私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

猪は山より下りて

2009-09-15 13:44:08 | Weblog
 「母を捨てたり」の歌に対して400を越すアクセスがありました。それでと、いうわけではありませんが、朝日歌壇よりもう一首取り上げてみます。

 と言いますのも、私の近所にお住まいのお方(吉備津杉尾)から聞いた話なのですが
 「近頃、杉尾にもイノシシが出てきてのう、そこらじゅうをブルトーザーみてえに荒らしまわって困っとるんじゃ。わなを仕掛けて居るんじゃが・・・・」
 と、いう話でした。
 

 その困りもののイノシシの歌が14日付けの朝日新聞に載っていました。群馬県の真庭義男と言う人の歌です。

     わが畑の すでに荒地と なりたるを
                  猪は山より 下りて穴掘る

 私の町はそんなに限界集落ではありません。そこそこの町なのですが、そんな処にも猪は出てくるのです。専門家によりますと、穴を掘るのは地中にいるミミズなどの動物を取って食べているのだそうです。
 群馬だけの話ではありません。ここ岡山でも、特別に珍しいというようなとっておきの話ではないのですが・・・・・。
 何か地球がおかしくなってきている証拠なのでしょうか?

母を捨てたり

2009-09-14 20:52:21 | Weblog
 数週間前の朝日歌壇に、次のような歌が出ていました。皆さんはどうお読みですか。

  介護にて 旅行はせぬと 友の言う
           我は施設に 母を捨てたり   弘前市 山内ちから

 この歌の「捨てたり」が強烈に私の胸に飛び込んできて、なかなか離れてくれません。

 私も、かって、痴呆の進んだ母を2,3日ですが、施設に預け入れたことがあります。その時は捨てたなんて思ってはいなかったのですが、この歌を見て、私もやはり母を捨てたのだと気がつきました。もう8年も昔のことですが。

 完全なる介護で、その施設で母も家にいるより安楽な生活ができたものだと思っていたのですが、本当は、私が一方的に施設と言う名の墓場より冷たい所に捨てたのです。
 母の気持ちを思うと、どうして、そんなことがよくも平気で出来たのだろうかと悔恨の思いが胸に突き刺さります。なんて残忍な人間だったか、その時は気がつかなかったのですが。この歌を見て、つくずくそう思いました。

仁徳と彼を囲む女性についてはこれで総て終わります。

2009-09-13 08:43:05 | Weblog
 この黒日売についての話は古事記にだけしかありませんん。日本書紀には取り上げられていません。また、書記に書かれている葉田葦守に帰った兄媛を訪ねた応神天皇の話はこの古事記にはありません。
 そんなことから。古事記にある黒日売の話と書記にある兄媛の話がどうも混同されて、記紀それぞれの書物に書かれたのだという人もいます。本居宣長もその一人で。
 宣長の「古事記伝」を読んでみますと、記にある黒日売の方が、どうも、紀にある兄媛を基にして、まねて作られたのではないかと、思われているようです。
 でも、彼の高弟である藤井高尚先生はこのことについて一切言及されていません。
 
 まあ、そんなことは兎も角として、このように古代の吉備王国は大和政権と深く関わりながら盛衰を繰り返して行ったということは確かなことです。黒日売の物語も真偽のほどはわからないのですが、日本歴史の中に残った吉備を語る時どうしても忘れることのできない大きな一つの事件として記録に留められているのです。

石之日売命の豪快な嫉妬(ねたみ)③

2009-09-12 16:00:58 | Weblog
 吉備の児島の仕丁から仁徳の新しい恋人八田若郎女(やたのわきいらつめ)のことを聞くや否な大后(おおぎさき)は、わざわざ紀州から採ってきた、船に積んでいた御綱柏(みつながしわ)を「悉投棄於海」と記されています。(ことごとにうみになげうてたまいき)と読ましています。
 その葉一枚たりとも船の中には留めず、総てたちまちのうちに海に投げ捨ててしまわれてしまったのです。
 怒髪天を衝くどころの話ではありません。逆鱗して怒り心頭に発するばかりの様相でありました。
 そしてそのまま天皇のいる難波の都には帰らず川をさかのぼって山城の国に行ってしまわれたのです。
 そして、この山城の国にお住いになり天皇のいる難波の都にはお帰りになられませんでした。

 
 これ以降、仁徳天皇の御代では、「吉備」と関係があるような記事は見当たりませんが、この石之日売命の嫉妬と吉備とは大いに関係があったことがお分かりいただいたことだと思います。

