています。
 
 それによると、かって、岡本太郎が
 「からだじゅうがひっかきまわされるような気がしました。やがて、なんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです。」
 と、縄文土器との出会いの印象を、こう記していたのだそうです。

 この展覧会は、随分、前に始まっていたのに、どうして今頃と、思うには思うのですが。

 この記事の中で、少々気に懸ることがありますので書いてみます。
 
 この欄の記者氏は
 「奔放な躍動感が脈打つ縄文と静的な造形美の弥生」と、縄文弥生を的確に小学生でも知っているようなごくありふれた一般的な言葉を使って、この展覧会を報じています。
 どうもそれでは、この欄のこの欄たらしめる記者の使命を自ら殺してしまっているのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

 どこかの学者か誰かが言っているような決まり切ったような平凡な論調ではないでしょうか。自分の心を、というか、自分の思いのたけを、一杯に繰り広げる必要があるのように思えるのですが。
 これでは、そこらへんに、どこにでも転がっているような薄っぺらなコラムで終わってしまうような気がするのですが? 。岡本太郎のようにとは申しませんが、もっと、もっと書き手の心が読者に伝わる記事をと思いました。未熟な方だとは決して思いませんが。
 これでは、山陽新聞の名だたるコラムとしては、あまりにも、お粗末すぎるのではと思うのは、私一人でしょうか

 みなさんは、どうお思いでしょうか?

 愛する山陽新聞に対して!!

伊勢物語の八橋と後楽園の蘇鉄 ②

2009-11-04 11:07:50 | Weblog
 「いま、男ありけり」です。また、例の飯亭寶泥氏からのメールが届きます。
 彼の曰く;
 「蘇鉄と八橋にちいて書えておられるんじゃが、そげんに愚にもつかんことを、ああでもね、こうでもねえと、見てきたように吹聴するのは、どげえなのんじゃろうかと思うとるんじゃが。おめえの書えておる「八橋」を見て、わしも、もういっけえ、その七・八・九段を読み直してみたんじゃ。・・・
 あんたが言うとりんさるような、そげえな当てつけがましいことを、自分のご主人様に対して、忠臣永忠がする筈はねえとは思うんじゃが、いままで、でえもしたことがねえような、いいかげんなことを思いついたと云う事だけは褒めてやってもええどー。よっぽど暇なんじゃなあ。あんたは・・・
 まあ、わしもお前さんみてえにじゃ、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」じゃないのじゃが、ちょっくら、ちょっくら遊び心を起こしてみとうなってのう、こげんことを思ってみたんじゃが・・・」
 と言うのです。
 土佐日記をここで持ち出しながら、もったいぶって遊び心なんか起こしてくれなくてもよかりそうなのですが、彼も人の子です、飯亭寶泥氏です。相当なひねくれ者です。いつも言うことと為すことが違うことが多いのです。私に負けじと、暇に任せて、ない頭を働かせたことに間違いありません。こんなことを言ってきているのです。

 「九段では、あんたの書えた続きに、「かれいの上に涙おとしてほとびにけり。行き行きて駿河の国にいたりぬ」と、あるんじゃが、その次が問題なんじゃ。「すずろなるめを見ることと思ふに」とあるじゃろう。この「すずろ」という言葉も、あんたがゆうとりんさる「要なきもの」という文句と同んなじ働きがあると考えられるじゃろうが。よう考んげえてみいや。「ある筈がない物を見る」と云うぐれな意味じゃけん。有る筈のないとんでもでもない「すずろなるめをみる」物をこげん所に置いてと、この蘇鉄を見て見学者に非難させることもできるよ。・・・そのためにも八枚の板の仮橋をこけえ置いたんじゃあねえかなあ。・・・・わしの説はどうじゃな」
 と、言うのです。
 「ほん、そんなことはないでしょう」
 と、完全に否定もできませんが、やっぱり、永忠の心をしっかり現わしているのは「要なきもの」を置いて他にないと思います。此の寶泥氏の言うのは、こじつけもいい所で取るに足らないいい加減な戯言だと決め付けてもいいのではと思うのです。でもよく考えてみると私の考えも、彼の考えも、どちらにしても“牡蠣が鼻だらを笑う”類のことだと思います。

         

 そんなことは抜きにして、此の八枚の板橋をご覧下さい。
 「お前たちみたいな、どうでもええようなことをガチャガチャ言わんで、そんなようわからん事にうつつを抜かさんと、ただ、この美しい仮橋の姿だけを見てくれれば、それでいいのじゃ」
 と、訴えているようではありませんか。

伊勢物語の八橋と後楽園の蘇鉄

2009-11-03 16:11:02 | Weblog
 またまた、少々横道にそれますがご勘弁ください。
 もう、存分に皆様にはご承知のこととは思いますが、この「八橋」のある伊勢物語九段をちょっとばかり紐解いてみます。
 まず9段から、その本文をどうぞ。
 
 「・・・・・身を要なきものに思いなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて、行きにけり。もとより、友とする人ひとりふたりして、行きにけり。道知れる人もなくて、まどひ行きける。三河の国、八橋という所にいたりぬ。そこを八橋といいけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰におりいて・・・・・その沢に、かきつばたおもしろく咲きたる。・・・・」
 
 と書かれています。 

 いつも疑問に思うのですが、永忠は、藩主のたっての頼みで蘇鉄園を、この場所に仕方なく植えたとしても、では、どうして「八橋」を、このような蘇鉄よりも、まだ人目につかないような辺鄙な場所に置いたのでしょうか。
 いくら考えても答えは出ないのですが、「沢のほとりの木の陰におりいて」と、いう文の中に、何やらその回答が隠されているようにも思えるのですが?
 そうです。「木の陰」という文の「木」を、敢て、永忠は蘇鉄に置き換えたのではないでしょうか。
 「要なきもの」と、いう書き出しから始まるこの物語と関連付けて、蘇鉄を要なきものと思ってのことではないでしょうか。

