主日礼拝宣教 ダニエル3章
先週の大きなニュースは米国の新大統領としてドナルド・トランプ氏が選出されたことでしょう。大方のマスメディアの予想とは異なる結果となりましたが。今も反対する人たちの抗議が続いているうようですが。いずれにしろ、アメリカ合衆国の人々の抱える諸問題が大きく深刻な事態であることの一端を垣間見せられた思いです。
アメリカはもともと移民の人々が多くおられ、二代目の大統領ジェファーソン氏も移民の一人であったそうですが。今も53という多くの州による合衆国として今日まで成り立っています。そこには多様性や寛容性、自由と民主主義が尊重されてきた長い建国からの歴史があります。そのことが今後も堅持されていくのかどうか、先行きは不透明でありますけれども、今世界から注目されています。日本にも大きな影響を及ぼすことになることが予想されてもいます。一国の長たる人がどのような判断をしていくのか、神の介入を祈らないではおれません。
さて、本日はダニエル書3章のネブカデネツァル王と3人のユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのエピソードから、御言葉に聞いていきたいと思います。
イスラエルの国は壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚とされた人々、そのダニエルら4人の物語を先週より読み始めました。
バビロンの王に召し上げられ養成を受けて王に仕えることとなった4人でしたが。ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を、ダニエルは主なる神によって解き明かすことになります。そうしてダニエルは非常に高い位につくことになり、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。ところが、ここは異教の地であります。王は巨大な金の像を造り、「もしひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのでありますから、大変なことです。
そうした事態の中で、カルデヤ人の役人たちは、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴら3人が、ネブカドネツァル王の造った金の像を拝まなかったという理由で、彼らを王に訴えます。
カルデヤ人らにとっては、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることがうとましかったのかもしれません。それを聞いた王は怒りに燃え、彼ら3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今・・・ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と彼らを詰問するのです。
それに対してシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と、ピシャリと言い放ちます。彼ら3人の態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは彼らの神への信仰の確信から来たものでした。
昔からどのような国であっても、為政者や権力者たちはその民に特定の崇拝の対象を強要することで、国をまとめようとしてきました。現代の社会においては、「国家経済」という名の偶像を拝することが奨励され、優先され、それがかえって市民を不安や生きにくいくさせているように思えてなりませんが。とにかく、この当時のバビロンは多神教でしたので、ネブカデネツァルのこのような政策も受け入れられていたのです。
けれども、ただ唯一の神のみを信じ仕えるユダヤ人の場合は異なっています。ネブカデネツァルが造った金の像にひれ伏すことは、その自分たちが信じ仕える神に背くことになるからです。又、十戒の1,2の戒めにあるとおり、神が最も忌み嫌われることが、偶像礼拝ですから、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の臣下ではありましたが、金の像を拝むことだけには従うことができませんでした。異教の地バビロンにおいて王に対しても敬意をもって忠実に仕えていたであろう彼らでしたが、「神でないものを神のように崇拝する。」そのことに対してはきっぱりと拒否する態度を堅持したのです。あの内村鑑三先生をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈せずただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達のことを想うとき、彼らの姿勢から私たちも学び倣うことがあるように思えます。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、その信仰の告白を言い表します。
さらに彼らはこうも言っています。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここをお読みになって、彼らが口にする「そうでなくとも」と言うのは。先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思われるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくともというのは変だ」と。この新共同訳はあまりよい訳とはいえません。口語訳聖書では、ここは「たとえそうでなくても」となっています。
この、「たとえそうでなくても」という言葉には彼らの強い意志、「生ける主こそ神である」「このお方に従う」という決意がにじみ出ているように思えます。
私たちも「主が共におられるのだから」と信仰をもって踏み出します。けれども、神さまだけがほんとうに人の道の何たるかを知っておられるのですから、「たとえそうでなくとも」というのは、何かうまくいかなかった時の逃げ口上ではありまん。「たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、主は知っておられる。主がすべてを導かれる。」そういう信仰の表明だということですね。このような主への信頼の言葉を私たちも日々口にする者でありたいと願うものであります。
ダニエルらの時代も、また彼らのエピソードが書物として編纂されていった時代も、ユダヤ人たちは権力と悪政による激しい迫害下におかれていました。そう状況のもと、不条理ともいえる死を遂げる信仰者が多かったのであります。そういう中で、「神は救えなかったのか」「神はどこにおられるのか」という不信へ誘う囁きが、信仰者に向けられていったことでしょう。
このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの「たとえそうでなくとも」と言う言葉の中に、彼らは真に畏るべきお方がおられることを知っていたことが分かります。マタイ福音書のイエスさまのお言葉に、「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」とあります。その真に畏るべきお方にどこまでも従い行く。この「たとえそうでなくとも」という言葉が、まことに壮絶な迫害にさらされていたユダヤの人々に、どんなにか大きな励まし、支えとなったことかと想像いたします。
この日本でも大きな迫害の歴史を経て、又戦後の民主主義や自由を保障する日本国憲法によって、今のこの信教の自由は認められるようになりましたけれども、それがどんなに貴重なことかと心底思います。一方で時を同じくして迫害にさらされている地もございます。「思想信条、信教の自由」が与えられ、守られるよう心から願うものです。
さて、バビロンのネブカドネツァルは彼らの3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた」とあります。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
するとどうでしょう、彼ら3人を引いていった屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺したというのです。この後のダニエル書6章も、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルは無事で、彼を告発者たちが逆にライオンに食べられてしまう、そんな出来事を伝えています。「復讐はわたしのなすことである」とは神さまのお言葉でありますが。ここには義人を苦しめる者は、その犠牲者のために用意した刑罰そのものを自ら被ることになるということが、伝えられているのであります。
こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」とありますね。その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中で、彼ら三人が若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、その言葉が記されています。
そこには、「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです」(4節)と祈られ、「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください」(22節)との祈りが続きます。
そうしてまさにその祈りは聞かれるのであります。
続編には、その炉の中に天使が降り炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼しい風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった、と書かれていますが。
その時ネブカドネツァルは炉の中に、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と言ったというのが25節ですね。王は燃え盛る炉の口に自ら近づき、3人の名とともに「いと高き神に仕える人々よ出て来なさい」と呼びかけ、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた」と、3人が祈ったように王が主を賛美するのです。
バビロンの多神教という宗教的地盤をもつ中で、その王がこのような信仰を言い表したことは驚きといえないでしょうか。先にも申しましたが、王は多神教という地盤を利用して国家的な一つの宗教を打ち立て、より強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。その権力をもって優秀なユダヤ人たちをバビロン化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのかも知れません。けれども、エルサレムの神殿の崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの人々は深い悔い改めによりその信仰はより堅固なものとされていたのです。試練の中で揉まれながら主に向かう信仰は、天と地を創造し、生と死を司っておられる神によって導かれ守られるのです。
バビロンのネブカドネツァル王は、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神、すなわち真の神々の神、すべての王の主をたたえよ」と、すべてをおさめたもう生ける神を賛美してさらに言います。「彼ら3人が王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったから、神はこの僕たちに御使いを送って救われた。」
この王の言葉は、おなじく多神教のこの日本に住む、私たちキリスト者にチャレンジを与えているように私には思えます。仏教の影響が根強く、又地域や家族とのかかわりの中で異教的な行事や慣習も多くあり、私たちはそういう中でいろんな信仰の闘いにさらされます。そこで闘いが起きないのはむしろ信仰の危機といえるのかも知れません。
どこかでいいかげんに妥協し、いつしかそれが習慣化してもはや自分の中に葛藤さえ生じなくなった時、そこに果たして救い主への感謝、それどころか主とのいのちの交わりが保たれているといえるのか。主の御前にあっての自己吟味が必要かも知れません。
私たちは信仰の闘いが起こることを通して、自分と神さまとの関係、又、何を第一としていくかが問われます。それは又、より深く神さまの栄光を仰ぐための実は機会でもあることを覚えたいものです。
もう一つ、このネドカドネツァルも見た四人目の者については、先に申しましたように、
神に仕える天使だとも言われていますが。他に、主に忠誠を尽くして最期を遂げた殉教者たちを表している、とも読めなくはありません。
しかし、ここで4人目の者についてネブカドネツァルが、「神の子のような姿をしている者」と言ったように、それは、燃え盛る炉で火に囲まれるような状況に投げ込まれる中にも、「わたしはあなたを決して見捨てない」といって、共にいて守り、希望を得させ、賛美をささげさせてくださる、インマヌエルの主であられます。
真に神に仕え従い行く者の道がどのように厳しく、闇のような中にあっても、主は必ず共にいてくださる。そのことを今日は三人の若者の主への信頼と、「たとえそうでなくとも」という信仰の確信の御言葉から聞いてまいりました。
最後に、先週の水曜日にお二人の方が教会を訪ねてこられました。お一人はキリスト教について教えてほしい、という内容で、1時間くらい朝の祈祷会前にその方とお話する機会がありました。又、夕方の祈祷会に10年前に1ヶ月でバプテスマ受けたが、その後教会から離れて家が仏教のためにキリスト教の信仰と仏教の信仰の違いが分からなくなり、悩んでいるということで教会を訪ねてこられたということです。祈祷会の祈りの時に御自身からそのことを勇気をもって打ち明けてくださり、共に祈り合いました。
ほんとうに、キリスト教について知りたいという方や、クリスチャンになられてからもいろんな問題で悩み苦しんでおられるかたがたがまだまだ多く地域におられるということを改めて実感した二つの出会いでした。
