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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神への信頼

2023-03-05 15:41:18 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ18章1-8節 レント(受難節Ⅱ)

本日はまず、いくつかの祈りの課題を共有することから始めたいと思います。
世界各地で起こっている戦争や紛争、そこで命の脅威にさらされている一般市民と心ならずも武器を手にする兵士たち。そのような状況下、平和を祈り願うすべての方がたと心を合わせ、一刻も早く戦争が止みますように。
 又、世界各地の軍事政権下で抑圧と迫害に遭い、痛み苦しんでおられる市民の自由と解放のために。
 さらに、トルコとシリアの大地震はじめ、地球温暖化の影響よる災害に遭われて悲しみと苦しみの只中におられる方がたが忘れられることなく、必要な助けと支援を受けることができますように。
 そうした中、今週の土曜日11日は東日本大震災と原発事故から12年目を迎えます。未だに復興もままならず苦闘しておられる方がた。又、放射能汚染によって避難生活を余儀なくされている方がたと祈りをともにいたしましょう。
 最後に、コロナ禍によって起こった急激な変化の下、苦境に追い込まれ自ら命を絶った方がたが、特に若い世代が増加しているということです。
 主よ、叫び祈る人々の声に、否、言葉に出すこともできないよう方がたのうめきに、耳を傾けて下さいますように。

さて、本日の箇所でありますが。
当時のユダヤ社会は、ローマ帝国の支配下にあって人びとは圧迫を受けていました。同時に、ユダヤの特権階級にあった権力者の高慢と怠慢によって、弱い立場におかれた人びとの生きる権利が損なわれるような事が起こっていたのです。
そういった状況の中でイエスさまが弟子たちに対して語られたのは、気を落とさずに絶えず祈ることでした。
私はこの「やもめと裁判官」のたとえをこれまで、「ただ執拗に神に祈り求めることが大事だ」という程度に理解していました。
しかし、今回、今までとの理解とは異なるリアリティをもった叫びとして聞こえてきたのです。ご一緒に聖書から聴いていきたいと思います。

この裁判官は、「神を畏れず、人を人とも思わない」人物でした。
やもめ(寡婦)は夫を亡くした人、あるいは、当時の社会において一方的に離縁されてしまった人でありますが。当時は13歳、14歳くらいが結婚の適齢期だったようですから、そういう若い人や子育て中のシングルマザーや、高齢でも共同体としての扶助や援助を受けることができず、全く頼るべき人のいない方がいたのでしょう。
そうした中で、たとえば結婚後若くして夫を亡くしてしまい、生活に困り果て、高利貸しに借金するも、不当な返済額を請求されて返済できず、食いものにされていた人たちもいたようです。
どこの国どの時代においても、女性、さらに寡婦や一人親は往々にして弱い立場にあります。

古代のイスラエル社会は家父長制社会であり、女性の権利が認められることは少なかったのですが、申命記の時代には大家族制が崩れて家父長の地位が衰え、モーセの時代すでに申命記の契約の書には女性の地位保障について規定されています。が、しかしその後も女性は弱い立場におかれることが多く、殊に寡婦はじめ、親を亡くした孤児、寄留者は、人として生きる権利や尊厳までも蔑ろにされ、不当に扱われていたのです。

それを裏付けるように、イザヤは次のように主の言葉を取り次ぎ告発します。
「災いだ、偽りの判決を下す者、労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け、わたしの民の貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。」(イザヤ10:1-2)
一方、詩編の作者は次のように主を賛美します。「主はすべてしえたげられる者のために、正義と公正とを行われる。」(103:6口語訳)
 預言者イザヤが、「貧しい者から権利を奪い」と告発した「権利」とは、「正義」や「公正」とも訳せる原語だそうです。 
主は弱く小さくされている人を知っていてくださり、人としての権利、正義と攻勢を回復してくださるお方であるのです。

