私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  65  吉備真備④

2008-12-09 14:19:26 | Weblog
 吉備が生んだ歴史的人物「吉備真備」、今日で4回目になりますが、もう少々お話ししたいことがありますのでお付き合いください。
 この真備は音楽【特に琵琶】や書道や刺繍など唐の文化についても多くのものを学び帰国しています。
 これはあまり知られていないのですが、囲碁も真備によって日本にもたらされたのです。

 こんなこぼれ話もあったとか。

 ある時、玄宗皇帝は、真備の才知をためそうと宮廷によび、「大臣の玄東と碁の勝負をせよ」と命じます。すると、真備は囲碁のルールさえろくに知らなかったのですが、「わたくしが負ければ命を差しだします、かわりに、勝ったときには暦道の奥義をおさずけください」と願い出たます。そして阿倍仲麻呂の霊に助けられ、1目(もく)勝ちを目前にします。ところが、その時、そばに立って対局を見守っていた玄東の妻「隆昌」が、夫に恥をかかせたくないばかりに、石を1つこっそり飲みこんでしまったのです。
 中国のルールでは対局後に地(じ)の数ではなく、石の数をかぞえて勝敗を決めていました。試合後、碁石を数えてみると、どうしたことか一つ碁石が足りません。不思議に思って、玄宗は不思議な力をもつ鏡で石を捜します。すると、その石が隆昌の腹にあることがわかります。それを知った玄宗は激怒し、隆昌に死刑を命じますが、それを知った真備は玄宗に命乞いをして助けます。この真備の寛大さに心をうたれた隆昌は、その後、廷臣たちが真備をねたんで暗殺をくわだてていることを知り、手引きして日本へ逃がしたというのです。

 多分、作り話だとは思いますが、こんな話があるということは、それだけ唐の都長安での真備の活躍が華々しかったということに他ならないのです。玄宗皇帝は、阿倍仲麻呂と共に、そんな真備が日本へ帰ることをなかなか許さなかったそうです。
 
 でもそれから暫くして、仲麻呂には帰りの許可は出なかったのですが、真備らは許されて帰ります。
 帰りの船も行きと同じく、4隻で、一艘が種子島に着いたほかは、遭難したり南洋の方に流されたりしたらしいのです。だから真備が乗った船は種子島に着いた船だったといえます。聖武天皇の6年(734年)のことです
 命がけの遣唐使ですね。それでも行くというのは、それだけ、当時の中国、そうです唐は、日本人の知的好奇心を揺すぶるだけのものすごい魅力があったのでしょう。
 
 室町まで大勢の日本人が、栄西も寂室も雪舟そうですが、中国に憧れて勉学に行ったのです、命をかけてまで。それほどの学術的宗教的芸術的な魅力があったのです。日本の大先生だったのです。