私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  64  吉備真備③

2008-12-08 17:31:23 | Weblog
 真備が生まれたのは持統天皇9年(695年)下級武官下道朝臣圀勝の子として、母が大和国の女性であったため、大和でで生まれ育っています。
 真備は15歳頃平城京の大学に入り、次第にその学才が認められて22歳で唐への留学生に選ばれます。この時一緒に留学したのが、“天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”の阿倍仲麻呂です。記録によると716年であったという。仲麻呂は大和地方の伝統的な名家で出自も真備とは大分格が違っていたようです。
 この時の遣唐使の一行は557人が船四艘に分乗して行っています。彼ら一行は無事唐に着いて、長安では玄宗皇帝に拝謁したそうです。すると楊貴妃にも会ったのでしょうかね。
 まあそれはともかくとして、真備は唐に19年も滞在しています。その間、五経(易経など)・三史(史記、漢書など)・明法(法律学)・算術・天文・暦法・兵法などの学問ばかりでなく、戦略戦術など戦争技法・測量技術・楽器演奏・書道など幅広い実技や教養を身につけて帰っています。
 この遣唐使の中では真備と仲麻呂2人が飛び抜けて優秀で、玄宗皇帝は2人の帰国をなかなか許さなかったそうです。仲麻呂は生涯唐で官吏と活躍します。日本に帰っていたならどんな活躍があったのだろうとも思います。あの藤原氏のその後の活躍も、日本自体も、もっと違ったものになっていたのではとも思えます。
 真備は、19年間も勉学して帰国し、その後の活躍は目覚ましいものがあります。あの、「吉備大臣入唐絵詞」の絵巻物ができるぐらいですから。
 真備を後世の人は「往学盈帰(おうはくえいき)」ー外国に行ってその国の文化を一杯に身につけて帰ってくる人ーと評しています。
 
 なお、余談ごとですが、カタカナは、この「吉備真備」が作ったとも言われています