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わたしの宝

2019-11-24 15:59:13 | メッセージ

主日礼拝宣教 マラキ書31324

 

本日は旧約聖書のマラキ書第313節~24節より御言葉を聞いていきます。

まず、この個所は主なる神の審きの日が来ることを語っています。私たちはここを、主イエスの再来による最後の審判、それによるこの世の終りの到来の予告として読むことができます。17節、さらに21節に「わたしが備えているその日に」とあるのが、その主の再来の日、終りの日です。

まず、私たちはこの聖書の箇所が、神を知らない者にではなく、神とその恵みを知る「神の民」に語られたものであることを知らなければなりません。

その民について、今日の箇所は神の審きを前に大きく2つの立場がある、と指摘しています。

1つは、神さまを悲しませる神の民についてです。

すでに前回礼拝で読んできましたように、このマラキ書の時代は捕囚となった民がバビロンを倒したペルシャによって、エルサレムへの帰還が許され神殿の再建をするのですが。しかしその後彼らの期待したような復興は進みません。そういう中で神への思いと信仰は冷えてゆき、神に仕える祭司をはじめ、多くのイスラエルの民は、神の律法を蔑ろにし、主の名を軽んじていました。

主はまず祭司たちに対して、「神の前に汚れたパンや傷んだ捧げもの献げて、神の食卓と主の名を軽んじ、さらに一部の権力者や富裕層におもね、人を偏り見つつ教えた」と、告発されます。(2:5-9

また、36節以降には、イスラエルの民に対して、「あなたたちは先祖の時代からわたしの掟を離れ、それを守らなかった」と主は語っています。

神さまの祝福と約束は確かにある、変わらずに注がれているのですが。思い通りの状況がなかなか実現していかない現実に、民は不平不満をもち、主の恵みを見失い、信仰者としての生き方にも、人間関係にも、礼拝の姿勢にも、ささげものにも、破れが生じ、ひいては共同体全体の腐敗と滅びに向ってゆく。これは旧約の民の歩みの1つのパターンです。

そういう民に対して神さまは37節で、「立ち帰れ、わたしに」と御自身への信頼の回復を繰り返しよびかけられるんですね。

民の信仰が萎えた共同体の中では、神の教えは曲げられ、人々は呪術を行い、裏切りや偽り、不正や搾取が起り、貧富の格差が生じ、増していきました。

 

祭司はじめ、イスラエルの民は1415節にありますように、神さまが嘆かれるようなことを口にします。

「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても 万軍の主の御前を 喪に服している人のように歩いても 何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試しても罰を免れているからだ」と、つぶやいていたのです。こうした不信のつぶやきが神さまを深く悲しませるということです。

彼ら民にしてみると、神は人間の出来事に対してはっきりと正義を示して介入するべきだ、そうでないのなら神は不公平だ、とそう言いたかったのでしょうか。

 

神さまが残念に思われたであろうことは、この神への不平不満やつぶやき、反逆の思いがまったく神のことを知らない異邦人や異教徒ではなく、神に仕える祭司やイスラエルの民のうちから出ているという事であります。それが、神の心を深く痛め、悲しませたのです。

 

私ども主の御救いに与って生きるクリスチャンも、同様でありましょう。罪の滅びから贖われ、救いの恵み、感謝な思いを与えられて、希望をもって始まった信仰生活が、いつのまにか色あせ、アスファルトに落ちた種みたいに干からびたり、いばらが生えてきて恵みを感じられなってきてしまい、再び世の力や権勢、神でないものを主として依り頼んで生きることになるのなら、主イエスの十字架の苦難と、死は、その人にとって無意味なこと、偽りの歩みとなり、人の心を見通しておられる神さまを悲しませることになるのではないでしょうか。

この世の見える現実に心奪われてしまいますと、一体信仰が自分のために何の役に立っているのだろうか?信仰している意味は何なの?と、そのような思いが起ったことがあるという人は少なくないかも知れません。一体私たちクリスチャンの信仰とは何でしょうか?