 この段の前(七)と(八)段の書き出しには、「京にありわびて」「京や住み憂かりけむ」とあり、そして、この九段の「身を要なきもの」と続いているのです。
 このことからも分かるように、わざわざ「ありわぶ」は「いずらい」、「憂かりける」は「何となく心が落ち着かない」、ときて、最後に「要なき」、そうです、「いらない」と、だんだんにその心を不要に向けて高めていくと言う心理的効果を狙ったのではないでしょうか。
 その為に、ここに伊勢物語の九段の「八橋」を置いて、「蘇鉄はこの庭園には不釣り合いですよ」「大変みっともないものですよ」ときて、最後に「いらない物ですよ」と断定しているのです。
 こんな思いのある「八橋」をここに置く事によって、蘇鉄をここに置くことの非を、ここを訪ねる人に訴えているのではないでしょうか。

 どうでしょう?

フランスのフランコさんより

2009-11-02 08:59:30 | Weblog
 私はブログのブログたるゆえんは知らないのですが、なんとなく勝手に私流に解釈して、3年間ほど、益にも何にもならないような「独り言」を書き綴ってきました。
 通信簿でも、「毎日毎日、飽きもせんと、こげんな、へんてこりんなことを臆面もなく、よお書くなあ、書いた奴の顔が見たい」と、でも評価されているのでしょう、「精勤さ」だけは、まあまあだと「4」を頂きました。
 そんな愚にもつかぬことをを書き綴っている私のブログに対して、久しぶりに、ご丁重なるコメントを頂きました。それもフランスの人からです。「岡山のフランス語」に対するコメントだったのです。まさかフランス発ではないと思いますが。

 フランスのフランコさんと言うお方からの、「後楽園が好きだ」という、コメントでした。
 何か気恥かしいような感じもしましたが、受けてみるとやはり、年寄りですが、人並みにうれしい思いがしますね。
 どこに住んでいらっしゃる、どんなお方かは存じませんが、ありがとうございました。又。後楽園をおたずねください。いつ訪ねられても、それぞれ四季折々の、岡山後楽園ならではの美しさを演出してくれています。
                
                  

 この絵をお国のセザンヌならどう描くでしょうかね。
 「サント・ビクトワール山」の青を目に浮かべ、ここの青と緑の重なりを、どんな風に描きあげられるだろうかと想像しながら、後楽園を見て歩いています。
 このように、ここはあの画家ならどう描くだろうかと、いろいろな場所で思いめぐらすのも、また、後楽園を訪ねる私の楽しみの一つでもあるのです。

藤架と蘇鉄

2009-11-01 17:01:04 | Weblog
 廉池軒の東に藤棚があります。東西二棚に分かれ、東側が赤紫、西側には白です。紫白色の花房を垂れている景色は、初夏の後楽園の、又、趣を異にする奇観でもあります。
 
     藤のたな 夏きてみれば 紫の
               なみうちかけて 花咲にけり   
                          岡 直盧

 此の藤棚の北に、なぜ、ここに永忠は蘇鉄かと思うのですが、いっぱいに葉を伸ばして、後楽園の風景に何か、奇異な感じを与える蘇鉄の園があります。私の好きでない、何時も、無視するように、さっさと通り過ぎる場所です。
 
 その蘇鉄園をぐるっと回ると、東に「かきつばた」の田があり、その側らに、これ又、日本文化を象徴する伊勢物語の三河の八橋を擬して作られている八枚の板の仮橋が架けられています。

            
 
 此の板橋の奥にあるのが蘇鉄園です。

 この「蘇鉄」と「八橋」から、私の、それこそ勝手な想像を何時もしております。まあ、お聞きください。
 
 永忠が、この庭園の造成を綱政侯から承った時には、こんな蘇鉄を、園の中に配置するなどという計画はなかったのではと考えられます?。
 そもそも、この蘇鉄と言う南方の情趣を感じさせるような植物は、四季を配する日本庭園の中に、かって一度たりとも、副題にさえも取り上げられたこともなかったのです。あまりにも、この蘇鉄は、幽深静寂を主目的とする日本庭園には不釣り合いな植物なのです。
 ひょっとしたら藩主綱政侯が、江戸城かどこかで、薩摩あたりの南国大名からでも
 「今度、貴公の岡山に庭園を造られるそうじゃな。・・・そこへ「蘇鉄」を植えてみたらどうじゃな。きっと風情がある庭になると思うのじゃが」
 と、吹聴されたのだはないでしょうか。その言葉が心にあったから、永忠にたっての要望をしたのではないかと想像しているのですが?
 しぶしぶと?、仕方なしに、園の片隅に、正面から見ると唯心山に隠れて見えないような場所に配し、更に、強く懇請した人?に対しての強烈なる当てつけとでも取れるようなものを、日本の代表的な幽寂な風景「八橋」を、すぐ脇に、わざと配したのではとも?思うのですが。

  これで幾分たりとも、永忠の鬱憤が晴れたのやら?

 私の、これも、後楽園を楽しむ方法の一つでもあります。

 どうして、こんなことをと思われるかもしれませんが、いくら捜しても、この後楽園の蘇鉄を詠んだ和歌が一つもないからです。それほど蘇鉄が此の園と似合ない取り合わせだったのではないでしょうか。
 こんな馬鹿げたことを考えるような暇人は、私を置いて誰もいないのではと思いつつ書いてみました。ご批判を頂ければ・・・・。