鳩山新総理の「友愛」とは、一体なんであろうかと思い久しぶりに、例の漢文の先生を訪ねました。
その先生、玄関に出迎えると、挨拶もそこそこ
「よう来た。もうそろそろ来るころじゃと思うておった」
と、手を引っ張るように迎えてくれます。
「それにしても、民主党は取りすぎじゃ」と開口一番。半年ぶりと言う事もあったのでしょうか、次から次へと、例の難しい漢語が容赦なく口から飛び出してきます。
「言必ず信あり、行い必ず果たす。斗筲(とそう)の人ではないのだから」
と言うのです。
「斗筲、そりゃなんじゃ」と、私。
「では、講義したろう」
途端に大学教授に早変わりです。
「昨日もテレビを見ておってな、新しい総理、鳩山由紀夫の言葉には真実味が見えとった。きっと約束したことはやる。目先の小さな事しかできないような人ではないと思う。百年先まで見通しているのかどうかはわからんが。まあそん意味だよ。斗筲と言うのは一斗二升の小さな入れ物を言うのじゃ。久しぶりのコリャ大物政治家じゃ」
と、べたぼれです。支持率は72%のはずです。この政治嫌いの先生をしてこうなんですから。
それからしばらくは、これからの日本の経済・外交、教育等の政治全般についての漢文があちらこちらに覗きながらの鋭い論評が始まります。私は、ただ、黙って聞くだけです。彼のお話が一段落してから、ようやく私の出番です。
「なんだ。友愛か」と、さも胡散臭そうに言うのです。
「そうか。愛か。これについて語れば、また、長うなるけえ。まあ簡単に説明してやらあ」
と、本棚から一冊の分厚い本を取り出して私の前に置きます。「論語」と書いてあります。
そんな本なんかどうでもええはと、私は思っているのですが、そんなことには無頓着を決め込んで、その論語の本をめくります。
「見てみな。その愛と言うのがとても厄介な言葉でのう。この論語の中でも有るにはあるのじゃが、確か1,2か所ぐれえだと思うのじゃが・・・・論語にもそうじゃが、[友愛」という言葉は、中国の古典には、総てに目を通したわけではないが、どうも今まで見たことがないように思う。・・・それから、その愛という言葉じゃが、おもしれえことに、あの唐詩選の中にも、みえんようにおもえるのじゃが、確かに酒を愛するとか何とか云うのがあったようにも思えるのじゃが。要するに、中国では日本と違って、愛は詩にならんのじゃないかな。・・・それはさておき、人(民)を愛するとか、親を愛するとか、自分を愛するとかという事には使われているのだが、友については、ほとんどの場合は、敬という言葉が使われているようだ。だから、友愛なんて言葉がないのだと思うよ。愛は自然発生的な情愛を言う場合に使われており、それに対して、人の心の働きが重きをなすような友だち等に使う場合は、むしろ、敬という言葉が使われているようじゃが。だから、友愛という言葉は中国にはないのじゃないかなー・・・・愛は地球を救うなんて簡単に日本人は使っているが、言葉の持つ本来の意味からすると、この場合は、愛でなくて敬という言葉のほうがより適切な言葉となるようじゃが」
それから、しばらく彼の菜園等も身の周りの話が続きますが
「どうでもええようなことじゃが。君、こんな言葉もあるのじゃ。知っておいてもええじゃろう」
と、そこいらにあった紙切っれに、例のこぎたないミミズ字で書いてくれました。
愛民者彊 不愛民者弱
と
その紙切れをつかんで、
「これは、民を愛する者は強く、愛さない者は弱いと、読むんじゃ。意味は言わんでもわかるじゃろうが、自分の子をいとしむように国民を思わなかったらしっぺ返しを食らうのが当然じゃ。だから自民党が負けたのじゃ。敬ではいけないのだ愛でなくてはね」
そうして、また、例のかんらからからとの大笑いです。それを期に、彼の家から退却しました。
赤とんぼが穂を垂れた稲田の上を心地よさそうに飛んでいます。
