リハビリの終わったユキコさんの車椅子を押して病室のあるフロアに
戻って来たら、師長さんが、七夕の短冊を手にして待っていた。
「ユキコさんの短冊ですよ。相談してご一緒に書いて下さいね」
そうか、もうすぐ七夕だ。去年の短冊には「たなばたさまがあと9回
来ますように」と書かれていたっけ。たぶん介護士さんか看護師さん
が代わりに書いてくれたのだろうけど、
「あと9回といったら、ユキコさん100歳だよ~」
と何だかやるせない気持になったのよねぇ。でも1年たって気がつけば、
ユキコさんは元気を立派に維持している。行き届いた世話をしてもらい、
効果のほどは現状維持がやっととはいえ、リハビリを続けている成果に
違いない。
この調子で行ったら本当に100歳も夢じゃないかもしれないね。さて、
今年は何をお願いしましょうか、ユキコさん。
彼女の左腕を私の肩に回そうとしたその時、パ
ジャマの左袖を見た私はギョッ!

車輪の跡がついてる! 何で? どうして?
どうやら、車椅子で散歩している間中、ユキコさんの左腕はしっかり
車輪の上に乗っかったままであったらしい。車輪の回転を腕で押さえ
つける形になっていたため、パジャマの袖には轍(わだち)の跡が泥
の汚れと共にくっきりついてしまったというわけ。
もお~、ユキコさん何にも言ってくれないんだもの。そういえばキシ
キシと変な音がしていたような気もするけれど、車椅子が古いせいだ
と思ってた。
幸い、ユキコさんの腕にけがはなかったからヤレヤレだけれど、ドッ
と冷や汗が出た。証拠隠滅のため、パジャマは即処分ね。自ら意思表
示をすることが出来なくなってしまったユキコさんだから…周囲の者
は細心の注意が必要。気をつけなくっちゃ。
転院から今に至る7ヶ月の間、病院と義弟との間にトラブルなく過ごせ
ているというのはなかなか大したことで、これは今までの最長不倒記録
ってことになるのかな。
今日もいつものように義母の病室へ向かって廊下を歩いていたら、前方
から歩いて来たおばあさんに突然しがみつかれた。ここには、認知症で
はあってもスタスタ歩ける患者さんもいるから、その中のひとりなのだ
ろう。
彼女は無言のまま結構な力で私を引っ張って部屋のひとつに入った。行
きたかったのはト・イ・レ。ズボンと紙パンツをおろして座らせてあげ
たら、上手にできました。
そこへちょうど看護師さんがやってきた。
「あら、すみません。介助してくださったんですね。
愛子さま、間に合って良かったですね」
この病院のスタッフは言動がとてもていねい。患者さんを呼ぶ時には必
ず「さま」をつける。それにしても愛子さまとは恐れ入りました。確か
にその部屋の名札には、名字の下に「愛子」と書かれていましたね。
さて、義母が在宅介護から入院になってそろそろ2年の月日が経とうと
している。義母のいない2度目のお正月。鼻からの経管栄養摂取とコン
スタントなリハビリのおかげで、ある意味「元気」を維持している義母
ユキコさん。まもなく92歳です。

明日からの8日間、娘に付き添って旅行に出かける。
計画段階では、まさかユキコさんが入院するなんて夢に
も思っていなかったので、夫の長期の休みに合わせてこ
の時期に決めたのだが、何とも間の悪い旅立ちとなって
しまった。
帰る頃には、どうかユキコさんが少しでも元気になって
いますように。
ユキコさんの病室は6人部屋だが、今はユキコさん以外に三人
の患者さんが入っている。一番若そうな人は74歳。犬の散
歩中に転んで膝の半月板を痛めての入院だそう。
この人、病室で携帯電話使いまくり。お孫さんが大学入試の
最中らしく、その成果をあちこちに報告している。他の患者
の家族にも聞かせたいのかなあ。すごく大きな声で
「そうなのよ、J大とW大は決まったの。あと
国立が残ってるんだけどね。T大よ、T大!」
ははあ~、優秀なお孫さんで。
あとの二人は、ユキコさんほどではないけれど、認知症のお
ばあちゃんたち。どちらも80歳は超えているだろうなあ。
でも、ベッドの上にちんまりと起き上がって、一人でちゃん
と食事が出来ていた。
今朝は、そのうちのひとりNさんに向かって介護士さんが、
「しっかり食べられたわね。良かった良かった」と声をかけ
たんだけれど、Nさんの返事はなし。代わりにカーテンを隔てた
隣のベッドのSさんの方から 「はい、はい」と返事が戻ってきた。
私と娘は笑いをこらえるのに必死でした。
出勤前に病院へ行って、ユキコさんの朝食の介助。時間切れに
備えて娘にも一緒に来てもらう。慣れないことばかりなので、
娘とふたりで大騒ぎだ。
ベッドの背中をギャッチアップ。ナイロンの食事用エプロンを
つける。テーブルをユキコさんの胸元へ移動。入れ歯を手渡す
が、ユキコさんの口なんだか小さくなっちゃってなかなか入ら
ないから、ぐいっと押し込む。あ、眼鏡もかけなきゃね。
スプーンを持たせるが、すくったおかゆがうまく口元へ運べず
ダラーっとこぼれる。口の回りについたおかゆを手でぬぐって
その手であちこちをさわったりするから、手早く濡れタオルで
拭きとる。
おっと、ユキコさんテーブル押しちゃだめ!
