私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  68  

2008-12-12 18:07:54 | Weblog
 ちょいと真備の話を後回しにして、又、横道にそれます。
 と言うのは、今朝の朝刊に、「卑弥呼の力、淀川にも?」と言う記事が出ていました。大阪府枚方にある「禁野車塚古墳」が邪馬台国の卑弥呼の墓だという箸墳(はしはか)古墳と相似墳であるというのです。
 この箸墳古墳は、有る説によると考霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそびめ)の墓であるとも言われます。
 話が飛びますが、前にも記したのですが、この皇女は大物主神の妻となっていますが、その年は既に百七八十歳になっていたという。ちなみに、その弟、我が「吉備津彦命」は御歳二百二三十歳で、なお、出雲振根の征伐に行っています。兄弟共に長生きです。孝霊天皇も百七二歳まで生きておいでです。(那珂博士の上世年紀考より) 
 この倭迹迹日百襲姫命は、今も吉備津神社の本宮社に考霊天皇などと一緒にお祭りされています。
 と言うことは、卑弥呼だとされるこの倭迹迹日百襲姫命は吉備から出て大和に移ったのではないかと考えられてもおかしくないというのです。
 その証拠として、箸墳古墳からは、吉備地方にしかないとされている「特殊器台」と呼ばれ祭祀土器が出土しています。
 
 岡山県通史のあの永山卯三郎先生によりますと、卑弥呼は吉備から大和に出て耶馬台国を作ったのではないかとお考えのようです。
 その論拠として、日向から東征された神武天皇が吉備にたった三年いただけで大和に進出することなどとても無理で、本当は数代吉備の土地で、吉備帝都を造りられてその力を十分蓄え、その後、大和へと進んだのだといわれるのです。要するに、百八十一年も生きたといわれる神武天皇は一代ではなく数代をひっくるめてそう呼んだのだろうといわれるのです。
 そうあるとするなら、吉備にある造山古墳などの五世紀初めの日本では1、2の超大型前方後円墳の存在理由がはっきりするのだとも。

 まあそれはともかく、この大阪の禁野車塚古墳のさらなる研究が進めば、もっとも面白い世間をあっと言わしむるような吉備を中心とした劇的な古代史の新事実が見つかるのではと楽しみにしてしています。

 それにしても、閑にまかせてああでもない、こうでもないと、ろくでもないくだらないことをいろいろ考えるということも、案外面白いですね。これも年を取るということなのでしょうか。