私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 3

2008-09-24 19:56:14 | Weblog
 吉備てなんでしょう
 伊弉諾伊弉册(いざなぎいざなみ)の二神の国生みの中にも、吉備子洲という言葉がありました。何時頃かははっきりした数字は不明なのですが、相当古くから「吉備」という名はこの国に存在していたようです。
 この「きび」には、いろいろな漢字が当てはめられています。漢字が入ってくる前からあった国ですから当たり前の話ですが、「寸簸(きび)」「岐備」「岐比」「黄薇」、中には「夜叉国」「広遠国」といった名も見られるそうです(永山卯三郎)。
 さて、吉備津神社にお参りしますと、矢置石を目にします。そこからいよいよ神社の入り口の階段があります。その左右には犬養木堂が書いた石碑が立っています。左側の石碑には[中山鎮地黍稷馨香四時]という字が刻み込まれています。
 
 今日は、ここに書かれています「黍稷馨香」の字を頼りにして、この吉備の起源を探ってみます。
 まず、その石碑を見てください。
      
“吉備の中山は平らけき安らけき地です。そしてきび(黍稷しょしょく)のよい香(馨香けいか)でいつも包まれている”というぐらいの意味だそうです。(例の漢文の先生の説明による)
 では、どうして、犬養木堂は、わざわざ神社の正面の入り口の石碑の中に、こんな字を入れたのでしょうか。
 その昔、神武天皇が九州から大和を目指して東征した時、古事記ではと八年間(日本書紀には三年)も、この吉備の国に留まって、勢力を整えられたと伝えられています。その仮御所が、記紀には「高島」とはっきり書かれています。この「高」が「尊」だと私は思っています。
 さて、神武天皇が、この地にお着きになられた最初の夜です。朝起きてみると一晩の内に、吉備の中山近くに設けられた仮御所の庭に、大変珍しいここだけにしかない異草である八本の蕨(わらび)がはえていたという。長さが一丈二尺(約3.8m)、太さが二尺5寸(約80cm)のとてつもない大きな濃い黄色の蕨が生えていたそうです。この見たこともないような黄色いおおきな蕨が生えたことは、これから先にきっといいこと「瑞祥」であること間違いないと、ここの神人が神武天皇に申し上げます。それを聞いて、天皇は大いに喜び、この国を「黄薇(きわらび)国」とすると言われたのだそうです。最初は「黄薇国」でしたが、次第にきわらびの{わら}が略され「きび」になり、それがいつしか「吉備」になったのだそうです。
 木堂もこんな話を知っていたためにこの漢詩が出来たのではと思われます。

 でも、大方の人の説は、やはり吉備は黍で、粟【安房・阿波】や木【紀】の国と同じように黍【吉備】から付いたとしています。
 古事記伝の中で本居宣長も、「名は黍(きみ)より出たるなるべし」しています。【古事記伝5二十二葉】

 でも、黄薇国のお話の方が何かほのぼのとした面白みがあるように私には思えるのですが、いかがです。黍が吉備では当たり前すぎて味も素っ気もありませんもの。