私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  68  

2008-12-12 18:07:54 | Weblog
 ちょいと真備の話を後回しにして、又、横道にそれます。
 と言うのは、今朝の朝刊に、「卑弥呼の力、淀川にも?」と言う記事が出ていました。大阪府枚方にある「禁野車塚古墳」が邪馬台国の卑弥呼の墓だという箸墳(はしはか)古墳と相似墳であるというのです。
 この箸墳古墳は、有る説によると考霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそびめ)の墓であるとも言われます。
 話が飛びますが、前にも記したのですが、この皇女は大物主神の妻となっていますが、その年は既に百七八十歳になっていたという。ちなみに、その弟、我が「吉備津彦命」は御歳二百二三十歳で、なお、出雲振根の征伐に行っています。兄弟共に長生きです。孝霊天皇も百七二歳まで生きておいでです。(那珂博士の上世年紀考より) 
 この倭迹迹日百襲姫命は、今も吉備津神社の本宮社に考霊天皇などと一緒にお祭りされています。
 と言うことは、卑弥呼だとされるこの倭迹迹日百襲姫命は吉備から出て大和に移ったのではないかと考えられてもおかしくないというのです。
 その証拠として、箸墳古墳からは、吉備地方にしかないとされている「特殊器台」と呼ばれ祭祀土器が出土しています。
 
 岡山県通史のあの永山卯三郎先生によりますと、卑弥呼は吉備から大和に出て耶馬台国を作ったのではないかとお考えのようです。
 その論拠として、日向から東征された神武天皇が吉備にたった三年いただけで大和に進出することなどとても無理で、本当は数代吉備の土地で、吉備帝都を造りられてその力を十分蓄え、その後、大和へと進んだのだといわれるのです。要するに、百八十一年も生きたといわれる神武天皇は一代ではなく数代をひっくるめてそう呼んだのだろうといわれるのです。
 そうあるとするなら、吉備にある造山古墳などの五世紀初めの日本では1、2の超大型前方後円墳の存在理由がはっきりするのだとも。

 まあそれはともかく、この大阪の禁野車塚古墳のさらなる研究が進めば、もっとも面白い世間をあっと言わしむるような吉備を中心とした劇的な古代史の新事実が見つかるのではと楽しみにしてしています。

 それにしても、閑にまかせてああでもない、こうでもないと、ろくでもないくだらないことをいろいろ考えるということも、案外面白いですね。これも年を取るということなのでしょうか。

吉備って知っている  67  吉備真備⑥

2008-12-11 09:31:01 | Weblog
 記録によりますと、746年には、それまでの下道臣真備から新たに「吉備朝臣真備」に賜姓され、大和朝廷の代表的存在になるなど順調に栄進しています。
 しかし、東大寺造営事業を、橘諸兄の功績にしないために藤原仲麻呂らの策謀によって、大和政権から諸兄達一派が排除されます。その一人として、吉備真備も筑前守、続いて肥後守に左遷されます。56歳の時です。そして、60歳になって、思いもかけない遣唐副使として、再度、唐に派遣されます。
 これも余談ですが、この時の大使は藤原清河(きよかわ)です。彼の父親は藤原房前(ふささき)の子です。
 大仏開眼の年です(天平勝宝4年752年)。一行は無事に長安につき、玄宗皇帝と謁見しております。帰国にあったって、今回は阿倍仲麻呂も許されて清河らの乗った第一船で懐かしい日本へと帰国の途に着きます。沖縄までは到着したのですが、そこから奄美に帰る間に、不運にも船が行方不明になります。なお、この時、第二船には、あの鑑真の姿があったと伝えられています。彼はめしいとなりながら、何回目かでやっと日本に来ることができたのでした。
 