 なお、古事記の中に、仁徳天皇が淡路島やおのころ島等の島を過ぎ、『佐気都志摩(さけつしま)』を通り過ぎて黒日売を訪ねる場面がありますが、本居宣長は、その古事記伝の中でこの島のことはよくわからないと書いているのですが、「佐気都」そうです『酒津』(現在の倉敷市酒津)のある島(クラレの研究室かある山)ではないかと思います。そこが当時、高梁川の河口で港はあったところです。その酒津で船を降りられて、山越えして(七つ池の峠)、山手(古事記にある山県)にいた黒日売でお会いなされたのではと、私は仮設しています。

 古事記には。そのあたりを
 「酒津のある島で船を下りて、その島を伝って黒日売のいる吉備の国へ「幸行(いでまましむ)」と書いております。

 ここを誰もいまだかって説き明かしたことがないので。あえて私が仮説として新設を出してみました。どうでしょうか。

 時代背景はいささか異なるのですが、山手の備中国分寺近くに「その黒姫の塚」であると云い伝えられている前方後円墳もあります。

石之日売命の豪快な嫉妬(ねたみ)②

2009-09-10 21:27:42 | Weblog
 今日ひょんな所で、現在、わが吉備津のすぐ傍に位置している、築造の時代を無視して、その大きさだけで比較すると、全国第3、4位の規模を誇る「造山古墳」の観光ボランティアをなさっている人のお話を伺う機会がありました。

 なお、この前方後円墳は5世紀の初めに築造されています。それまで4世紀中に築造された古墳のうち一番大きい古墳は景行天皇陵とされる古墳で、その規模は300mぐらいです。
 その景行陵から4、50年後に造られたのがこの吉備の造山古墳です。大きさは360mにも達しました。当時日本で一番大きかった古墳なのです。
 なお、現在、大きさだけで言えば500mにも達する仁徳天皇御陵が第一位なのですが、この古墳が作られたのは、造山古墳より50年ぐらい後のことになります。

 という事は5世紀の初め頃、この吉備の造山古墳ができた時は日本で一番大きかった古墳なのです。
 4位と言うのは、単に大きさを比べたものに過ぎません。決して4位ではないのです。当時、そうです。5世紀の初めに出来た日本の古墳の中では、この造山古墳が、大和をそれを断然圧するような巨大な日本第一位の古墳だったのです。
 皇后石日売命をだまくらかして、淡路に行くと云って吉備の黒日売を訪ね、この長大なる造山古墳を見て、仁徳天皇が自分のご陵を、この古墳より長大なる500mにしたのだと言われています。

 このようにこの造山古墳は、決して日本第4位ではないのです。日本一位の古墳のです。
 
 こんなことを話されたこの人は岡山県認定の「県観光案内人」一級の検定に最初に合格されたお人です。現在、岡山市高松にお住まいです。
 このお人は、県内のどの観光地の案内においても、第一級のお人なのであります。吉備津神社を始め吉備路の諸寺院は勿論のこと、雪舟・箕作阮甫・緒方洪庵等の歴史的人物は言ううに及ばず、現在に至るまでの県下のあらゆる有名人を知っていらっしゃるお方です。歴史的・地理的・社会的・時間的なもの、総てに渡っての物知り博士たる、県下の一級の案内人なのです。

 この人と話していると、やはり石之日売命の嫉妬を掻きたてる原因を作った児島の仕丁(よほろ)の話が出ました。

 このお話は、まだ、全国は勿論、県下においても、それほど一般化されているとは言い難い事件ですが、知る人ぞ知るで、専門的知識を持った人たちの間には、吉備の国を象徴する出来事の一つであっることは言うまでもないことのようです。

石之日売命の豪快な嫉妬(ねたみ)

2009-09-09 11:13:40 | Weblog
 度重なる夫仁徳の浮気に怒りも最高潮に達したのでしょう、わざわざ紀州まで大軍団を組んで、豊楽(とよのあかりと読み、宮中出の大切な大嘗祭などの大切なお祭り)の際に使う柏の葉を採りって帰る途中に夫仁徳の浮気話を聞いたのです。
 当然、許されようはずはないのです。石之日売命が怒ったなんてなもんではありません、地団太踏んで悔しがります。
 「そんあことがあろうか。今わらわは、わが夫(つま)天皇(すめらみこと)のために、御綱柏(みつながしは)を紀州から採って帰っているのじゃ。そんなはずがあろうか。早速その児島の仕丁をここに連れてまいれ」
 強く命令させ、仕丁の乗っている船を追いかけます。そして尋問します。

