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あなたがたと共に

2023-03-26 21:15:45 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ22章14-23節 レントⅤ 

まず22章の始めを読みますと、イエスさまを殺す計画がユダヤの祭司長や律法学者たちによって進められていきます。しかし彼らは民衆がイエスを慕い求めているため手が出せなかったのです。
そうした中12弟子の一人イスカリオテのユダのうちにサタンが入り、ユダ自ら彼らのもとに行って金と引き換えにイエスを民衆のいないところで引き渡すという怖ろしい取引をするのです。イエスさまへの危険が間近に迫っていました。
そうした悪しき人間の策略が進められていく一方で、これとは全く異なる主のご計画が着々と進められていきます。
イエスさまはこれから起こるであろうことを知って、その備えのため弟子たちに向けて特別な時間を設けられました。それが本日のイエスさまその弟子たちと共に持たれた過越しの食卓、最後の晩餐であります。
この過越しの準備のためには、前の7-13節に記されておりますように、イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われます。二人が「どこに用意いたしましょうか」とイエスに尋ねると、「都に入ると、水がめを運んでいる男と出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。行きなさい。『先生が「弟子たちと一緒に過越しの食事をする部屋はどこか」と、あなたに言っています。すると席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい」とお送り出されます。二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の準備をした、とこのように記されています。

前々回でしたか。イエスさまがろばの子を解いて来るように弟子たちに命じられた折も、すでにろばの子がそのところに備えられており、「主がお入り用です」とイエスさまのお言葉通りのことを子ろばの持ち主に伝えると、そのろばが貸し出されイエスさまのもとに連れて来ることができました。そうしてイエスさまは預言者ザカリヤの書に書かれてあるとおり、平和の王としてエルサレム入城を果たされたというところを読みましたが。
人の思いや考えで突っ走ろうとしても、空回りすることが多いわけですが。神の御心でありましたイエスさまの十字架への道は、神のご計画によって持ち運ばれ、すべてが備えられていくのです。

本日のイエスさまと12弟子(使徒)たちとの最後の晩餐も、人間の思いを超えて、すべてが備えられ、やがて全世界で神の救いの記念として思い起こされるにふさわしい場と時が整えられるのです。
その日は折しもユダヤの民にとって、自分たちを神の民ならしめた、その根幹となったの出エジプトの出来事を記念する大切な「過越し祭」の日でありました。
それは、イエスさまの時代から溯ること1300年程前、モーセの時代エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民の苦しみと痛みの叫び声を、主がお聞きなられ、民の解放を拒むかたくななエジプトの王と国に致命的な災いをもたらされることを告知なさいます。イスラエルの民は神のお命じになることに従い、小羊をほふって各々の家の門柱にその小羊の血を塗ります。そしてそれがしるしとなって災いをもたらす神の使いはその家を過越し、主の民は滅びから逃れることができ、奴隷の状態から解放されるのです。

主の民はその神の救いのみ業を先祖代々語り伝えられ、記念しとしておぼえ、祝い続けてきた。
それが過越しの祭であったのです。
イエスさまはその過越の日に用意されたぶどう酒を、あの民の救いのために流された小羊の血と重ねて「あなたがたのために流されるわたしの血である」とおっしゃいます。又、裂かれた肉とおっしゃったのも、神による解放のためにほふられ民の間で分かち合われた小羊とご自分の十字架の死が象徴的に表されているのです。

そしてその最後の晩餐に際し、イエスさまは開口一番、次のように使徒(弟子)たちにおっしゃるのです。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」 福音書のマタイ(26章)やマルコ(14章)にも同じ記事が記されているのですけれども、そこで、イエスさまが開口一番おっしゃったことは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」ということでした。
このようにマタイとマルコではイエスさまが過越の食事の始めから裏切る者が予告されているのです。
ところが今日のルカ福音書では、イエスさまは裏切る者が誰であるのかをご存じでありながら、「わたしが苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、切に願っていた」とありますように、そのイエスさまの「あなたがたと共に」という強いご意志が示されています。そこにはイエスさまがイスカリオテのユダを除外することなく、そのあなたがたと過越の食事をしたいということを強く願っておられたということです。
それは、イエスさまの側からはユダを拒まれていません。ユダを受け容れ、愛し抜かれるのです。そして、イエスさまの過越の食事が終った後で、「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ」と、裏切る者の告知がなされるのです。
この過越の食卓の時において、ユダは自分自身をイエスさまの御前にあってわきまえ知る機会が与えられていたのです。イエスのその言葉を聞いたユダは、「それをご存じなのに、なぜ自分を招かれたのかとその心も動揺していたのかも知れません。しかし彼は沈黙し続け、結局イエスさまを金で引き渡して裏切るのです。ユダは、自分を愛し抜かれたイエスさまを拒み続け、彼はその責任を自ら負わなければならなくなるのです。

