吉備の児島の仕丁から仁徳の新しい恋人八田若郎女(やたのわきいらつめ)のことを聞くや否な大后(おおぎさき)は、わざわざ紀州から採ってきた、船に積んでいた御綱柏(みつながしわ)を「悉投棄於海」と記されています。(ことごとにうみになげうてたまいき)と読ましています。
その葉一枚たりとも船の中には留めず、総てたちまちのうちに海に投げ捨ててしまわれてしまったのです。
怒髪天を衝くどころの話ではありません。逆鱗して怒り心頭に発するばかりの様相でありました。
そしてそのまま天皇のいる難波の都には帰らず川をさかのぼって山城の国に行ってしまわれたのです。
そして、この山城の国にお住いになり天皇のいる難波の都にはお帰りになられませんでした。
これ以降、仁徳天皇の御代では、「吉備」と関係があるような記事は見当たりませんが、この石之日売命の嫉妬と吉備とは大いに関係があったことがお分かりいただいたことだと思います。
なお、古事記の中に、仁徳天皇が淡路島やおのころ島等の島を過ぎ、『佐気都志摩(さけつしま)』を通り過ぎて黒日売を訪ねる場面がありますが、本居宣長は、その古事記伝の中でこの島のことはよくわからないと書いているのですが、「佐気都」そうです『酒津』(現在の倉敷市酒津)のある島(クラレの研究室かある山)ではないかと思います。そこが当時、高梁川の河口で港はあったところです。その酒津で船を降りられて、山越えして(七つ池の峠)、山手(古事記にある山県)にいた黒日売でお会いなされたのではと、私は仮設しています。
古事記には。そのあたりを
「酒津のある島で船を下りて、その島を伝って黒日売のいる吉備の国へ「幸行(いでまましむ)」と書いております。
ここを誰もいまだかって説き明かしたことがないので。あえて私が仮説として新設を出してみました。どうでしょうか。
時代背景はいささか異なるのですが、山手の備中国分寺近くに「その黒姫の塚」であると云い伝えられている前方後円墳もあります。
その葉一枚たりとも船の中には留めず、総てたちまちのうちに海に投げ捨ててしまわれてしまったのです。
怒髪天を衝くどころの話ではありません。逆鱗して怒り心頭に発するばかりの様相でありました。
そしてそのまま天皇のいる難波の都には帰らず川をさかのぼって山城の国に行ってしまわれたのです。
そして、この山城の国にお住いになり天皇のいる難波の都にはお帰りになられませんでした。
これ以降、仁徳天皇の御代では、「吉備」と関係があるような記事は見当たりませんが、この石之日売命の嫉妬と吉備とは大いに関係があったことがお分かりいただいたことだと思います。
なお、古事記の中に、仁徳天皇が淡路島やおのころ島等の島を過ぎ、『佐気都志摩(さけつしま)』を通り過ぎて黒日売を訪ねる場面がありますが、本居宣長は、その古事記伝の中でこの島のことはよくわからないと書いているのですが、「佐気都」そうです『酒津』(現在の倉敷市酒津)のある島(クラレの研究室かある山)ではないかと思います。そこが当時、高梁川の河口で港はあったところです。その酒津で船を降りられて、山越えして(七つ池の峠)、山手(古事記にある山県)にいた黒日売でお会いなされたのではと、私は仮設しています。
古事記には。そのあたりを
「酒津のある島で船を下りて、その島を伝って黒日売のいる吉備の国へ「幸行(いでまましむ)」と書いております。
ここを誰もいまだかって説き明かしたことがないので。あえて私が仮説として新設を出してみました。どうでしょうか。
時代背景はいささか異なるのですが、山手の備中国分寺近くに「その黒姫の塚」であると云い伝えられている前方後円墳もあります。