吸い飲みに入れたお茶を私が飲ませよううとしたら、勢い余っ
て、ユキコさんゴホゴホむせちゃった。ごめんごめん。娘曰く
「おばあちゃん食事するのも命がけだね」
何だかんだで、40分くらいかかっちゃった。あとを娘に任せ
て、私は駅へと一目散。仕事が始まる前に既にヘトヘトです~
次はもう少し要領よくやらなくちゃね。
ユキコさんついに入院することに。といっても深刻な容態と
いうわけではなく、点滴入院というのだろうか、口からなか
なか水分を摂取できないので、一週間ほど病院で様子を見ま
しょうということになったのだ。
かかりつけの医院で紹介状を書いていただき、今日、近くの
個人総合病院へ、夫と私でユキコさんの体を文字通り担ぎ込
んだ。
4年ほど前に腸閉塞で入院した時は、まだユキコさんの元気
は有り余っていて「何で私こんなとこに居るの」と勝手にベ
ッドから降りようとしたり、点滴の管を自分で抜いてしまっ
たりして大変だった。きょうだいでローテーションを組んで、
24時間ユキコさんに張り付かなくてはならなかったほど。
今回は、その必要はなさそう。一日三回食事の介助に行き、
洗濯物を持ち帰る程度でいいみたい。ユキコさんは、昏々
とあるいはうつらうつらと眠っている。
同じ病室にすごい人がいるんだけど、その話は次の日記で。
きょうは、ケアマネさんが我が家へ。仕事休みの夫と私で、ユキコさんの
入居を申し込んでいる特養の状況を聞いた。ケアマネさんが「奥さんは
お仕事をしていらっしゃるんですか」と尋ねる。どうしてこの質問かというと────
特養の担当者が「ご長男のお嫁さんがいるのなら、在宅で介護が出来る
のではないか」とケアマネさんのところへ言ってきたからなのだ。つまり、
『お嫁さん』がいるということは介護の手があるということで入居審査の
基準となるポイントが低くなるってことらしいのだ。
おいおい、それはちょっと違うだろう、と私は激しく突っ込む(心の中でね)。
未だに、介護は嫁や妻のつとめであるという旧弊な考え方があるのは
知っているけど、妻はともかく、嫁には夫の親を介護する義務はないのですよ。
もちろん、だからといって一切介護はしません、なんて言うつもりはないし、
出来ることは一生懸命やってるつもり。義務のあるなしではなく、ユキコさん
や夫に対する気持ちから、私は私の出来ることをお手伝いしているつもり
なのだ。
でも、仮にも社会的施設である特別養護老人ホームから、そんな発言が
飛び出すとは…ショックもショック開いた口がふさがりませんでしたよ~
ケアマネさんは「じゃあ、お嫁さんもお仕事をしているので在宅での介護は
難しい、とアピールしておきましょう」と言っていたけど、そういう問題じゃな
くて~と説明しかけてやめました。
私のこういう考え方は、とても硬直的で身勝手なものかもしれないとふと
感じたから。でも、やっぱり何だか釈然としないのよねぇ。
ユキコさんの熱が、37度台をうろうろしたまま下がらない。今日は私も
出勤だし、夫も義姉も休めない。午後4時のヘルパーさんが来てくれる
までのつなぎに、午前11時半から12時半までの1時間だけ臨時の
ヘルパーさんを急きょ頼んだ。
その時間まではひとりで寝かせておくしかない。日頃のユキコさんの健康
ぶりが、介護する上でいかに貴重なものだったかと思い知る。座位が保てて、
ちょっと手を貸せば着替えも出来て、食事は見守ってさえいれば自力で出来て…
それが今は、体を起こすことも困難になってしまった。横になった状態での
リハパンツ交換は至難の業。食事も一口ずつ口に運んであげなくてはならない。
これぞ本物の介護か! とちょっと感動。でも、この状態が固定してしまうのは、
断じて困る。贅沢は言いませんから、もとのユキコさんに戻ってくださいね。
臨時のヘルパーさんには、あれもこれもとメモにびっしりお願いを書いてしまい
ました。
「健康体です」とお医者さんに太鼓判を押されたはずのユキコさんだが
おとついの日曜日あたりから38度の発熱。ただの風邪という診断では
あるが、ひたすら眠り続けるユキコさんである。きのうは上の義姉が
仕 事を早退して来てくれたが、とにかく眠り続けていたらしい。
今日は、11時頃起こして体温を測った。36度8分。「熱下がってる