 そんなことになるとは知らずに、つい軽く、久しぶりに会った都での知人に、それも、皇后に仕えている倉人(くらひと)に、都の噂としてつい懐かしさも手伝って、天皇の浮気話を話したばっかりの起こった事件です。
 まさか皇后の前に引き出されようとは夢にも思っていませんでした児島の仕丁の慌てようと云ったら、火を見るよりも明らかなことでした。何が突然起こったのかと、どこでどうなっているのかさえ分からず、ただ周章狼狽するばかりでした。それを上官に話した倉人も、どうなる事かと、これまた児島の仕丁同様に驚いた事には間違いありません。覆水盆に返らずのことわざ通り、これからどうなる事かと気が気ではありません。
 この下女たちの運命はいかに?

再び、石乃日売命について

2009-09-08 12:01:57 | Weblog
 一か月ほど仁徳天皇の浮気話から遠ざかっていました。どこまでお話したかなと思いだしてみても、忘れてしまいました。
 そこで、今、もう一回「古事記」を取り出して、黒日売との恋の後の仁徳の浮気話を読んでいます。仁徳も相当ドンファンであったようです。見つかっても見つかっても浮気を止めようとはしなかったようです。男の甲斐性とすら考えていたのでしょうか・・・・

 「もうその話はいい」と、思われるかもしれませんが、まあお聞きください。

 仁徳天皇の大后(おおぎさき)石之日売(いはのひめ)命は大変な嫉妬深いお方であられました。もし、仁徳の恋人にでもなろうものなら、たちまちのうちに、石之日売命のあくどい仕打ちに会い、命まで失いかねません。だから、そんな噂が、朝廷内に広まると、天皇の恋人たちは恐ろしくなってみんな遠くに逃げ隠れます。そのよい例が吉備海部直(あたい)黒日売です。
 この黒日売の後に、出来た恋人が八田若郎女という仁徳の異母妹だったのです。
 その噂を大后の耳に入れるのが、これ又、吉備の国の児島の仕丁(よほろ)となって朝廷に遣わされていた女官なのです。大和政権と吉備王国の関係がいかに深かったかという事がわかります。
 丁度、黒日売が朝廷で行われるお祭りに使う御綱柏を紀州まで採りに行っていた留守の間に起こった出来事だったのです。
 『足母阿賀迦邇嫉妬』(アシモアガガニネタミタマイキ)と読むのだそうです。ものすごく嫉妬したのだそうです。紀州からその柏を採っての帰りの船の中の出来事でした。
 ここまでが前回までの物語です。

 果たして、中村不折の挿絵か

2009-09-07 11:43:29 | Weblog
 私が、かの飯亭寶泥氏のご指摘のように、不折先生の挿絵について、何かとんでもない破天荒な間違いをしていたのではないかと思い、このブログで取り上げた「吾輩は猫」についての挿絵をすべて洗い直しました。

 
     
 
 その結果は、完全なる私の破天荒なる、即ち、誰もがやったことのないような間違いをしていました。この二枚の絵を除いてです。
 
 
 この不折先生の自画像だとして載せた絵は無論そうですし、その他トチメンボウも孔雀も駅の風景も、更に、「吾輩は猫である」の初版本の装丁も総てです。

 

 これらは総て『橋口五葉』という画家が描いていました。早とちりでした。お許しください。細かく見ていきますと、トチメンボウの挿絵などに押されている落款は明らか「五葉」と読めます。“思い込んだら命がけ”でもないのですが大変なうっかりをしてしまいました。そうしますと、吾輩の猫の「吉備団子」も、私は不折先生のお土産ではとしたのですが、これすら危ういことになりますが、多分これだけは間違いないことだと、私は確信していますが。