その先生、玄関に出迎えると、挨拶もそこそこ
「よう来た。もうそろそろ来るころじゃと思うておった」
と、手を引っ張るように迎えてくれます。
「それにしても、民主党は取りすぎじゃ」と開口一番。半年ぶりと言う事もあったのでしょうか、次から次へと、例の難しい漢語が容赦なく口から飛び出してきます。
「言必ず信あり、行い必ず果たす。斗筲(とそう)の人ではないのだから」
と言うのです。
「斗筲、そりゃなんじゃ」と、私。
「では、講義したろう」
途端に大学教授に早変わりです。
「昨日もテレビを見ておってな、新しい総理、鳩山由紀夫の言葉には真実味が見えとった。きっと約束したことはやる。目先の小さな事しかできないような人ではないと思う。百年先まで見通しているのかどうかはわからんが。まあそん意味だよ。斗筲と言うのは一斗二升の小さな入れ物を言うのじゃ。久しぶりのコリャ大物政治家じゃ」
と、べたぼれです。支持率は72%のはずです。この政治嫌いの先生をしてこうなんですから。
それからしばらくは、これからの日本の経済・外交、教育等の政治全般についての漢文があちらこちらに覗きながらの鋭い論評が始まります。私は、ただ、黙って聞くだけです。彼のお話が一段落してから、ようやく私の出番です。
「なんだ。友愛か」と、さも胡散臭そうに言うのです。
「そうか。愛か。これについて語れば、また、長うなるけえ。まあ簡単に説明してやらあ」
と、本棚から一冊の分厚い本を取り出して私の前に置きます。「論語」と書いてあります。
そんな本なんかどうでもええはと、私は思っているのですが、そんなことには無頓着を決め込んで、その論語の本をめくります。
「見てみな。その愛と言うのがとても厄介な言葉でのう。この論語の中でも有るにはあるのじゃが、確か1,2か所ぐれえだと思うのじゃが・・・・論語にもそうじゃが、[友愛」という言葉は、中国の古典には、総てに目を通したわけではないが、どうも今まで見たことがないように思う。・・・それから、その愛という言葉じゃが、おもしれえことに、あの唐詩選の中にも、みえんようにおもえるのじゃが、確かに酒を愛するとか何とか云うのがあったようにも思えるのじゃが。要するに、中国では日本と違って、愛は詩にならんのじゃないかな。・・・それはさておき、人(民)を愛するとか、親を愛するとか、自分を愛するとかという事には使われているのだが、友については、ほとんどの場合は、敬という言葉が使われているようだ。だから、友愛なんて言葉がないのだと思うよ。愛は自然発生的な情愛を言う場合に使われており、それに対して、人の心の働きが重きをなすような友だち等に使う場合は、むしろ、敬という言葉が使われているようじゃが。だから、友愛という言葉は中国にはないのじゃないかなー・・・・愛は地球を救うなんて簡単に日本人は使っているが、言葉の持つ本来の意味からすると、この場合は、愛でなくて敬という言葉のほうがより適切な言葉となるようじゃが」
それから、しばらく彼の菜園等も身の周りの話が続きますが
「どうでもええようなことじゃが。君、こんな言葉もあるのじゃ。知っておいてもええじゃろう」
と、そこいらにあった紙切っれに、例のこぎたないミミズ字で書いてくれました。
愛民者彊 不愛民者弱
と
その紙切れをつかんで、
「これは、民を愛する者は強く、愛さない者は弱いと、読むんじゃ。意味は言わんでもわかるじゃろうが、自分の子をいとしむように国民を思わなかったらしっぺ返しを食らうのが当然じゃ。だから自民党が負けたのじゃ。敬ではいけないのだ愛でなくてはね」
そうして、また、例のかんらからからとの大笑いです。それを期に、彼の家から退却しました。
赤とんぼが穂を垂れた稲田の上を心地よさそうに飛んでいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます