私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

長寿の話 4ー吉備津彦命

2008-09-14 10:00:09 | Weblog
 明日は敬老の日です。老を敬うと言う「老」とは、一体、現在は何歳ぐらいからでしょうか。私の町にも老人会と言う任意の組織がありますが、それぞれの地区でばらばらです。60歳もしかり、65歳も、いや70歳もと千差万別です。私も70歳を疾うに過ぎましたが、自分では今だに、この「老」の中には入ってはいないつもりです?。従って、老人会にも入っていません。しかし、地区の敬老会の日の祝いはちゃっかりもらっていますが。
 まあそれはそれとして、100歳以上の人が占める割合が日本ではもう直ぐ1%に達すると新聞で報道されています。いいことかどうかは分らないのですが、それぐらい世界に例を見ないような異常な長寿社会に入っています。
 でも、それすら古代日本の社会とは随分低い年齢の長寿国です。その当時は100歳なんて、誰かが言っていた「洟垂れ小僧」そのものです。

 さて、わが吉備津彦命はどのくらいの長寿であったのでしょうか。
 日本書紀によると、武淳名河別命(たけぬなかわのみこと)と吉備津彦命が出雲の振根を誅殺する事件が崇神天皇(①神武・・・⑦孝霊・孝元・開化・⑩崇神・垂仁・景行・・・)の時に起こっています。この時の吉備津彦命の御歳は220~230歳にもなっていたのですが、まだ、第一線で存分に活躍していたのだそうです。
 いやはや恐れ入谷の鬼子母神です!!
 結局、この吉備津彦命は、それからまだ50年も生きられ、ついに281歳で薨かまります。その亡骸は、吉備の中山の頂き(茶臼山古墳)に葬られています。(藤井駿著:「吉備津神社」より。御陵として宮内庁が管理しています)
 現代では、生物的にも、到底考えられないような長寿の社会ですがのですが、これも「深く疑ふべきに非ず」の歴史の一幕だそうです。
 

長寿の話 3-倭迹迹日百襲姫命

2008-09-13 18:36:09 | Weblog
 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という長ったらしい名前の女性が古代の日本【倭】にいました(夜麻登登母母曽毘売命‐やまととももそひめー古事記)。吉備津彦命の姉君です。卑弥呼ではないかと言われている人です。ということは孝霊天皇の皇女になるのです。
 現在、吉備津神社の一番南の端にある本宮社に吉備津彦の父君孝霊天皇等と一緒に、知る人もいないがごとくに、従って、誰も注目すらしませんが、お祭りしてあることは間違いありません。
 
 日本書紀によると、この倭迹迹日百襲姫命もまた長寿のお人でした。孝霊天皇の70歳の時のお子様だそうです。特に面白いのは、この女の人は大物主神と結婚しておられますが、その御歳180歳の時だそうです。
 いかに大昔の人々が長寿だったとはいえ、これはいかがなものでありましょうか。
 でも、まことしやかに日本書紀にかれているのです。
 長寿国日本の話としても可笑しいと思うのですが、その本に見える「深く疑うべきに非ず」という言葉がなんだかよそよそしく見えました。
 お亡くなりになった時は書かれてはいませんが。おそらくは250歳ぐらいは生きられたのではないかと思われます。
 その180歳にしても、250歳の容姿等にしても、歴史的には「深く思うに非ず」ですが、宮崎駿に描かせるとしたら、どんな絵が生まれるでしょうか。想像しただけで面白くなります。ちょっと滑稽でしょう?。歯のないよぼよぼのそれでもなお腰を曲げて口をもごもごと何時も動かしている、頭のてっぺんのあたりから出る声のなんて奇天烈な声でしょうか、将に、驚くべきおどろおどろしい声が突然に私の頭の中をぐるりぐるり駆け巡ってきます。
 また何時か、この女(ひと)の晩年の物語を、驚くべきおどろおどろしい声と共に作ってみたくなりました。また、そう遠くない時にお目にかけたいと思います。全くの想像の世界を吉備と関連させて。

長寿の話 2-武内宿禰の巻

2008-09-11 14:24:28 | Weblog
 暫らく日本の古代の絵巻物の中に、ご招待したいと思いますのでお付き合いください。


 さて、まず始めに、日本の歴史の中で一番の長寿の人の絵巻物です
 日本書紀によりますと、その人の名は「武内宿禰」といいます。
 何せ、景行、成務、仲哀、応神、仁徳という五代の天皇に仕えたというのです。では、いったいどのくらい武内ノ宿禰(たけのうちのすくね)は長生きしたかと言うと、本によってさまざまに記されて定かではありません。
 日本書紀には「世の遠人。世の長人」、古事記でも「世の長の人」あり、何歳とはどちらの本にも書かれていません。
 ただ、この五代の天皇に仕えたということだけで、後世になって物好きな人によって、武内ノ宿禰は何歳で亡くなられたかと、ああでもないこうでもないこうでもないと詮索したあげく、結局、分らず、テンでばらばらに自分のが一番正しいと主張したらしいです。
 例えば、中国の宋書日本伝には、309歳、愚管抄には380余年とも書かれています。兎に角、日本一の長生きした人です。一番少ない数字を挙げている「水鏡」という本でも、それでも280歳とされています。平安以降、数えても10人ぐらいの人が、この武内ノ宿禰の歳を考えて本にしています。平和なよき時代だったのでしょう。

 まあ、兎に角、大変長生きした日本歴史上の人物らしいのです。
 今、突然「武内ノ宿禰」だと言っても、ご存知のないお方が殆どだろうと思いますが。戦前には、この人の肖像が壱・五円札に擦る込まれていました。それぐらい有名人でしたが、いいのか悪いのかは知りませんが、今は殆ど知る人すらいないと言うのが現状です。

 武内ノ宿弥の仕えた景行天皇さんと吉備津神社とがまた深い関係がありますので、取り上げてみました。それはまた明日にでも。なお、景行天皇さんは日本書紀では106歳(また別の本には143歳)で崩御されたことになっています。

長寿の話 1-孝霊天皇の巻

2008-09-10 18:46:12 | Weblog
 二年半も続けた“私の町 吉備津”も、漸く書く材料が底を付いてきました。
 最後に、吉備津彦命が生きていた時代は(紀元前200年頃?)どんな時代だったのでしょうか。それを覗いてみたいと思います。
 そこで、まず、吉備津彦命の父君について調べてみました。吉備津彦命は七代孝霊天皇の皇子です。
 「日本王代一覧」【享和二年発行】によると、孝霊天皇の時勢について、次のように記録されております。
 まず、近江の国の地が裂けて大きな湖ができ、更に駿河の国の富士山が始めてできると伝えられています。さらに、この帝の時は、中国では秦の始皇帝の時で、除福が蓬莱山の不死の薬を求めて日本に渡り来て富士山に留まると伝えられていると書かれています。
 秦の始皇帝はBC220年に建国しています。

 現代の時代区分からすると、この時代はまだ縄文時代です。それは兎も角として、まあ、天皇を中心にした歴史しか残っていませんが(古事記日本書紀紀)。
 この時代の特長として、まず、挙げられるのか長寿社会であったということです。吉備津彦命の父君孝霊天皇は御歳128で崩御されています。ちなみに、初代神武天皇も127歳で崩御されています。
 この時代の長寿について、今では考えられないような面白いことがいっぱいありますので、明日から4、5回に渡って連載したいと考えています。
 



細谷川と詩歌

2008-09-09 20:35:18 | Weblog
 岡山市高松公民館では、「吉備津と高松の文学探訪」という講座が開かれています。今日は、赤木慎平先生の“詩歌と吉備の中山”という現地見学講座でした。
 吉備津の細谷川には多くの文人達の詩歌が残されています。その姿を求めての今日の探訪でした。
 去来の句碑から始まって、栄西、兼康、高尚と言った人達の跡を訪ね、最後が渇水のため水流のない細谷川を登ります。音のさやけさも何もあったものではありません。流水がないのですから。でも途中で、何でこんな所にと思われるような芭蕉が大きく葉を茂らせて空高く伸びています。そんな景色を通って登っていきます。
 講師の赤木先生の話によると、吉備の中山と細谷川を読んだ和歌は、清少納言の枕草に影響されて、平安の昔から数多く残っているのだそうです。
 日中の厳しい秋の日差しを遮ってくれる楓などの大木の下での先生の細谷川の詩歌の説明を聞きます。
 そこから少し登ると、高尚先生の句碑も夏草に覆われるように哀れな姿が見え隠れしていました。
 時は流れ石に刻まれているその文字は何時しか消え去り読むことは出来ないのですが、側にある説明板には、次のように書かれてあったとありました。

   露ふかき谷のさくらの朝しめり見し夕暮れの花はものかは
   もみぢ葉は谷ふところにかくしたる千しほの玉の林なりけり
                              松斎
 さくらと松ともみじをこよなく愛しておられた高尚先生の句として二首が刻まれていたそうです。

