私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 1

2008-09-22 21:58:15 | Weblog
 吉備津だけではなく、吉備津神社に関係のありそうな吉備の国の昔語りは、まだまだいっぱい歴史(記紀などの正史)の中に散らばっています。
 日本書紀には、
 “伊弉諾伊弉册(いざなぎいざなみ)の二神が、まず、淡路洲を、それから大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)、伊予二名洲、筑紫洲、隠岐洲、佐渡洲、越洲、大洲と次々に大八洲(おおやしま)を生み給ひて還座の時、吉備子洲、又名建日方別(たけひかたのわけ)命を生み、次に小豆島、又名大野手比売(おおてのひめ)命を生み給う”
 とあります。
 この吉備小洲こそ現在の児島半島そのものです。江戸のはじめ頃までは島だったのです。児島が、神話の時代でも、大変重要視されていた証拠です。
 吉備子洲を支配する神は建日方別命と呼ばれていました。
 その神がどうしてか知らないのですが、吉備津神社にお祭りされています。回廊の横にある石の階段の一番上に鎮座しておられます。岩山宮です。
 このお宮さんのご神体は、「おせん」の中でも書いたとおり、岩です。その岩が建日方別命そのものなのです。吉備子洲の神様なのです。
 当時、このあたりまで吉備の穴海が入り込んでいたらしいのです。(わが町向畑にも極小規模な貝塚も目にすることが出来ます)もしかして、吉備の中山も、伊弉諾伊弉册の二神がお造りになった吉備小洲の中の一つであったのかもしれません?すると、当然、その吉備小洲は吉備の中山が中心であったのではと考えられすが?
 建日方別命が住まわれている島、だから、尊い神の島即ち尊島、「たかしま」だったのではないかと思います。「たか」とは、今までの歴史家は総て「たか」という字を先入観から「高」としか考えなかったようです。だから、当然、神武天皇が立ち寄られたたかしまは笠岡にある「高島」だと思い込み、「尊」なんて字はでんで端からはねつけられてしまい、見向きもされないままに終わってしまったようです。
 もう一度言います。あの日本の初代の天皇、神武天皇の吉備地方にいた3年間の仮宮御所を、こんなちっぽけな文化的な匂いも何もないような、それこそ吹けば飛ぶような辺鄙な笠岡の「高島」に作るれるはずがありません。こんな小さな島におって、どうして2万も3万もの兵隊が集められましょうか、大和を目指す強大な軍隊を造れるはずがありません
 こう考えていくと、記紀に出てくる「たかしま」は、将に、この吉備の中山です。ここを除いて、どこに「たかしま」がありましょうぞ。足守川の河口をおいてしか、というより吉備津をおいて、神武天皇か3年間に渡って鎮座した場所は考えられませんが。
 「吉備こそわが命」とばかりに、天皇がお考えになっていたのではと思われます。高千穂から大和の到る年月の内に3年も滞在したという例はほかにはどこにもありません。吉備だけなのです。
 あんまり人のことをとやかく干渉はしないで、人は人、自分は自分という、でも非協力かというと、どっこいそうでもなく、いい加減あしらってどっちつかずの関係しか作れないという「まあまあ主義」のあやふやな自己主張の少ないのが岡山県民の特色ですが、その特性が出来上がったのはこの神武の時で、今までもずっと続いてその特長を持ち続けています。
 当時、吉備に住んでいた人は、この神武がとほうもない強国の「すめらみこと」になるお方だとは誰も思わないで、この神武に積極的に随うものはいなかったようです。何か腰につけている黍団子という、まこっとお粗末なものでも、それも半分でも貰うと、へいへいと無批判についていくのもこの吉備の国人の性質なのです。
 こんなどっちつかずのいいかげんな人の集まりであったらこそ吉備がいち早く大和勢力の中に組み入れられる原因になったのではと思います。渡来人が多く住んでいたという事から来る特性かもしれません。
 今日はこれまで、吉備の国人についてもう少々語ります。