じゃない、起きましょう」と声をかける。ユキコさんは体を起こそうとした。
ところが、起き上がれない。仰向けにひっくり返った亀状態。後ろから
上半身を支えて起こそうとしても、体が突っ張ってしまって言うことを
きかない。
布団から転がすようにして外へ出し、引っ張り起こそうと四苦八苦。
やっとの思いで椅子にかけさせ、着替えを手伝おうとしたが、何と
ユキコさん、自力での着替えが全く出来なくなってしまってる。
え~っ、と青ざめる私。
ユキコさんの体を押したり引っ張ったり、えいやっと持ち上げたりして
やっとの思いで洋服を着せる。30分もかかりましたよ。
午後になり、3時のおやつを持って母屋へ出向き、念のため熱を測る。
あらら~、38度に上がってしまってる。「寝かせなくっちゃ」というわけで、
ふたたびパジャマに着替えさせるためのドッタンバッタン。
眠り過ぎで、痴呆が進んだのだろうか。たった一日なのに。熱のせいで
体がうまく動かないだけ、というのならいいんだけど。
我が家のお隣のうちには、98歳のおばあちゃんがいて、息子さんと
その奥さんが介護をしている。一日の大半をベッドで過ごしているが、
頭の方はうちのユキコさんよりよほどしっかりしているらしい。
リハビリパンツはやだ、デイサービスもショートステイも
行きたくない。ヘルパーさんなんかとんでもない、と
言い張っているので、奥さんは朝から晩までお姑さんの
ために身を削って介護にあたっている。
おばあちゃんが粗相すると、上から下まで全部汚れるので(布パンツ
はいてるんだもの)毎日6回も洗濯機を回す。ある時お風呂の浴槽から
抱き上げようとして腰をギクッとやってしまったが、あいにくご主人は不在。
這うようにしてお姑さんを部屋まで引きずって行き、毛布をかけたところで
力尽きて、2人折り重なったまま1時間身動き出来なかったとか。
奥さんが外出できるのは、お姑さんに時代劇のビデオを見てもらっている
2時間だけ。その間に買物に行ったり、自分の腰の治療に行くんですって
(ご主人何してるんだろ)
回覧板を届けに来てくれたとき、堰を切ったように、こんな話をしてくれた。
私はただただ頷いて聞くことしか出来なかった。いまどき、こんな介護生活
を送っている人がいるなんて…
それぞれの家庭には相応の事情があるから、一面的に見て批評したりは
できないけれど、それにしても何だかなあ、せつないですよね。
夫が、ユキコさんをかかりつけの医院へ連れて行った。午後6時の
予約が取れていたのだが、遅れに遅れて、診察室に入ったのは
7時ちょっと前だったとか。
でもユキコさん、静かに座って待っていたのだそうだ。1年前だったら
大変な騒ぎになっていただろうと思うけれど…それだけ衰えが進んだ
ということね。
ユキ子さんが見るからに相当高齢であるってことは待合室の人たちにも
分かったようだけれど 「アルツハイマーだなんて誰も気がつかなかった
んじゃないかな」 と夫は言う。そうかもしれない。黙って座ってるだけなら、
おとなしい上品な (は言い過ぎだけど) おばあちゃんにしか見えない
だろうなあ。
さて、診察の結果はまったく問題なし。健康そのものでした。
おそるべし、ユキコさん。良かったね。
月曜日は勤めのある日。朝食やお弁当の支度、洗濯機を回しながら
食器洗い、とバタバタ慌ただしい。そして、出かける前に母屋へ昼食の
お弁当を届けに行く。
ところが何と、ユキコさん、まだ寝てるじゃない! いつも義弟が起こして
着替えさせるところまではやってくれているんだけど、今日はどうしたこと
だろう。
出勤時間が迫る中、ユキコさんを叩き起こし、着替えの手伝いをしながら
(手を貸さないとすぐ手を止めてボーッとしてしまう) 布団をたたみ、汚れ
物を洗濯機に放り込み、朝の牛乳を温め…「わー、遅刻しちゃう」とパニック
状態で家を飛び出した。
夜、義弟が言うには、彼自身が『感染性胃腸炎』にかかってしまったらしく、
これはユキコさんがデイサービスでもらって来たものに違いないから、ユキコ
さんも具合が悪いだろう、今日はゆっくり寝かせておこう…と思ったんですって。
う~ん、それなら早めに言ってよね。と内心でつぶやく。少し思い込みの激しい
性格の義弟なので、反論は禁物。あしたユキコさんをお医者へ連れて行くこと
になりました。