 楽しい二時間の今日の現地見学でした。
 

「おせん」を終えて

2008-09-05 10:01:12 | Weblog
 さくらが漸く開花の気配を見せた3月の終わりごろから、わが山神様にある真鍮製のご幣の台座の裏側に記されている“嘉永元年九月、大坂古広町ふなきや内 おせん18歳 大願成就 足立 無夫”という言葉だけを頼りに物語を書き込んできました。
 このおせんという18歳の女の人がどのような運命を受けて、何のために、こんな片田舎の、それも名もない、吉備津様ではない、吹けば飛ぶようなちぃっぽけな山神様に、当時としては高級な金属製(真鍮製)のご幣を奉納したのか、側にある謎の記号みたいな木の札と共に謎が深まるばかりでした。古老に尋ねても誰も知る人だにいません。
  
 そこで、おせんさんの思いを私の胸の中に想像させながら拙い文章にしてみたのです。当初できれば150,000字程度の文にと思っていたのですが出来上がってみれば、結局、136,000字になりました。
 途中で、もっともっと極悪人を作り上げて話に幅のあるものにしようかとも思えたのですが、私が作り上げたおせんさんという作中人物の思いに同情して、私自身が負けてしまい、というより、これ以上おせんを苦しめないでという思いが私の心に突如として浮かび上がりました。そこで、極悪人ではなく、ごく普通の悪人というか、封建社会では当たり前の自分の職務に忠実なだけの当たり前の官吏としての職責を果たしただけの悪とは言えないような姿にしか描くことが出来ませんでした。そのほうがより現代風ではないかとも考えながら作り上げていきました。
 書くという事は難しいことです。私自身の思いどうりに書けないのです。私自身が作り上げた作中人物の心に私自身が負けてしまい、極悪人を作り上げて、作中人物を、おせんをです、徹底的に苛め抜くことが出来ないのです。だから、結末もまあまあ、これって何だと、いうぐらいにしか終わらせることが出来ませんでした。
 もうちょっとおどろおどろしい結末であってもいいように思えましたが。

 まあこれでひとまず「おせん」は、終了です。一方、「わが町吉備津」も、書き始めてから二年半近くもなり、書く材料も次第に少なくなってきましたので、後数回で終了したいと思っています。
 これまで多くの人たちに読んで頂きました、一日に平均して130~40人の人に、目を通していただけたのではないかと思います。ありがたいことだと思いながら、毎日続けました。
 また、いつか書く材料がそろいましたらと思っています。

おせん 111 立つ 歩く なんにもない 秋が笑っている

2008-09-02 14:17:02 | Weblog
 町奉行与力中野たちが討幕の浪士に暗殺された事を、誰かから小耳にでも挟んだのかどうかは分りませんが、吉備津様参りから帰ったおせんは人が変ったようにお店の仕事に以前よりもまして、精を出すようになりました。各地から上がってくる綿などの収量など、父親の徳太郎も驚くほどの、厳密な記録がなされます。当時は帳場に女が出て、筆を持って働くという事はなくもっぱら男の仕事でした。それを若いきれいな人がやっているのです。噂が噂を呼び、「どんななおなごはんかいな」と、遠くからわざわざ見学に来る人も出るほどでした。暫らくすると、また、見学するものも居なくなり普通のお店に戻ります。でも、織り屋などからは「おせんさんがお店にでてくれるようにならはってから間違いが一つもおまへん。早くて正確でおす」と重宝がられている事も確かです。
 大旦那様をはじめお家の人たちはこのおせんの変身に驚いたり喜んだしています。特に、母親のお由は口にこそだしませんが「ええかげんにしてえな、およめにいけんようになるさかい」とうれしくもあり心配でもある顔をして、たびたび帳場を覗き込んではイライラを募らせています。
 大旦那様は、“立つ 歩く なんにもない 秋が笑っている”と書かれた真承さんの書を額にしてお店の真ん中にそっと掲げました。「なんですねんこれ」と徳太朗は問いますが、ただ、にやにやしているだけです。おせんも「これ・・・」といったきりで、全く知らないかのように振舞います。でも、確かに、おせんは立ち上がって一人で確実に歩いているのです。平然としてなんにもないように秋が笑うように仕事をしています。徳太郎もそれ以上は何も言いません。
  
