☆11月13日(水)
☆午後3時~7時
☆ばしょ:大阪教会の2階ホール
☆こんだて オムレツ、スープ、サラダ
☆さんかひ こども 50円
親・おとな 200円
みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。
宿題もっておいでや~。
赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。
ボランティアさん、ほぼ10人おります。
お気軽においでや!
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礼拝宣教 マラキ書2章17-3章12節 バプテスト福祉デー
今日は、バプテスト福祉デーをおぼえての礼拝でもございます。福岡にあるバプテスト心身障害児(者)を守る会・久山療育園、キリスト者奉仕会・大牟田敬愛園、京都にありますバプテストめぐみ会・バプテストホーム、大阪にありますしんもり福祉会・平和の子保育園、都城にあります相愛会・相愛保育園と全国に5つの社会福祉団体があります。どうかその一つひとつのお働きのためにお祈りとお支えをお願いいたします。
さて本日は聖書教育の箇所にもどりマラキ書からみ言葉に聞いていきます。
このマラキ書は、紀元前5世紀頃に活動した預言者の書といわれていますが。
イスラエルがバビロンに討ち滅ぼされ、捕囚となったイスラエルの民は、後にペルシャの王キュロスの許可を受け、神殿を再建する為のエルサレムへの帰還が実現しました。
そうして預言者ハガイやゼカリヤの奨めと励ましによって、崩壊していた神殿がついに再建されます。
ところが、一部の富裕者を除き、多くのイスラエルの民は飢饉や貧困に悩み苦しんでいたのです。
同年代のネヘミヤ記5章を読みますと、飢饉や貧困の中、イスラエルの一部貴族や役人が、イスラエルの庶民に税の取り立ての強要や、搾取を繰り返し、「同胞に重荷を負わせていた」(ネヘミヤ5章)とあります。
そればかりではありません。神さまとの「いのちと平和の契約」を結んだレビ族の祭司たちも又、神を畏れ敬うことなく御名を軽んじるような悪を働いていました。
そのような彼らに、主は預言者を通して言われます。
「あなたたちは道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせた。レビとの契約を破棄してしまった」「あなたたちがわたしの道を守らず、人を偏り見つつ教えたからだ」。
「裁きの使者」
そう言う社会的状況の中で、民もまた神さまに不満をぶつけます。
民は「なぜ悪を行う者を神が良しとされ、彼らを喜ばれるのか」。「裁きの神はどこにおられるのか」などとつぶやくのです。
神殿は再建されたものの、社会的な格差が生じ、庶民の現実の生活は変わるどころか悪くなってゆくばかり。その不満と怒りが、次第に神さまの御名を軽んじることとなってゆくのです。
確かに困窮した状況もあったでしょう。しかしそれがだんだん露骨に現れてきます。神殿で捧げる奉納物について「何と煩わしいことか」と言って神様をがっかりさせ、1章にありますように、その手元にある家畜の中から、なるべく価値の低い傷もの、欠陥ものをごまかし、偽って主にささげていたのです。
これも又、政権者や富裕層、また祭司と同様に、神を偽り軽んじる行為でありました。
そんな彼らに対して神さまは預言者をお遣わしになるのですが。
彼らは「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」また「どのように主を疲れさせたと言うのですか」と問うのでありますが。
しかし主はすべてをご存じです。彼らの心がもはや救いの神への感謝と賛美から離れ礼拝を軽んじ、神さまとの契約において期待された命と平和と正しさ(2章5節)とを疎んじていたこと。それは不信仰と神の愛に対する裏切りでした。
それでもなお主はその民に向け、預言者を通して悔い改めと立ち返りの命の道をお示しになるのですね。本当に何と主は憐れみ深くご忍耐強いお方かと思います。
私自身を省みましても、数々の至らなさ又弱さ、失敗を繰り返すような、到底主の許しがなければ神のみ前に立つことなどできない者であることを知らされます。
ただ主の憐れみにおすがりする他ないものであります。
日々自分の思いと行動を吟味しつつ、主のみことばと救いのお恵みに応えて生きるものでありたいと心底願うものです。
さて、主はこの預言者を通してイスラエルのレビの子祭司と、民の全てに向けて語られます。
3章1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る」と万軍の主は言われる。