たとえの方に話を戻しますが。
やもめ(寡婦)は、裁判官に訴えても、一向にとりあってくれません。それでも彼女は何度も裁判官のところに出向き、訴え続けたのです。
人を人とも思わなかった不当な裁判官は、その自分の立場を保証してくれる裕福な人や、わいろを包んでくるような人とのかかわりは大事にしてきたと考えられますが、自分にメリットのない人とは関わろうともしなかったのでありましょう。又、この裁判官は、ユダヤの町では律法の専門家であったわけですが、そもそも「神を畏れない」ということは、裁判官としての資質が欠如していたことを示しています。

ところが、その裁判官の気が変わり、彼女のために裁判をしてやろうと思ったというのです。

なぜでしょう。
それは彼が神に回心したとか、人情をもって助けてやろうという思いになったということではなかったのです。彼は相変わらず、「私は神を畏れないし、人を人とも思わない」と明言しています。
 では一体何が彼の心を動かしたのでしょう?
それはここに語られているように、彼女が何度もやってきては、その苦境を訴えたからであります。ではなぜ彼女はそんなに強くなれたのでしょうか。それは、ほかに方法がなく、唯神に望みをもってそうする以外の道がなかったからです。逆に言えば、神にすべてをかけて祈り、望みをおくからこそ、彼女な不当な裁判官に声をあげ続ける事ができたのです。
そうしてとうとう、押しても引いてもやもめのために動こうとはしなかった裁判官が、「うるさくて、かなわないから」と折れて、彼女の裁判をするように事が動き出すのです。そこには、目には見えませんが神さまがお働きになられたからです。

このたとえをもって、主イエスは言われます。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

この主イエスのお言葉を弟子たちはどのように聴いたでしょうか。
日夜叫び、訴える人たちの声を神は決して聞き逃すことなく、いつまでも放っておくようなことはなさらない。神は速やかに裁いてくださる。だから「気を落とさず、絶えず祈りなさい」とおっしゃるのです。そこには主イエスご自身が、不当にも迫害をお受けになる者の一人として祈られたお姿と重なります。

私たちも又、不当な状況の中で、同様に困難な状況の中にある人びと共に、「神さまは速やかに裁いてくださる」「神さまは、すべてをご存じであり、神の前にはすべて明らかにされている」という、その神に信頼し、日夜祈り続ける者でありたいと願うものです。

「言っておくが(そこで、わたしは言う)『神は速やかに裁いてくださる。』」
この言葉が今日の結論です。すべてをご存じの神さまは速やかに必ず全き裁きをなさるのです。
ここに希望があります。

ただ主イエスは気になる一言を発せられます。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』
主は私たちに「神への信頼」を問われるのです。
神に信頼できなければ、祈りが出てくるはずありません。それは又、祈らなければ神との信頼の関係も確かなものとならないでしょう。まさに、どんな時も、常に祈る必要があります。

最後に、イエスさまのたとえ話は、神に対するあり方を示すと共に、人に対するあり方をも示しています。
神が聴き入れてくださることを信じ、神への信頼に生きて、気を落とさず、絶えず祈ること。
それは、この社会にあって神の愛を阻むものへの執拗な闘いであるでしょう。
『人の子が来るとき、果たして信仰を見いだすだろうか。』
それは、困難な中におかれても、主の裁きは必ずなされるという励ましです。

神の国の到来という終末における神の審判に、目を覚まして祈り備えていくことは大事です。
今この時も、このやもめが苦境に立たされていたその苦しみ、悲しみ、怒り。そのように軽んじられ、不当に扱われ、人としての尊厳を踏みにじられてあらゆるものを奪われながらも、ただ公正と正義の回復と裁きを日夜訴え、祈り続ける一人ひとりを神は知っていてくださり、守ってくださる、と主はおっしゃっているのです。
「恐れるな、小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
主イエスの苦難と死を覚えて過ごす受難節にあって、この週も主に信頼し、気を落とすことなく、希望をもって絶えず祈り、御心に叶うように歩んでまいりましょう。
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