 でも、まあ、とんだ赤恥をかいたものです。恐縮至極の至りだと、麻生さんと同じように深く反省してお詫びいたします。

 漱石と中村不折

2009-09-06 11:38:29 | Weblog
 今朝も、また、飯亭寶泥氏からメ-ルが届きました。
 「馬鹿野郎、どうしておめえは、そげんのろまなんか」と言うのです。続けて、
 「第一<しょうらしい>たあ、いってえ何だ。おめえみてえなやつを大馬鹿な破天荒野郎と言うんだ。この前新聞でこの破天荒の事が出とったのじゃが、何も知らなさ過ぎる。ようもそんな突拍子もねえ破天荒な事が出来たもんだな」
 と、みそくそです。
 「単刀直入に言わにゃあ分からんのけえ。誰が不折のことを教えてくれと言った。知っとりんさるんなら教えてつかあせえなと言ったのは、お前がもうちょっとばかりものを知ってるかいな、と思って言っただけのことなのだ。不折の書道論なんて、どうでもええんだ。お前はとくと見たのか。お前がブログに載せていた3人娘の食事場面や猫様の最期の場面の落款を。・・・・・・・あの落款を不折のだと思っていたのか、とんでもねえ間違いをおめえはしとるど。それを気づかせてやろうと思うて、不折を敢て問うたのだ。そうしたら、しょうらしいと、まずくらあなあ、それから、とくとくと誰も知りゃあへんと思うて、いい気きになりやがって、不折の書道論なんか書きやがって。本当に破天荒な奴だ。破天荒とは、こういう時に使うもんなんだ。でえつもけえつもええ加減なやつばかり、近頃、とみに増えやがって、とんでもねえ時代になり下がったもんだ」

 何やら知りませんが、大層なるご立腹のご様子です。書道論がお気に召さなかったのかとも思ったのですが、これすら、ただ、本を読んで書いただけです。おしかりを被るような筋ではないと思います。
 落款とか何とか言っていたが、もしかして、あの落款は不折先生のじゃなかったのか。違っっていたのかも。
 どうすれば確かめられるだろうか。仮に、不折先生のでなかったら、いったい誰のでしょうか?
 吾輩の猫の最期の挿絵を見てみました。
    

 そう言えば不折先生の落款とは多少違うように思えます。
 もう一度インターネットで調べ直します。

 やっと、ありました。

 それによりますと、『漱石先生は、「無暗に法螺を吹くから近年不折に絵を頼むのが嫌になった」と言って、中・下の巻では、その挿絵を浅井忠に頼んだ』とありました。この浅井忠の号が木魚で、この絵にあるような落款でした。
 そうだったのです。私が知ったかぶりをして破天荒に書いただけだったのです。それを間接的にお教えいただいたにもかかわらず、「しょうらしい」なんて言葉を使ったことが悔やまれます。
 「本当に悪うございました。これからもお教えください」と、しょうらしく謝っておきました。

中村不折の書道論

2009-09-05 09:29:17 | Weblog
 吾輩の猫も漱石先生が描いた猫の絵でもって終わりにします。大磯の海水浴場の絵ハガキから始まって、なんだかんだと1ヶ月ばかり横道にそれてしまいました。

 元の話題に戻そうかと思っていた矢先に、また例のメール「飯亭寶泥」氏から注文が入りました。
 「豪渓絵葉書や「吾輩は猫」の挿絵をけえた中村不折という先生にちいて、あんたはよう知っとりんさるんか。知っとりんさるんなら教えてつかあせえなあ」
 と、まことにしょうらしいメールが届きました。

 そうえ言われても、私も4,5枚の「豪渓絵葉書」を持っていることは分かっていたのですが、その不折先生という人が描いたという事は全然知らなかったのです。もちろん中村不折という人もです。
 そこで、早速、インターネットで調べてみて「不折」という人が絵描きだという事を知りました。さらに調べていくと、この人が「吾輩は猫」の挿絵も描いているではありませんか。これも驚くべき大きな発見でした。
 また、彼の本業は洋画家だということも、その他、日本画や書道についても大変な名家だという事も分かりました。 
 よく捜してみると私の書架にも、いままでは、全然、気がつかなかったのですが、彼の書いた書道や美術に関する本があるではありませんか、早速ひもときます。
 彼の一般的な人となり等はインターネットに譲り、これらの彼の美術論や書道論の一部を、私の書画にある本の中から拾ってみました。
 

 その本によると、
 「書の第一の主意は先ずシッカリした力の入った気高い字を書く事。続いて質朴な飾り気のない字を書く事。次では雅な形を書く、面白い字を書くと云う事。・・・・・その古朴な俗気のない高尚な字を書くのは精神教育によらなければならない・・・・精神的な修養が足りなくっては決して品位のある字は書けるものではない・・・」
 と書いてあります。
 更に、字を習い始めるには一點一画から徐に習う事が肝要だと、「龍」の字を例にとって説明されている絵図がありましたのでお見せします。

      

 この中で彼は
 「書の秘訣として上手に書こうとするな。正しい字を書く事が出来ればよい。旨く書いてやろいとか、己の書いたものを見せてやろうなどという誤った考えでは初めから正道ではないと分っているから、到底ものになる筈はない。一字一画で文字に対する趣味を感じて真面目にやるのが道に入る捷径(しょうけい)である」
 とも言っておられます。