 それから暫らくして、大旦那様は、おせんの大願成就を祝って銅板を使った小さな特別の御幣をお作らせになられます。あの山神様に奉納するためにです。
 その御幣の台木の裏に嘉永元年九月、大坂古広町ふなきや内 おせん18歳 大願成就 足立 無夫と書き込んでおきました。
 大旦那様は誰にも言わずに、宮内の立見屋の主人吉兵衛に頼んで奉納してもらいました。お園にも黙って一人の胸の内に秘めた奉納でした。真承さんに対しても吉兵衛に頼んで陰ながらの援助をお願いしたのはいうまでもありません。
 再び、この大旦那茲三郎が宮内を尋ねることはありませんでした。
 
 
  なお、おせんは父親徳三郎の死後、平蔵たちの力を借りがら、舟木屋を一人身で立派に切り回します。お園にはそれから二年後に男の子が生まれます。でも、そのことは母親美世は知らずに黄泉に旅たちました。このお園の男の子が明治の舟木屋を背負って立つのですが、余り長くなりますのでひとまず「おせん」の話をこの辺で終えます。

おせん 110 吉備津は得体のしれない不思議な処でおますなー

2008-09-01 11:50:28 | Weblog
 「町奉行所の中野与力が何者かによって殺害された日に、偶然、真承さんに地雷福の絵文字を描いていただいたのでおます。あてはひょっとしてこれでおせんの恨みを果してやれるのではないかと考えておりましのや。真承さんはわての思いとは裏腹に、人を恨み殺すなんてとんでもないと言う風に、おせんの封に現れた地雷福の絵を悠然と無心に赴くままに絵筆を動かしていやはりました。なんだかわけの分らない絵を彼独特の筆でを描いてくれはりました。でも、その時の辺りの気配には何かものすごいものが漂っているようにわての神経までが今までに経験のないようなぴりぴりした緊張感の中に浸かっていましたのや。それは、その場に帰ってきていたお園さんやおせんにもにも分ったと思いますが。・・・・その日です。将にその時にです。偶然かどうかは分りしまへんけど、一時にせよ、できもせんくせにあだ討ちまでしたい、恨み殺したいと思っていたおせんの思い、いやわいの思いだったのかも知れへんが、天にも通じたのでしょうか、思い通りことが進みましたのや。どこかの読み本にでもあるような作り話が本当にこの世の中に起きてしもうたのどす。吉備津様の霊力というもんでしゃろか。なんか恐ろしゅうなってきましたのや。そんなことが本当のこの世の中にあってもいいもんでしゃろか」
 「それから、・・・・あの銀児親分も何処にもおらんようになってしもうたのですね。不思議な話です。・・・でも、山神様には昔からそんな言い伝えがあったということは確かな事です。でも、目の前で、今、実際にあったと聞くと、私も、なんだか怖いように思われます。あの、偶然に起きた事だとは思いますが。・・・吉備津様のお膝元にはこんなおどろおどろしたお話がほかにまだいっぱ転がるように散らばっています。私の祖母がまた好きでして・・・・でも、大旦那様、この中野様や銀児親分の事件をおせんさんにお話したのですか」
 「うん、どうしようかと迷っておるのじゃが。どうしたもんでしゃろ・・・・」
 「私にはよく分らないのですが、政之輔さまがお亡くなりになってからおせんさんはよくこれまで頑張ってこられました。恋しいお人と、生まれて始めて出逢った愛しいお方と明日会おうという矢先に、聞くところによりますと、無残に殺されたといういうじゃありませんか。おせんさんの心は、いかばかりでありましょう。計り知れない悲しさだけではないと思います。乙女にしか分らないどうしようもない張り裂けんばかりの情けなさがあったと思います。でも、よくおせんさんはその苦しみにお耐えになられました。そして、今は、政之輔さまと無理やりに引き裂かれたあの時から、段々と生きる目当てみたいなものが少しずつ出来てきているのではないかと思います。大旦那様。おせんさんもいつかほっといてもあの中野という与力の方や銀児親分の事件は、きっとお知りになると思もいます。それまでそっとしてあげていただいたらと、わたしは思います。よくは分らないのですが、何か、身内の人から教えてもらうより、誰かは分らないのですが、大旦那様でなく、全くの見も知らずの人から聞いて知るほうがよけいにそのことが素直に自分の心の中にすーと、入ってくるのじゃないかと思います」
 「さようか。お園さんもそう思われまっか。笑って話せるまでにはならないかも知れへんが、そっとしておくのがええのかもしれへんな。でも吉備津さんの御陰かどうか知りしまへんねんけど、お園さんの宮内というところは何やけったいな得体のしれへんところでおますな。どう考えても不思議な所でおます。」
 「またおせんの顔みてやってな」というなり、ひょいとお立ちになられましたす。