 このような大任を果たした真備ですが、帰国後再び大宰府に追われています。

吉備って知っている  66  吉備真備⑤

2008-12-10 13:23:31 | Weblog
 唐への留学を19年も勤め、持ち切れないほどのいっぱいの国際的な教養を身につけて帰国した真備は735年には正六位に昇進し、大学助の官につきます。
 この頃、都では疫病が大流行して藤原四家の家長が次々に亡くなり橘諸兄が政治の中枢に付くと、真備はいっそう重用されます。女性として初めて皇太子となった聖武天皇の皇女(母はあの光明皇后)阿倍内親王の東宮学士となります。当代きっての国際感覚を持つ博学者の真備に白矢が当たるのも当然だといわなければなりません。五経や三史、即ち、禮記と漢書を進講します。

 なお、又横道にそれるのですが。この期、平城京の天皇には元明天皇、続いて元正天皇と女帝が続き、そして聖武天皇を挟んで、次が又、孝謙天皇も女帝です。
 それぐらい女帝が当たり前の時代に、聖武帝の后、光明子が天皇にならないのはちょっと不思議ですが、天明は天智天皇の娘で、元正は元明の子です。すべて天皇と血統が繋がっているのですが、光明子は藤原氏の出です。天皇には血筋からいっても決してなれなかったのです。

 このような重要な任務の傍らに、真備は、当時、聖武天皇の発願により造営中であった東大寺の造東大寺長官になております。鎌倉の時代に、重源の後を受け継いで同じ吉備出身の栄西が東大寺勧進に成ったのも何かの因縁見たいなものがあったのかもしれません。

 
 

吉備って知っている  65  吉備真備④

2008-12-09 14:19:26 | Weblog
 吉備が生んだ歴史的人物「吉備真備」、今日で4回目になりますが、もう少々お話ししたいことがありますのでお付き合いください。
 この真備は音楽【特に琵琶】や書道や刺繍など唐の文化についても多くのものを学び帰国しています。
 これはあまり知られていないのですが、囲碁も真備によって日本にもたらされたのです。

 こんなこぼれ話もあったとか。

 ある時、玄宗皇帝は、真備の才知をためそうと宮廷によび、「大臣の玄東と碁の勝負をせよ」と命じます。すると、真備は囲碁のルールさえろくに知らなかったのですが、「わたくしが負ければ命を差しだします、かわりに、勝ったときには暦道の奥義をおさずけください」と願い出たます。そして阿倍仲麻呂の霊に助けられ、1目(もく)勝ちを目前にします。ところが、その時、そばに立って対局を見守っていた玄東の妻「隆昌」が、夫に恥をかかせたくないばかりに、石を1つこっそり飲みこんでしまったのです。
 中国のルールでは対局後に地(じ)の数ではなく、石の数をかぞえて勝敗を決めていました。試合後、碁石を数えてみると、どうしたことか一つ碁石が足りません。不思議に思って、玄宗は不思議な力をもつ鏡で石を捜します。すると、その石が隆昌の腹にあることがわかります。それを知った玄宗は激怒し、隆昌に死刑を命じますが、それを知った真備は玄宗に命乞いをして助けます。この真備の寛大さに心をうたれた隆昌は、その後、廷臣たちが真備をねたんで暗殺をくわだてていることを知り、手引きして日本へ逃がしたというのです。

 多分、作り話だとは思いますが、こんな話があるということは、それだけ唐の都長安での真備の活躍が華々しかったということに他ならないのです。玄宗皇帝は、阿倍仲麻呂と共に、そんな真備が日本へ帰ることをなかなか許さなかったそうです。
 
 でもそれから暫くして、仲麻呂には帰りの許可は出なかったのですが、真備らは許されて帰ります。
 帰りの船も行きと同じく、4隻で、一艘が種子島に着いたほかは、遭難したり南洋の方に流されたりしたらしいのです。だから真備が乗った船は種子島に着いた船だったといえます。聖武天皇の6年(734年)のことです
 命がけの遣唐使ですね。それでも行くというのは、それだけ、当時の中国、そうです唐は、日本人の知的好奇心を揺すぶるだけのものすごい魅力があったのでしょう。
 
