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 鳩山春子の「初期女学校の思い出」

2009-09-26 10:50:39 | Weblog
 春子の「初期女学校の思い出」と言う一文を紹介します。

 「私が初めて東京に出て来たのは明治7年で、その頃、女学校は文部省直轄の学校が唯一つありました。明治4年の開校で、日本学の読物英語の読物に重きを置いてていました。私は・・・・」
 という書き出しですが、この女学校の名前もどんな人がいたのかその名前も記されてはいません。
 その学校での英語の学習については、最初のうちは、訳読が中心の英語ではなく、会話が中心の英語で、西洋人について問答をしたり暗誦したりすることだったので、随分苦しかったと書かれています。訳を教えてくれる先生はいなかったので、字引にたよりその大意を知ったのだそうです。
 日本学と言うのは漢学の勉強で四書や五経を読んだのだそうです。郷里にいる時(信州松本藩)勉強していたので簡単に分かったのだそうです。英語もだんだんと分ってきたので勉強が面白かったのだそうです。そして毎月試験があって、ずんずん上級に進んだのだそうです。
 また、面白いことには、試験はあるのですが、落第や卒業というものはなかったのだそうです。教科書があるわけでもないし、何を教えようが教師に一任されていたのです。ある時は数級で授業をすることもあり、また単級の者だけですることもあったようです。
 「これだけは覚えていらっしゃい」と、宿題もあったようです。でも、現在のように何をしなければという決まりはなかく、比較的自由に生徒たちに考えさせたようです。
 春子は、毎月試験を受けて二年間で一番上の級に上がったのだそうです。こんなことは、この学校ができて初めてのことだそうです。
 でも一番上の級に上がったとしても卒業することはなかったのだそうです。
 当時と言っても明治八、九年ですが、英語の部では、自然科学の本、動物、植物、物理、化学、歴史、文法、作文、地理等があって、みんな英語で暗誦したり書物を見て答えたりしたのだすです。
 試験と言っても別々な問題を書いた紙きれを折りたたんで盆の上に用意してあるものの中から取り出して、その題によって答えを書くのだそうです。勿論、英語で書くのです。

 こんなことが書かれています。
 この春子と言う人は、信州の松本から十四歳の少女が一人で東京に出てきて学校に通ったのです(自伝によりますと、人力車で通ったとあります)。それも全国でたった一つしかない女学校にです。大変秀才な女の子だったに違いないです。

 そんな一風変わった日本最初の女学校も明治十年には廃校となったのだそうです。