メシヤの到来に関する預言でありますが。
これは、私たちキリスト者が読みます時に、使者はバプテスマのヨハネを、待望の主はまさに主イエス・キリスト、私たちの救いの原型をここに見るのではないでしょうか。
2節には「だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁(あく)のようだ」。3節「彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである」とその方のお姿を示します。
実際主イエスさまは、その正しいお言葉と行ないによって、祭司や律法学者、又民衆の罪と不正を露わにされ、罪を清めて汚れを除くお方としてこられたのです。それはまた私たち異邦人にもそのような救いがもたらされるためでした。
4節に「このお方を通してユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々、過ぎ去った年月にそうであったように主にとって好ましいものとなる」とありますように、救いの感謝と賛美を持って捧げられる霊と真の礼拝がやがて主によって実現されてゆくのであります。
ここでは5節で、イスラエルの民のなした数々の罪に対して、主は自ら裁きのために近づかれ直ちに告発すると言われます。告発と言うのは非常に強い表現でありますが。しかしそれほどまでに罪が指摘されている彼らに対して、神さまは悔い改めの勧告をなさいます。
「立ち帰れ、わたしに。そうすれば わたしもあなた方に立ち返る」。神はそう呼びかけ続けておられるのですね。
しかし、民は頑なで、あるいは自分たちがどういう状況であるか心が鈍くなっていたために「自分たちは一体どのように立ち返ったらよいのか」と問い返すのみであります。
「回復される信仰」
祭司の責任は大変重いものでありました。
祭儀に携わるレビ族の多くは嗣業の土地をもたず、収穫や所有地がありませんでした。神に信頼して行く中で、すべての必要が備えられる信仰をもって主と人に仕えたた。これが祭司でした。
祭司たちが人を偏り見たり、「いのちと平和」の契約を軽んじるようなことをするなら、そのレビの子たちの言動に民たちは戸惑い、多くをつまずかせてしまうことになったのです。
だから、まず祭司であるレビの子ら自身が主によって精錬され、清められる必要があったのです。
それは「彼らが主に献げ物を 正しくささげるものとなるため」であります。
神を神として畏れ、敬う道を真っ直ぐに自ら進む姿勢であります。
主はレビの子らに立ち帰れと呼びかけ、罪にまみえる汚れ、神ではなく自我への執着という不純物を主が取りのぞいて、主に捧げ物を正しくささげる者となることが求められていたのです。
「正しくささげる」とは、どれだけささげたか、という何か量で計れるようなものではなく、まことの神を神として畏れ、敬う姿勢にあります。
わたしどもの罪を贖ってくださった主の御愛は、わたしどもがどんなに富や宝を積んでも買うことのできないか神さまの恵みであります。
主はただ、わたしどもが罪贖われたものとして、主に立ち返って、新しく造られた者として生きる事を願っておられます。
又、一度主のもとから離れてしまっても、やり直す道を主は備えていてくだいます。
わたしどもの信仰は小さく、弱いものです。しかし、主は真に立ち帰るものを憐れみと慈しみをもって迎えてくださるお方です。
この主に立ち返って生きることこそが、私個人にとどまらず私をとりまく人や社会の「命と平和」へと繋がってゆくのです。
「わたしを試してみなさい」
さて、イスラエルの民がずっと守り続けてきた10分の1と奉納物の教え。それはエジブトの奴隷状態であった彼らが、そこから解放されて神さまの選びの民とされてゆく中で、神さまとの契約に応える形で捧げられてきたのですが。
この時代におけるユダの人々は一向に繁栄を取り戻せない状況の中で疲れ果て、その不平不満が主に向けられ、信仰が萎えていたのです。
これに対して、主は預言者を通して厳しく臨まれます。
8節「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一と献納物においてである。あなたたちは、甚だ呪われる。あなたたち民全体で、わたしを偽っている」。この「偽っている」という言葉を新改訳聖書では「盗む」と大変ショッキングなかたちで訳されています。が、
ニュアンスや意味としては「盗む」の方が「偽る」よりも原意に近いかと思います。