 室町まで大勢の日本人が、栄西も寂室も雪舟そうですが、中国に憧れて勉学に行ったのです、命をかけてまで。それほどの学術的宗教的芸術的な魅力があったのです。日本の大先生だったのです。


吉備って知っている  64  吉備真備③

2008-12-08 17:31:23 | Weblog
 真備が生まれたのは持統天皇9年(695年)下級武官下道朝臣圀勝の子として、母が大和国の女性であったため、大和でで生まれ育っています。
 真備は15歳頃平城京の大学に入り、次第にその学才が認められて22歳で唐への留学生に選ばれます。この時一緒に留学したのが、“天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”の阿倍仲麻呂です。記録によると716年であったという。仲麻呂は大和地方の伝統的な名家で出自も真備とは大分格が違っていたようです。
 この時の遣唐使の一行は557人が船四艘に分乗して行っています。彼ら一行は無事唐に着いて、長安では玄宗皇帝に拝謁したそうです。すると楊貴妃にも会ったのでしょうかね。
 まあそれはともかくとして、真備は唐に19年も滞在しています。その間、五経(易経など)・三史(史記、漢書など)・明法(法律学)・算術・天文・暦法・兵法などの学問ばかりでなく、戦略戦術など戦争技法・測量技術・楽器演奏・書道など幅広い実技や教養を身につけて帰っています。
 この遣唐使の中では真備と仲麻呂2人が飛び抜けて優秀で、玄宗皇帝は2人の帰国をなかなか許さなかったそうです。仲麻呂は生涯唐で官吏と活躍します。日本に帰っていたならどんな活躍があったのだろうとも思います。あの藤原氏のその後の活躍も、日本自体も、もっと違ったものになっていたのではとも思えます。
 真備は、19年間も勉学して帰国し、その後の活躍は目覚ましいものがあります。あの、「吉備大臣入唐絵詞」の絵巻物ができるぐらいですから。
 真備を後世の人は「往学盈帰(おうはくえいき)」ー外国に行ってその国の文化を一杯に身につけて帰ってくる人ーと評しています。
 
 なお、余談ごとですが、カタカナは、この「吉備真備」が作ったとも言われています
 

吉備って知っている  63  吉備真備②

2008-12-07 12:27:30 | Weblog
 「真備」は吉備の下道臣の出身です。そこら辺りの関係を、少々入り組んでいますが説明します。
 下道臣に関する資料として、史書には、先にも触れたように吉備王国か滅亡して大和政権の中に組み込まれてしまう一つの原因にもなったといわれる「吉備下道臣前津屋」(ある本に曰:国造吉備臣山)の雄略天皇に対する反逆が挙げられています。
 そもそも、この下道臣は、応神天皇がその妃「兄媛」会いたさにわざわざ吉備の葦守宮に行幸された時に膳手(かしわで)として媛の兄「御友別」が饗応したのにはじまります。その饗応を愛でられて応神天皇がこの御友別の一族に吉備の国を幾つかに分けて分け与えています。
 御友別の長子「稲速別(いねはやわけ)」を、吉備下道国造にして、川島縣をあたへます。これが下道臣の始祖になったのです。
 地域的に言うと、現在の穂井田、箭田、二万、薗、秦、水内、川辺、呉妹、新本、久代、山田など高梁川の西です。なお、稲速別の時代は、更に成羽、近似、湯野、手荘、平川なども下道郡に入っていたのですが、後になって川島川の上にあるということから川上郡と呼ばれ下道郡から切りはなされたのだそうです。
 