聖書は物質的な又、社会的な祝福を否定していません。このマラキ書でも神さまはゆたかにささげることにおいてわたしを試してみよ、と言われ。必ず天の窓を開き、祝福を注ぐ、と言われます。

けれど、その祝福に先立つのは17節にありますように、神さまが「わたしの宝」だと言って、「神の宝」とされることです。

それは、主イエス・キリストなる神さまが、わたしのことをどんな時も、どこにいても、責任をもって引き受け、愛するためにこの神なき罪の世界から、私を「宝」(317)として愛し、その罪の滅びから救い、選び取ってくださったところにあります。それは私たちを取り巻く現実の問題が如何に厳しくとも変わるものではない神さまの恵みです。

 

罪深き、罪多き私が、全き聖なる神さまの前にとうてい立ち得ない者が、主イエス・キリストによって、罪の滅び、その捕われの身から贖い取られ、神の子とされている。もはや天の父よ、子よという関係とされている祝福であります。私たちはその主が私たちを全面的に愛し、信頼してくださっているという絶対的な恵みのゆえに、たとい苦難にあったとしても、主に祈ることができるのです。ここに信仰の大いなる希望があります。神さまに大いに期待していいのです。

 

さて、先に神の審きを前にして、今日の箇所は大きく2つの立場がある、と指摘していると申しましたが。

2つ目の立場は、神さまを喜ばせる神の民についてです。

神への不信を露わにする人たちがいる一方で、主を畏れ敬う者たちもいる、ということが16節に記されています。

「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」

厳しい現実の中でも、又不信仰のつぶやきの中でも、ひたすらに隠された神のご支配を、信仰の目で見つめ、それを信じて神に従って生きる者たち。彼らはむなしく泡のように消える「つぶやき」ではなく、「互いに語り合う」ことで、それは信仰の言葉で互いを励まし合うということではないでしょうか。そのことによって自らがを罪から守るのであります。教会という共同体がどうして存在しているのだろうかと思うとき、この「互いに語り合う」ために教会は存在しているんだと思えるんですね。

そしてここで注目すべきは、そういう語り合いによって交される主なる神を畏れる者たちの言葉を、主がみ逃すことなく耳を傾けて聞いてくださっているというということです。そのように神を畏れ敬う者を神さまは喜んでくださり神さまの命の記録の書に書き留められるという世にはない次の祝福を与えてくださるのです。

 

さらに1718節では、 「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、 万軍の主は言われる。(先ほども触れましたが、すごいことですね。神さまの宝ですよ)人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。」

17節に「わたしが備えているその日に」とあるのは、はじめに申しましたように、終りの日です。その日に何が起るのでしょうか。

の日、裁きの日、主イエスの再来の日には、主を畏れ、神に従う信仰者たちが、神によって神さまの宝として憐れみを受けるのです。

ここのヘブライ語の「憐れみ」の原語は、「選び取る」というという意味があります。つまりそれは神さまのものとなる、具体的には神の子としてこの世界から選び取ってくださるという意味です。

それはまさに、「正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別」が 明らかにされるときです。それがまさに審きです。その審きにおいて神のご支配が目に見える仕方で明らかになる。「神を信じて仕えても虚しいではないか」というつぶやきと不信仰は打ち砕かれます。世にあって神を畏れ敬い、信じ仕えてきた信仰者の歩みが明らかにされ、神の大いなる憐れみ、恵みを受けるのです。

 

さらに21節の「わたしが備えているその日に」と、主が言われるその終わりの日を、私たちクリスチャンは主イエス・キリストの再来・再臨の日として待ち望んでいるのです。

主イエスの再臨において、すべてが神さまの憐れみのうちに、その愛のうちに報われる、神の宝とされる。だから、今のこの、主のご支配がなお隠されている世界においても、その日その時に向って、主を畏れ敬い、信仰をもって忍耐強く、希望をもって主に仕えて生きるのです。

この、再臨によって明らかになる神さまの憐れみ、神さまが今すでにわたしの宝わたしの子としてこの罪の世から選び取ってくださっている恵みが、損なわれることのないように日々新たな救いの喜びに生きる者でありたいものです。

日々、私たちが健やかに生きるために呼吸が必要であるように、生ける神さまと向き合って日々祈りの対話を努めていくこと。又、私たちが健康を保つために日毎の糧が必要なように、日々霊の糧である御言葉を頂くこと。さらに、霊的な成長を助けてくれる信仰の友、兄弟姉妹との交わりに身をおいて、共に主に仕える時、神さまは聖霊をお送り下さり、私たちの信仰を刷新し、いつもみずみずしく新鮮なものとなしてくださいます。

目的のない人生ほどむなしいものはありません。

私たちクリスチャンにとって真に幸いなことは、私たちがどこへ向かって歩んでいるか、ということを今日の御言葉のごとく、知ることが許されているということですね。

 

本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝です。私たちの歩みが、主を悲しませるものでなく、主に喜んでいただけるようなものとなりますよう、今日は特に世界宣教の働きを祈りに覚え、捧げつつ、又わたしたちも身近なところから、その生の全領域において、主イエスの福音を伝え、証し、共に分かち合っていくものとされてまいりましょう。

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