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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

自己完結しない道

2025-06-22 15:09:54 | メッセージ
礼拝宣教    フィリピ3章10-4章1節 

この手紙は使徒パウロが迫害のため牢獄に入れられた、そのところからフィリピの教会の信徒たちに書き送ったとされています。その手紙の冒頭でパウロは、「キリスト・イエスの僕であるパウロから」と挨拶しています。僕というのは奴隷を表す用語ですが。彼は自分が、神に敵対する勢力に囚われているというのではなく、「キリストに捕らえられている」、「キリストの僕」であるというのです。
キリストの十字架と復活の福音を伝えていたパウロは、何度も激しい迫害を受け、投獄されることがありました。けれどもそういう中で絶望することなく、なおも信徒たちを励まし続けるのです。それは彼がキリストとそのたぐいなき福音に捕らえられていたからです。

今日もこうして時間を主に取り分けて礼拝のために集われた皆さんもキリストに捕らえられたお一人お一人でありましょう。私たちにも多少なりとも困難や憂いの時がありましょう。けれど、願わくばそんな時にも、キリストが私たちを捕え、引き寄せてくださり、福音に生き続けることができますようにと祈ります。それは、キリストにある命が永久(とこしえ)であるからです。

パウロは10-11節で次のように述べます。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
キリストは死よりよみがえられ、40日間弟子たちに現れた後、天に昇られました。神の御心を成し遂げられ、天と地のいっさいの権能をお受けになり、その力ある言(ことば)によって万物を支えておられます。そして来るべき日には地を正しく裁くお方として再び世に現れ、全世界を統治なさることが約束されています。
ここで、パウロは「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」というのですが。それは単によみがえりたい、又永遠に生きていたいということではないでしょう。
キリストが正しく地を裁き、世を治めるその「天の国」にパウロは何とかして与かりたからです。
私たちも、愛する主のみもとに与る日が地上の歩みの先に用意されている事を希望として生きています。
復活は、単に死んだ後の世界のことではないのです。現に今、この時も、十字架とよみがえりのキリストが私たちと共にいてくださる、キリストのご支配のうちにある、このIn Christ、キリストにあって私たちが生かされていること自体、キリストの復活の命に生かされているのです。
そこで大事なことは、今を生きる私たちが、あの十字架につけられたキリスト、それも今なお、この私、すべての人、この世界のために傷つき、痛み、血を流され、とりなされる主を見上げて如何に生きるか、ということであります。
パウロは「その姿にあやかりながら」と言いました。それは、キリストに「自分を重ねながら」ということです。

パウロは12節-14節でこう述べます。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」
彼は、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言うのです。先回礼拝で読みましたガラテヤの教会にはパウロに敵対するような人たちが入り込んでいました。このフィリピでも同様に、自分たちが如何に立派で優れた信仰者であるかと自任し、誇り高ぶって、指導力を得ようとしていた人たちがいました。彼らは言わば「自己完結していた」者たちでした。愛の動機から福音を宣べ伝えていた人たちがいる一方で、そういう虚栄心とおごりから行動していた人たちもいたのです。

実はそれはキリスト者となる前のパウロ自身もそうでした。彼はかつて神のために大変熱心に働いていると自任し、自分の能力や正しさを誇り、その意に反する者をさげすみ、迫害しました。そんな彼が復活の主、キリストとの出会いを経験するのです。
そこで彼はそれまでの自己完結していたその愚かさを思い知らされ、打ちのめされてしまうのです。そうして心砕かれたパウロは、自分の力や能力は塵あくたに等しく、今自分がこのように救われているのは、唯、キリストの恵みに以外にないと自覚する事ができたのです。

パウロが「後ろの者を忘れ」と述べたのは、過去の才能や能力、地位や立場、世の基準に価値をおき、それら頼みとしていたものを忘れ捨て去り、「前のもの」すなわちキリスト、十字架に自らを差し出されるほどの神の愛とその救いを追い求め続けて生きる道に、全身を向けてひたすら進む、ということです。
彼はそのように自分のありさまを陸上競技に参加する走者、ランナーにたとえます。
そのスタートはイエス・キリストを救いの主として信じた時点、ヨーイドーン!で走り出します。走り出してからは様々出来事が起こります。時に進めなく滞ったり、コースを見失いそうになったりと。
「天路歴程」というジョン・バニヤンの有名な書物がありますが。様々な出会いや出来事に遭遇しながら、皆さんそれぞれの道を今走り続けておられるのです。まあ、走っているのでなく、歩いているという方もおられるかもしれませんが。大事なのはひたすら目標を目指して走り、歩み続けることです。私たちの今現在は、確かに主にあって新しい命の道の途上にあるのです。
そして「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えくださる賞を得るために、目標を目指して」人生の嵐の日も雨の日も日照りの日もひたすら走り、歩み続けることが大事なのです。

さて、パウロは17節で「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と勧めます。
すでに読んできましたように、パウロは自信家、うぬぼれが強かったのではなく、又自分はこんなにも立派なのだから「私に倣え」と言っているのではないのです。それは「後ろのもの、自分の才能や能力、地位や立場、世の中の基準に価値をおき、それを頼みとする事から解放され、前のもの、キリスト、その神の愛と救いを追い求め続けて生きることを示すのです。
自分の知識や業を誇り高ぶり、自己完結してしまっていたいわば卒業クリスチャン。そういう人は十字架の救いを必要としません。パウロはこうした人たちの教えに惑わされないよう、注意を呼びかけながら、「まだ目標に達していない私の姿を見てください」「私の弱さを見てください」「途上にいながら夢中で走っているのを見てください」「唯キリストの十字架を誇りとする姿に倣いなさい」と、訴えかけます。
主イエスを信じる人、キリスト者とは、自分が救って戴くほかないことを知っており、キリストの十字架の救いを必要とする人です。
自己完結した人は自分の世界に生きるのみですが、キリストを主、救い主としている人は20節、「わたしたちの本国は天にあります。」(20節)と言い表すことができます。
そのわたしたちの本国は天にあると言い表すことができる人たちの「目標」こそ、21節にありますように「主が御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」その様なキリストの似姿とされてゆくということであります。
ヨハネ福音書14章6節で主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、おっしゃいました。主イエスが父の神のもとに行く道であるというのです。
主は初めと終り、スタートとゴールにいらっしゃるだけでなく、その途上におられることは何よりも私たちにとって大きな恵み、支えであります。そうすれば「既にゴールに達した、完成した」とは到底言えません。しかしその不十分な弱い私に、私たちに主は生ける御言をもって伴走してくださるのです。
何とありがたいことでしょうか。
そう考えますと、「今ここ」「今この時」が大切なのです。
私たちも、自己完結の道ではなく、真理であり、命であるキリストの道を歩み通す者とされてまいりたいと願います。お祈りします。
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