 なお、第十代崇神天皇の時に、孝霊天皇の皇子「大吉備津彦命」とその弟の「若日子建吉備津彦命」を吉備の国の平定するために派遣しますが、その後、吉備の国に敷衍したのは弟である若日子建吉備津彦命の子孫でした。その子供に「御鉏(みすき)友耳健日子命」、孫に「吉備武彦」がおり、この武彦の姉が恵行天皇の皇后になり日本武尊をお産みになられます。そんな関係(いとこ同士)で、この吉備武彦が日本武尊の蝦夷征伐の副将軍になるのです。
 まあ、とにかく、ややこしい関係になるのですが、この吉備武彦の子が御友別命であり、その長子「稲速別」が真備の祖先に当たる人になるのです。
 
 簡単に図示しますと次のようになるのではと思いますが
 ・孝霊天皇―若日子建吉備津彦命ー御鉏友耳建日子命ー吉備武彦命ー御友別-稲       速別(下道臣の始祖)・・・(前津屋)・・吉備真備

  これが真備の系図です。
      
 

吉備って知っている  62 

2008-12-06 11:15:04 | Weblog
ついいい気なもんだと浮かれて書いたのですが今日は「がた落ち」でした。もうこれ以上は、よしにして次のテーマに移ります。
 さて、栄西、雪舟、寂室と吉備の生んだ偉人を取り上げてきたのですが、吉備と言うと、どうしても取り上げなければならない人に「吉備真備」おります。
 
 つい最近の新聞に【検定】腕試しという記事を見つけました。その歴史能力を試す欄にこんな設問がありました。
 
 「吉備真備は716年、22歳の時に唐に渡り、留学生として学業をうけた。儒教と史書を学び、阿倍仲麻呂と共に名をあげました。735年帰朝後は、大学を管轄する役所の次官となり、天皇は真備の儒教などの講義を受けられ、大変いつくしみが厚く、「吉備朝臣」の氏姓を賜り、昇進を重ね、右大臣・正二位になった」

 という文と共に、 
 ①唐の都はどこか
 ②日本に儒教を伝えたのはどこの国の人か
 ③真備を大変いつくしんだ天皇は誰か、
などいくつかの設問がしてありました。

 ここにも見られるように、日本の歴史を語る上で、また、奈良の時代を考える上で、どうしても欠かせることのできない人なのです、「吉備真備」は。また、吉備を語る時はどうしても避けて通ることができない人なのです。
 

吉備って知っている  61 細谷川を歩く⑨

2008-12-05 10:04:35 | Weblog
 昨日の私のブログへの閲覧数が、平生はいつもその半分にも満たないのですが、280近くもあり、ついその数に浮かれて、もうこれで次のテーマに移ろうかと思っていましたが、まだ懲りずに、もう少しお話ししてみます。
 まず、この細谷川を詠んだ歌として、
    “真金吹く吉備の山風うちとけて細谷川も岩そそぐなり”
 という後鳥羽院の御歌があります。このほか「夫木集」という歌集にも七首載っています。
 この集には、また、「吉備の中山」を詠んだ歌も、やはり十数首載っています。
 なお、余談になりますが、この「吉備の中山」を詠んだ歌として小倉百人一首の歌人の歌を挙げておきます。
   ・前大僧正慈円
      船止めて契りし神のゆかりにはけふも詠まるる吉備の中山
      (おほけなく浮世の民におほうかな・・・・・・・)
   ・俊恵法師
      雪深み吉備の中山跡絶えてけふはまがねを吹くや煩ふ
      (夜もすがら物思うころはあけやらで・・・・・・)
   ・清原元輔
      誰か又年経ぬる身をふり捨て吉備の中山越えとすらん
       (ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ・・・・・)
   ・大納言経信
      麓まで峰の嵐やすさぶらん紅葉散りくる吉備の中山
       (夕されば門田の稲葉おとづれて・・・・・・)

   ・これは、直接、百人一首の歌人ではないのですが、
    「秋風のたなびく雲の絶え間よりもれいする月の影のさやけさ」の顕輔の父親の顕季の歌もあります。私が好きなので特にあげておきます
      鶯の鳴くにつけても真金吹く吉備の山人春を知るらん
   
