私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 9

2008-09-30 15:27:02 | Weblog
 今日取り上げる兄媛は、日本武尊の妃になった吉備穴戸武媛(吉備津媛とも)の妹です。
 
 本題に入る前に、面白い事実に気がつきましたので、最初に、この姉妹2人、吉備津媛と兄媛の年齢差をちょっと考えて見ます。
 景行ー成務(日本武尊の弟){在位60年}ー仲哀(神功){在位78年)ー応神と天皇は続きます。
 すると、景行天皇の子日本武尊と応神天皇との年齢差はざっと考えても150年以上は離れている計算になります。
 すると、この姉妹の年齢差も、やはり、150くらいあったのではないかと推察されます。現代では考えられない話ですが。

 まあ、そんなことは兎も角として、日本書紀の語る「兄媛」は応神天皇の妃です。
 応神天皇が難波の大隈宮に行幸して高台に上り遠望していた時のことです。お側に控えておりました妃「兄媛}が遠く西の方を望み深くため息をつきます。妃のため息を見られた天皇は不思議に思われ、なぜか、と問う。媛は
 「もう長いこと生まれ故郷の葉田の足守にいる親に会っていない、親が恋しいのです」 
 と、言う。愛しい媛を憐れに思われた天皇は、早速、淡路島の海人八十八人を水手(水夫)として遣わし、吉備に媛を送ります。
 兄媛を吉備に送った応神はその愛しさが忘られず“吉備なる妹を会い見つるもの”と歌に詠んで、淡路島、小豆島を経て吉備の葉田葦守宮にやってきます。
 その葦守宮で天皇をもてなしたのが吉備武彦のお子である吉備津媛、兄媛の御兄弟の御友別(みともわけ)命、鴨別(かもわけ)命、浦凝別(うらこりわけ)命などでした。
 「膳夫となして 饗(みあへ)奉る」 と、あります。これに対して応神天皇いたくお喜びになり「悦情(よろこびたまうみこころ)がありて」その一族を吉備の国を分けて恩賞として。御友別命の長子稲速別を川嶋県主などにしたのです。
 天皇が自分の恋人のためにわざわざ遠い吉備の国まで行幸されるのは大変珍しい事です。
 何度でも言いますが、兄媛というのは、姉吉備津媛と同様、男を虜にしては放さないほどの魅力的な、いわゆる「いい女」であったことには間違いありません。

 なお、この時、天皇を饗応した人たちは総て神々となって吉備津神社にお祭りしてありますが、兄媛だけは織部縣は天皇より授かってはいるのもの、吉備津神社にもお祭りされてもいませんし、勿論、県主などの名前もありません。「織部縣を以って兄媛に賜う」としか日本書紀には書かれていません。女性が神になれないということはないのですが。どうしてでしょうか?