一方、イエスさまから裏切る者の予告を聞いた他の使徒たちはというと、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」とあります。
それは祭司長や律法学者らから命を狙われ、殺されようとしているイエスさまに目を向けるのではなく、自分たちのだれが悪いのか、という犯人探しに終始していたということです。
この時点で11人の弟子たちはいくら何でもイエスさまを裏切るようなことを自分たちは決してしはないと思っていたのではないしょうか。
しかしイエスさまは、暴力的な力によってご自身が捕えられていく時、使徒たちは自分の命が惜しくて逃げてしまうことを、ご存じでした。
 筆頭格の弟子シモン・ペトロはイエスさまが捕らえられていく後を宮廷まで追っていきます。
しかしそこにいた3人の人たちからイエスとの関係を問われると、ペトロは「わたしはあの人を知らない」と、3度も否んでしまうのです。イエスさまはそのペトロのこともご存じであられたのです。他の弟子たちもイエスさまが捕えられ、裁かれ、十字架に引き渡されて処刑される中、みな散り散りに逃げ去っていきました。

すべて存じであられたイエスさまは、それにも拘わらず「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と招かれるのです。何という主のご慈愛、いつくしみでしょうか。
この「最後の晩餐」の後、ゲッセマネの園で祈られ神の御心に従ってイエスさまは引き渡され、体中の肉が引き裂けるほどのむち打ちと十字架刑による暴力的な死を目の当たりにして、なお弟子たちが主の十字架における神の救いの真理を知り、そのイエスさまの愛によって使徒として福音を伝えて行くときがやって来るのです。
 このイエスさまの最後の晩餐、私たちにとって主の晩餐は、ユダヤ・イスラエルの民だけでなく、天地創造の主が命の息を吹きかけて生きる者となった全人類に与えられました。
旧約の時代よりの預言されていたように、異邦人の希望であるキリストの御救いにより、この主を信じる者だれも罪と悪の力の支配の滅びから救われるのです。

私たちは月に一度の主の晩餐に与ることを通して、イエスさま御自身がすべての人の罪を贖う神の小羊として、十字架にかけられ、肉を裂き、血を流して犠牲の死を遂げて下さって、私たちの罪と咎の審判をイエスさまが受け、すべての罪を贖ってくださったことを想起していくものですが。
 過越の折は、ほふられた小羊の血を家の門柱に塗ることで災いや滅びが過越しましたが。私たちは主イエスが十字架で裂かれたみ体を表すパンと流された尊い血潮を表すぶどうから作ったものを戴いて、その主イエスのいのちに与って生きる力に与るのです。それは私たちが日常の中で食事をするように普段からみ言葉を味わい、祈りの霊の油を戴くことで私たちの歩みは守られ、支えられていくことと同様です。主の晩餐によって自分の体の中にイエスさまの愛が入り、養われ、主のお姿に倣うものとされていくのです。

2000年前の晩餐の席には、神の御心がわからなくなり、主イエスの愛を否むような者、恐れから逃げ出すような弱く、つまずきやすい弟子たちがいました。けれどもイエスさまはそのような弟子たちを主の聖なる晩餐へと招かれました。彼らがその体験を主の記念として行う度ごとに、「わたしの愛と救いを思い起こすように」と、唯、主が差し出して下さる贖いのしるしに与る以外救いようのない弟子たちを主の聖なる食卓へと招かれるのです。

この最後の晩餐の後、使徒たちの中で誰が一番偉いかと議論していた彼らに向けて、イエスさまは次のように仰せになられます。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」
これはまさに、イエスさまご自身が十字架の苦難と死を通して自ら神と世人にお仕え下さったそのお姿であられます。

キリスト者というのは何か世的に立派な働きをするとか。親切で優しく清らかだからということではありません。神の御前で自分の罪深さに気づき、自分の弱さに泣き、「唯、神よ、お救い下さい」とひれ伏し祈る者が神の差し出される救いのパンと杯に与って救われ、その愛を知ってキリスト者とされているのです。このキリストの命とその愛に応えて生きるものとされてまいりましょう。
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