 このほかたくさんの有名な歌人が多くの吉備の中山や細谷川の歌を残しています。

吉備って知っている  60 細谷川を歩く⑧

2008-12-04 11:30:54 | Weblog
 小宰相と通盛の恋を「細谷川の丸木橋」と一緒にお話ししましたが、ちょっと、この細谷川をもっと違った面から推察してみました。
 どうぞ、お笑いにならないようにまあ聞いてくださいませ。

 というのは、小宰相の仕えていた上西門院統子と言う人についてです。前にお話ししたように、この人の父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子です。ということは、あの讃岐に流された崇徳院の妹でもあるのです。
 ここからは、かって誰もがなしたことのない私だけの推理です。
 この崇徳院のお作りになった数々のお歌の内、百人一首の中にある歌の発想についてです。
     “瀬を早み 岩にせかるう 滝川の
                われても末は あはむとぞ思う”
 歌についてです。
 この歌は、物の本によりますと、最初は
 “ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末はあはむとぞ思う”
 として作られていたのだそうです。ところが、いつのころからかは不明なのですが「ゆきなやみ」を「瀬を早み」に、「谷川」を「滝川」と改められて、「小倉百人一首」に収められたのです。

 まあそんなこんなを考えてみますと、この歌の背景には、どうも、この頃、妹の上西門院さへ知っていた、当時、都の流行り歌として最も歌われていたと言われる「細谷川」という古今来の名前が崇徳院の心の内に見え隠れしていたのではないかと思えます。だから、最初は「滝川」でなく、「谷川」でなくてはならなかったのです。
 そうです。この歌に詠まれている「谷川」こそ、我が「細谷川」でなければならないのです。
 

 「絶対にそうだ。これこそ真実だ」とは断言できない歴史的な事実も「細」という字もちらちら見え隠れして、この私の推論の前に立ちはだかっていますが、まあいいや。そんな総てを「えいや」とばかりに投げ飛ばして書いています。
 お笑いくださるな。まあ、講談話ぐらいだと軽い気持ちで読んでくださいな。珍説にもならない珍説だぐらいに思って。

吉備って知っている  59 細谷川を歩く⑦

2008-12-03 15:39:21 | Weblog
 さて、一日置いたのですが、ふたたび、平通盛と小宰相へお話しへ戻ります。
 
 講談なら講釈師が見台を扇で「ててんてんてん」と叩くのですが、ここはコンピューターです。そんな意味をこめて間を十分に取らせていただきました。
  
 さて、この付文をもらった小宰相、相手の通盛を小馬鹿にして鼻先であしらったものの、困ってしまうのです。
 「まあ、あの人から今まで何回もらったのか知りませんが、本当に困ったお人だこと。この手紙どうしよう。よりによってこんな牛車の中に投げ入れるなんて。道へでも投げ捨てたいのはやまやまですが、それもできず、ここへ置いておくわけも行かないし。困ったわ」
 と、上西門院のお屋敷につくまで「どうしよう、どうしよう」と思案顔が続きましす。
 「致し方ありませんわ」
 と車から降りるときになって、急いで袂の中にねじ込みます。
 そして何食わぬ顔で女院の元に向かいます。
 そうこうしているうちに通盛から手紙のことなどすっかり忘れてすれて、小宰相は女院にお仕えしていました。
 やや時があって、女院がたくさんの女房たちに、
 「今、そこでこんな手紙を拾いました。一体誰がもらった殿方からの手紙なのでしょうか」
 と、お尋ねになります。
 小宰相は、はっとして袂を抑えたのですがあの手紙はありません。つい小忙しく立ち振舞っていた間に袂からこぼれ落ちたのでしょう。それも運悪く女院の前で落そうなんて。
 恥ずかしさで声も出ないで、ただ真っ赤になって俯いているばかりです。
 それを目ざとく見つけられた女院は
 「そうですか、あなたですの、この手紙の落とし主は。そうですか、あなたですか。まあよろしい。そこに座りなさい」
 と言われます。ますます真っ赤になりながら小宰相は穴でもあればと、甚く恐縮します。
 「ねえ、小宰相や。聞くところによると、あなたは通盛さまからのお便りをもうな十回と頂いておりながら、返事を一回も出さず冷たくあしらっておられると聞きました。そんなに強情を張るものではありませんよ。あなたの身にとっても決して良いものではありませんよ」
 温かくお諭しになられます。
 「そうだ。私がこれからあなたに代わってお手紙を通盛さまへ書いてあげます。いいですね。」
 と言って女院は御側に置いたあった筆を取り上げてすらすらと通盛へのご返事をお書きあそばされます。
 その中に取り上げになられた歌が
  “たがための 細谷川の 丸木橋
               踏み返しては 落ちざらめやは”
 という歌でした。
 「細谷川の丸木橋からなんから落ちることがありましょうや。決してあなたは落ちたりはしません。私はあなたを待っています」と、いうぐらいな意味だそうです。
 これから二人は急速に親密度を増して誰もがうらやむような激しい恋人同士になります。
 でも、歴史とは皮肉なもので、この二人の恋は平家の滅亡とともに未完に終わります。
 通盛は一の谷の合戦で戦死し、また、小宰相は、それを聞いて、屋島へ向かう船で海の藻屑になってしまいます。