    

漱石の描いた吾輩の猫

2009-09-04 18:26:35 | Weblog
 色々と「吾輩は猫」を調べていますと、面白い事実に遭遇しました。そのいくつかを取り上げてみましたが、最後に漱石が描いた「吾輩は猫」の絵をご紹介します。挿絵ではありません。
 
 この物語の初めのほうに、苦沙弥先生が絵を習い始める場面があります。
 美学をやっている友人から、「まず初めは写生から始めよ」と言われて、「成程こりゃあ尤だ。実に其通りだ」と、この先生いたく感心して、その手始めに「吾輩は猫」の写生を試みます。
 その写生した「吾輩」の姿を見て、吾輩が思う場面があります。

 「・・・・彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩(いろど)っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗(じょうじょう)の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝(まさ)るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描(えが)き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯産(ペルシャさん)の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆(うるし)のごとき斑入(ふい)りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色(とびいろ)でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫(めくら)だか寝ている猫だか判然しないのである・・・・」

 この苦沙弥先生自身が漱石先生だとしたら、その漱石先生は実際にどんな猫の絵をお描きになっているか興味津津なところです。
 所が、これ又不思議なことなのですが、その漱石先生が描いている猫が現実にあるのです。

 どうぞ、この文章と比べながら、次の絵を見てください。
    
        

 良く見ると、不思議なことに、物語の中の「吾輩」には目は描かれてないように書かれていますが、実際、漱石が描いた絵にはちゃんと「吾輩の目」は書かれていますが、どちらにしたって、猫様が言うような程度の絵だとは思いますが。
 鑑定団に出したら、果たして、いくらぐらいのお値段になりますやら?
 言っておきますが、決して狸には見ないでください。この絵は正真正銘の猫そのものの絵なのですから。

「吾輩は猫である」と「難有い」

2009-09-03 10:21:31 | Weblog
 「吾輩の猫」のこの世での最後の言葉が「難有い」でした。
 いつも思うのですが。なぜ、漱石は、この「難有い」と言う言葉を一番最後に使ったのだろうかと。「南無阿弥陀仏」だけで終わらせても十分だと思うのですが。

 そもそも「難有い」という言葉は、「有ることが難い、即ち、ありえない」ということから生まれた言葉だと聞いています。めったにないことに出くわしたことに対する神への感謝の意からできたのだそうです。

 私が子供の時です。祖父は、毎朝、近所にある観音様とお大師様をお祭りしている二つの小さなお堂に、晴雨に関わらず、お参りしていました。そなんな祖父の後を、時々、私も一緒について行くことがありました。祖父は、読経が済んで、お堂から出ると、決まって、もう一度、お堂に向き直って深々と首を垂れます。そして、必ず「ありがたや、々、々」と、3度繰り返して言って帰るのが日課でしたいました。

 本当に一心に合掌して唱えていました。その時は、私は、そうするのが、お堂にお参りする時の礼儀作法なのとばかり思っていました。時々一緒になるご近所の年寄りたちも、誰もがみんな私の祖父と同じ仕草をしています。
 だから「なんまいだぶつ・ありがたや」これが私の覚えた最初のお経でした。四,五歳の時だったでしょうか?

 そんなん昔の風景が、いつも「吾輩は猫である」の、この場面を読むと頭を横切ります。

 これからもわかるように、ほんの5、60年前ぐらいまでは、日本で生活していた日本人にとっては、都会であっても、田舎であってもです、所を違えず総ての人々が、今まで生きていたことに対する神に対する感謝の念を、「なんまいだ・ありがたや・ほうれんげきょう」などという言葉で、常に生活の中に取り入れて生きていたように思います。仏様がわれわれの生活とまだまだ結びついていたのです。
 だからこそ、守屋浩という歌い手が歌った「ありがたや」という歌も流行ったのではないでしょうか。今だったらそんな歌は見向きもされなかったに違いないと思いますが。まだ、当時は「有難い」という観念が社会構造の中に幾分たりとも残していたように考えられます。
 お遍路さんの「同行2人」と同じ心だったのではないかと思います。
  