神がイスラエルの先祖とその子孫に命じられた十分の一と献納物の掟、レビ27章、民数記18-19章を見ますと、祭司と祭儀を担うレビ族は土地や資産を所有せず、他の部族の捧げる10分の一の捧げ物と献納物の中から生活の必要を受け取り、その務めを果たしていました。また彼ら自身も十分の一を納めていました。
そして彼らレビ族は、真理の教えを語り、それらの捧げ物を町の中に常に蓄えておき、在留異邦人、みなしご、やもめたちが十分に食べられるように管理、分配するように定められていたんですね。本日はバプテスト福祉デーですが。それは福祉のためにも活かされていったのです。
まさに「いのちと平和」が保たれていくための十分一の捧げものであったんですね。
それは、イスラエルの民が与えられている全てのものは神のものであり、それらが共同体で豊かに分かち合われることによって神の愛と慈しみが現わされるため行為であったのです。
ところが、このマラキ書の時代イスラエルの民の多くは、自分たちが所有するすべてが主から与えられたもの、管理を委ねられているものであって、それは「命と平和を創り出すため、神から委ねられているものである」という意識が大変希薄になっていたようです。
祭司やレビ人は本来の役割をないがしろにし、裕福な人や力を持つ人は不正や搾取といった不法を行い、民衆は神への不信を引き起こしました。これはもう不信仰のスパイラルとでも言いますか。
バビロン捕囚の時代から解放されて国の再建と神殿の建築がせっかく完成したのにです。
そこで主は7節「立ち帰れ、わたしに。そうすればわたしもあなたたちに立ち帰る」と呼びかけられて、10節にあるように「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう」と言われます。
それを持って「命と平和」が告げ知らされ、共同体の誰もが困窮から救われるためであります。
さて、キリスト者がここから献金について学ぶとき、丁寧な解き明かしを欠く為に、ともすればこの「試す」ということについて誤解をしてしまうことがあります。
それは例えば、「神さまを試すことは普通慎まなければならないが、この十分の一をささげる時だけは神を試してもいい」と解釈する人もあります。
「だまされたと思って試してみなさい」と安易に口にしてしまう人もいるかもしれません。
そこで覚えたいのは、聖書には「神を試みてはならない」との戒めがあり、又、新約ではイエスさまが荒れ野でサタンの試みに遭われた折、イエスさまがサタンに対して「あなたは神である主を試してはならない」と指摘された事です。
この場合の「試す」(ニッサー)は、悪魔や誘惑する者が、悪意や疑念をもって神を試みるときに用いる言葉であります。しかし聖書にはもう一つ「試す」という原語があります。それがこのマラキ書の「主を試してみなさい」という「試す」(バ―ハン)であります。
それは先のように悪意や疑念をもって私たちが神さまを試すものではなく、神さまが愛のまなざしをもって、その民、その子に「さあ、わたしに信頼してごらん」という信仰的応答への招きの言葉なのであります。
同じ日本語で試すと訳されていますが、意味が全然違うのです。聖書を原語から読みってだから大切ですよね。
ここで主は、疑う者、不信仰なイスラエルの民をあきらめることなく、「わたしに立ち返り、十分の一のささげものに対しても、わたしを信頼してごらんなさい」と語りかけ、自らも、また共同体全体も祝福の恵みと豊かさに与って生きるよう招いておられるのです。
これはまさに、主の恵みの招きに、信頼と心からのささげものをもって応えていく者に、主は天の窓を開いて、その必要を満たしてくださる。そればかりでなく、その豊かさが溢れて隣人の必要までも満たしていく、そのように用いられていくと言う神の国の喜びがそこに開かれていくのであります。
私も神学校に行くとき、又牧師と立てられてからの長い年月において、エリヤのからすのお話しではありませんが。本当に主は、私的にピンチと思えるようなことがあっても、その必要を主は十分に備えていてくださいました。
こうして今日もお用いいただき主の恵みをわかちあうことの許されている幸いを心から感謝しています
今日のみ言葉を私自身、主の戒めとして肝に銘じ歩んでいきたいと願うものです。
神さまへの捧げものは、救いの喜びと感謝の応答です。それは献金に限らず、生活のすべてにおける時間、からだ、与えられた能力や賜物が神と隣人を愛し、分かち合い仕えるために神から託されているものであります。
私を信頼して試してみなさいと招かれる主の愛のみ声にこたえつつ、今週もこの礼拝から希望をもってそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。