 この話は平家物語の中に書かれています。あるはずもない架空の「細谷川の丸木橋」が流行り歌として、人々の口に上り、実際にあるかごとくに人から人へと伝わっていったのです。
 でも、この事実を知らない人が、細谷川の目の前にある標石と丸木を目にしたならば、どう思うのでしょうかね。
 吉備津に住む者としてはちょと気恥ずかしい思いもしますが、まあ、それぐらいこの川が当時の社会では陰の光として脚光を浴びていたことも歴史的な事実です。

吉備って知っている  58 細谷川を歩く⑥

2008-12-02 19:28:08 | Weblog
  もう40年以上も昔から、戦後の激動の昭和史と一緒に歩んできたと言っていい吉備津神社の朝詣会は、この12月1日をもって最後となり、大勢のフアンと共に惜しみながら、いつもの通りの豆ごはんと誠に質素なおかずに、それでも感謝しながら舌鼓を打ちました。
 私は、これが最後ということもあり倉敷から2人の友人夫妻を招き一緒に頂きました。
 「どうしてやめるのか。おしいことだな」
 と話しながら、拝殿で最後となる朝詣会のお祓いを受けます。続いて、本殿に上り、中陣に恭しく正座して神の御加護を頂きます。代表者による漆も真新しくなった朱の檀で玉ぐし奉奠も済み、再び拝殿へと階段を降ります。
 いつもながらの朝のすがすがしさが誰もの身をも包み、敬けんな思いが胸に押しいるようでもあります。人々は、ただ、無言で、自分では決して発てない足音を、それでもなお探すがごとくに一歩一歩いとおしむ様に降りています。
 神殿から拝殿までのたった七段の歩みがこれほど重々しく感じることは他では味わうことができない歩みになります。人は誰しも、下を向いて静々と拝殿まで降ります。
 拝殿に降りると、今度は、次の直食(なおらい)へと砂利のお庭を進みます。
 葉っぱをすべて落した大銀杏の木が朝の大空のにつったています。真っ青な空が光っています。
 いよいよ直会の会場です。最後ということもあって近来まれなる大盛況、大勢の人が、直会の会場の隅に、また、待合の椅子に腰をおろして無言で、黙々とただ順番の来るのを一途に待つだけです。今朝の賄い方の大変さを思って待つだけです。 赤白の衣装をひらめかせながら巫女さんたちも額に汗しながら小忙しく賄っています。

 ようやく順番がやってきました。ここでは待つということは、普通のお店やんかとはまた違った、もっと何か楽しみみたいな妙な気分にさせてくれるようでもありました。
 やるせないせつないような今朝だけしか味わえない特別な最期の朝詣会の直会でした。