 そんな江戸情緒というか、日本情緒が、まだいっぱい漂う中に生きた「吾輩は猫」様も、やっぱり人の子ではなかった、猫の子だったのではないでしょうか。「猫先生」と、特別尊敬の念を以て三毛子に言われたように学者肌の「吾輩の猫」様ですから、余計に、そんな感情ができていたのではないかとも思われます。
 今まで生きてきて、本当に有難い体験をさせていただき感謝しています。神様仏様ほんとうにありがとうございました。「死んで此太平を得る。太平は死なんなくては得られぬ」。だから、最後を、漱石先生がわざわざ「難有い」を持ってきて終焉にさせたのではと考えているのですが

「吾輩は猫である」と挿絵⑧

2009-09-02 10:50:01 | Weblog
 この2,3日、やれ300だ、やれ100だとか、日本中が、大揺れに揺れ、「サプライズ」を十分に見せてくれましたが、ようやく308という数字で決着が着がついたようでした。
 秋色を見せだした暇な夜長を、そんなものに私自身も揺れ動かされながら、その「サプライズ」とやらを十分に楽しませて戴きました。

 さて、「吾輩は猫である」も、この「サプライズ選挙」と同じように、知らないうちに随分と長くなりました。選挙の「風と共に去りぬ」とも思いましたが、後2、3回ほど書く材料があります。それほどの価値も何もないのですが、ついでのことに書いてみますので、どうぞお笑いください。

 この本の初版本の挿絵は、これまで、累々と書きなぐって来たように、あの豪渓絵葉書の中村不折先生がお描きになっておられます。その最後の書かれた挿絵をお見せします。

         

 もうお分かりのことだと思います。主人公の猫様がビールを飲む場面とそのビールに酔った勢いで甕の中に落ち、這い上がろうと必死にもがく猫様の赤裸々な姿を絵にしたものです。
 
 その最期の場面を、漱石先生は

 「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支(さしつか)えはない。ただ楽である。否(いな)楽そのものすらも感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)々々々々々々。ありがたい々々々。」
 
 と、書いています。

 死の場面をこんなにもリアルに描き出す作家がこの先生を置いて他にいようかと、思うくらいうまい文です。さすが文豪です。いつもこの部分だけは2,3回繰り返して読んでいます。

 「日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る」
 粉韲(ふんせい)とは、辞書によりますと、こなみじんにするという意味だそうです。死とは、こんなものだろうと漱石先生が思っていたということは確かです。経験がないので、漱石先生にしても、あまりよくはわからなかったのでしょうが、時間を超越して、空間までなくしてしまって、何にも無い、ただ、だだっぴろい模糊とした死の世界をこんな風に描いております。

 「南無阿弥陀仏。・・・・ありがたい」。これがこの物語の最後です。

 最後の「ありがたい」とは何でしょうかね。


 

又も、飯亭寶泥氏から

2009-09-01 17:40:09 | Weblog
 与謝野氏の落選(比例では当選)について書いたのですが、飯亭寶泥(いいてえほうでえ)氏を、又も、煩わします。
 
 氏の曰く、
 「与謝野氏の落選は、〈油断大敵〉という安易な言葉で説明がつくほど簡単なものではないのだ。今度の選挙で、自民党のどいつもこいつも、そんなあんたが書いたようなへんてこりんな英語か何だかしれんが、油断大敵なんて余裕があるやつは一人もなかったのじゃあないのか。見てみいな、選挙中の、あの慌てぶりを、みっともねえといったらありゃせんじゃあねえか。中には、土下座までして「当選させてやって下さい。男にしてください」だなんかと、涙を流さんばかりに言っている、ど阿呆野郎までいたではないか。責任と取ると大見えを切っておきながら、自分の今までにやったことが分からない輩の当然の結果であって、起こるべくして起こったもので、大敗ではない。なるべくしてなった当たり前の結果なのだ。自民党の屋台骨が腐っているのにも気が付きもせんで、今まで通りの選挙をしたから負けることはわかりきっていながら、それもわからず、ただ無暗に突っ走っていたのだ。負けるべくして負けたのだ。当然の結果だ。・・・・そんなこともわからんくせに、あの選挙に平然と出馬するのも、すでに、“世の中を見渡すと無能無才の小人程、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだ”の類の人種なのだ。与謝野もそのうちの一人だ。同情するに価せん」

 と。どうでしょうかね。

 内緒ですが、この飯亭寶泥氏も、かっては大の自民党の贔屓だったのでとは?  「人間は、臆面もなく常に変身する動物である」が当たり前の世の中、今後、これら日本の政治はどのように変身しますやら。
 でも、「吾輩は猫」氏の言うように、「凡ての安楽は困苦を通過せざるべからず」で、この後は多少なりとも、与謝野氏を始め自民党の面々は、変身するだろうと、期待をしています。