 そなん朝詣会を済ませ、遠来の友を案内して、これもまた吉備津だけの特別な秋の風景である「もみじせぬ細谷川」に案内しました。
 「これは真っ赤にならない種類のモミジを植えているのだ。きっとそうだ」
 「きっとそうだ。わざわざそんな木を選んで昔の人が植えたのだよきっと」
 「もみじが赤くならないのはちょっとばかり変だが、この赤ではない黄色も又なかなか いかすよ。細谷川とあうんじゃない。いや絶対に合う」
 てんでバラバラそんなことをてんでに口々におしゃべりしながら、2、300mぐらいしかないのですが、自分達の細谷川の秋、を結構楽しんでの散策でした。

 四節を持つ日本人であってよかったとしみじみ感じた平成20年12月1日でした。

 

吉備って知っている  57 細谷川を歩く⑤

2008-12-01 20:21:28 | Weblog
 藤原経衡の大嘗祭の歌の石碑から、少し後戻りしますが、成親の墓から九十九折りの山道が下って、突然、視界が開けたる辺りに、再び、深い細谷川の流れを目にすることができます。ここの水の流れは涸れることがなく、年中、「さやけさ」が聞こえます
 その谷川のすぐ側に「細谷川の丸木橋」と書かれた小さな石柱があります。そこには、ご丁寧に、誰が置いたのかは知りませんが、ちゃんと今も細い丸木が渡してあるではありませんか。人が通ることはできませんが。
 細谷川の丸木橋のつもりでしょうが、考え方もその木も誠にお粗末と言わざるを得ません。

 さて、では、どうして「細谷川の丸木橋」なんて言葉が、当時の都「京」で流行ったのでしょうか。今日はそれについて話してみましょう。
 それは「平氏に非ずんば人にあらず」の平家全盛の時代です。
 その頃、都では、
 「・・・・細谷川の丸木橋、渡るにゃ恐し、渡らねば 恋しい人に 会えはせぬ・・・・」
 という流行り歌が頻りに人々の口に上っていたそうです。
 末法の世です。大風、地震、大火事、伝染病、更にはそのうえ武士による戦いなどで、人々はただおろおろと不安な毎日の生活です。明日への希望なんてとんとなしです。その日その日をただ面白ろ可笑しゅう暮らせればと、なげやりな世相が人々の暮らしに満ち溢れていたようです。その世相とこの歌がちょうど合ったのでしょ随分と流行ったらしいのです。吉備の国の歌が旅人を通じて都へ伝わったのでしょうか?
 「細い・丸い・恐い・恋しい」そんな言葉の響きや感覚が、何かしら都の当時の人々の心に通じるものがあったのかとも思えます。

 この当時の庶民の間での流行り歌を自分の恋文の中に使った人がいます。平清盛の孫の「平通盛」という人です。
 その当時、上西門院(父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子)の女房に「小宰相」という、それは大変美しい人がおりました。何かの折に彼女を一目見て、通盛は好きになり、しきりに恋文を送ります。何回となく送っていたのですが、彼女からは無しの礫です。ちょうど20回目、「今日がだめならきっぱりと諦める」と誓って、最後の恋文を、使いの少年に託します。
 少年は、小宰相の牛車が通る機会を狙っていたのでしょう、通盛からの恋文を彼女の車に投げ入れます。
 「ふん、なんて下品なお方。庶民のはやり歌なんかを使ったりして。それに、奥方様までいらっしゃるくせに。いい加減にあきらめたらいいのに」
 と、ろくに見ようともせず、そのまま、牛車の隅に投げ置きます。
 この通盛の小宰相への最後だと思って送った恋文の中に書かれていた歌が
   “わが恋は 細谷川の 丸木橋
               踏み返されて ぬるる袖かな”
 です。

 さて、この通盛と小宰相の恋はいかになりますやら。明日にでも。