この大阪教会に連なるわたしたちそれぞれに託された務め、働きがあります。それは主が今も生きてお働きくださっていることが、証しされていく主のご計画と栄光のためにそれぞれが用いられている、ということです。そのためにさらに主に祈り求めつつ、今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
先週の大きなニュースは米国の新大統領としてドナルド・トランプ氏が選出されたことでしょう。大方のマスメディアの予想とは異なる結果となりましたが。今も反対する人たちの抗議が続いているうようですが。いずれにしろ、アメリカ合衆国の人々の抱える諸問題が大きく深刻な事態であることの一端を垣間見せられた思いです。
アメリカはもともと移民の人々が多くおられ、二代目の大統領ジェファーソン氏も移民の一人であったそうですが。今も53という多くの州による合衆国として今日まで成り立っています。そこには多様性や寛容性、自由と民主主義が尊重されてきた長い建国からの歴史があります。そのことが今後も堅持されていくのかどうか、先行きは不透明でありますけれども、今世界から注目されています。日本にも大きな影響を及ぼすことになることが予想されてもいます。一国の長たる人がどのような判断をしていくのか、神の介入を祈らないではおれません。
さて、本日はダニエル書3章のネブカデネツァル王と3人のユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのエピソードから、御言葉に聞いていきたいと思います。
イスラエルの国は壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚とされた人々、そのダニエルら4人の物語を先週より読み始めました。
バビロンの王に召し上げられ養成を受けて王に仕えることとなった4人でしたが。ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を、ダニエルは主なる神によって解き明かすことになります。そうしてダニエルは非常に高い位につくことになり、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。ところが、ここは異教の地であります。王は巨大な金の像を造り、「もしひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのでありますから、大変なことです。
そうした事態の中で、カルデヤ人の役人たちは、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴら3人が、ネブカドネツァル王の造った金の像を拝まなかったという理由で、彼らを王に訴えます。
カルデヤ人らにとっては、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることがうとましかったのかもしれません。それを聞いた王は怒りに燃え、彼ら3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今・・・ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と彼らを詰問するのです。
それに対してシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と、ピシャリと言い放ちます。彼ら3人の態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは彼らの神への信仰の確信から来たものでした。
昔からどのような国であっても、為政者や権力者たちはその民に特定の崇拝の対象を強要することで、国をまとめようとしてきました。現代の社会においては、「国家経済」という名の偶像を拝することが奨励され、優先され、それがかえって市民を不安や生きにくいくさせているように思えてなりませんが。とにかく、この当時のバビロンは多神教でしたので、ネブカデネツァルのこのような政策も受け入れられていたのです。
けれども、ただ唯一の神のみを信じ仕えるユダヤ人の場合は異なっています。ネブカデネツァルが造った金の像にひれ伏すことは、その自分たちが信じ仕える神に背くことになるからです。又、十戒の1,2の戒めにあるとおり、神が最も忌み嫌われることが、偶像礼拝ですから、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の臣下ではありましたが、金の像を拝むことだけには従うことができませんでした。異教の地バビロンにおいて王に対しても敬意をもって忠実に仕えていたであろう彼らでしたが、「神でないものを神のように崇拝する。」そのことに対してはきっぱりと拒否する態度を堅持したのです。あの内村鑑三先生をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈せずただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達のことを想うとき、彼らの姿勢から私たちも学び倣うことがあるように思えます。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、その信仰の告白を言い表します。
さらに彼らはこうも言っています。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここをお読みになって、彼らが口にする「そうでなくとも」と言うのは。先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思われるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくともというのは変だ」と。この新共同訳はあまりよい訳とはいえません。口語訳聖書では、ここは「たとえそうでなくても」となっています。
この、「たとえそうでなくても」という言葉には彼らの強い意志、「生ける主こそ神である」「このお方に従う」という決意がにじみ出ているように思えます。
私たちも「主が共におられるのだから」と信仰をもって踏み出します。けれども、神さまだけがほんとうに人の道の何たるかを知っておられるのですから、「たとえそうでなくとも」というのは、何かうまくいかなかった時の逃げ口上ではありまん。「たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、主は知っておられる。主がすべてを導かれる。」そういう信仰の表明だということですね。このような主への信頼の言葉を私たちも日々口にする者でありたいと願うものであります。
ダニエルらの時代も、また彼らのエピソードが書物として編纂されていった時代も、ユダヤ人たちは権力と悪政による激しい迫害下におかれていました。そう状況のもと、不条理ともいえる死を遂げる信仰者が多かったのであります。そういう中で、「神は救えなかったのか」「神はどこにおられるのか」という不信へ誘う囁きが、信仰者に向けられていったことでしょう。
このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの「たとえそうでなくとも」と言う言葉の中に、彼らは真に畏るべきお方がおられることを知っていたことが分かります。マタイ福音書のイエスさまのお言葉に、「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」とあります。その真に畏るべきお方にどこまでも従い行く。この「たとえそうでなくとも」という言葉が、まことに壮絶な迫害にさらされていたユダヤの人々に、どんなにか大きな励まし、支えとなったことかと想像いたします。
この日本でも大きな迫害の歴史を経て、又戦後の民主主義や自由を保障する日本国憲法によって、今のこの信教の自由は認められるようになりましたけれども、それがどんなに貴重なことかと心底思います。一方で時を同じくして迫害にさらされている地もございます。「思想信条、信教の自由」が与えられ、守られるよう心から願うものです。
さて、バビロンのネブカドネツァルは彼らの3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた」とあります。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
するとどうでしょう、彼ら3人を引いていった屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺したというのです。この後のダニエル書6章も、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルは無事で、彼を告発者たちが逆にライオンに食べられてしまう、そんな出来事を伝えています。「復讐はわたしのなすことである」とは神さまのお言葉でありますが。ここには義人を苦しめる者は、その犠牲者のために用意した刑罰そのものを自ら被ることになるということが、伝えられているのであります。
こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」とありますね。その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中で、彼ら三人が若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、その言葉が記されています。
そこには、「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです」(4節)と祈られ、「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください」(22節)との祈りが続きます。
そうしてまさにその祈りは聞かれるのであります。
続編には、その炉の中に天使が降り炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼しい風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった、と書かれていますが。
その時ネブカドネツァルは炉の中に、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と言ったというのが25節ですね。王は燃え盛る炉の口に自ら近づき、3人の名とともに「いと高き神に仕える人々よ出て来なさい」と呼びかけ、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた」と、3人が祈ったように王が主を賛美するのです。
バビロンの多神教という宗教的地盤をもつ中で、その王がこのような信仰を言い表したことは驚きといえないでしょうか。先にも申しましたが、王は多神教という地盤を利用して国家的な一つの宗教を打ち立て、より強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。その権力をもって優秀なユダヤ人たちをバビロン化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのかも知れません。けれども、エルサレムの神殿の崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの人々は深い悔い改めによりその信仰はより堅固なものとされていたのです。試練の中で揉まれながら主に向かう信仰は、天と地を創造し、生と死を司っておられる神によって導かれ守られるのです。
バビロンのネブカドネツァル王は、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神、すなわち真の神々の神、すべての王の主をたたえよ」と、すべてをおさめたもう生ける神を賛美してさらに言います。「彼ら3人が王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったから、神はこの僕たちに御使いを送って救われた。」
この王の言葉は、おなじく多神教のこの日本に住む、私たちキリスト者にチャレンジを与えているように私には思えます。仏教の影響が根強く、又地域や家族とのかかわりの中で異教的な行事や慣習も多くあり、私たちはそういう中でいろんな信仰の闘いにさらされます。そこで闘いが起きないのはむしろ信仰の危機といえるのかも知れません。
どこかでいいかげんに妥協し、いつしかそれが習慣化してもはや自分の中に葛藤さえ生じなくなった時、そこに果たして救い主への感謝、それどころか主とのいのちの交わりが保たれているといえるのか。主の御前にあっての自己吟味が必要かも知れません。
私たちは信仰の闘いが起こることを通して、自分と神さまとの関係、又、何を第一としていくかが問われます。それは又、より深く神さまの栄光を仰ぐための実は機会でもあることを覚えたいものです。
もう一つ、このネドカドネツァルも見た四人目の者については、先に申しましたように、
神に仕える天使だとも言われていますが。他に、主に忠誠を尽くして最期を遂げた殉教者たちを表している、とも読めなくはありません。
しかし、ここで4人目の者についてネブカドネツァルが、「神の子のような姿をしている者」と言ったように、それは、燃え盛る炉で火に囲まれるような状況に投げ込まれる中にも、「わたしはあなたを決して見捨てない」といって、共にいて守り、希望を得させ、賛美をささげさせてくださる、インマヌエルの主であられます。
真に神に仕え従い行く者の道がどのように厳しく、闇のような中にあっても、主は必ず共にいてくださる。そのことを今日は三人の若者の主への信頼と、「たとえそうでなくとも」という信仰の確信の御言葉から聞いてまいりました。
最後に、先週の水曜日にお二人の方が教会を訪ねてこられました。お一人はキリスト教について教えてほしい、という内容で、1時間くらい朝の祈祷会前にその方とお話する機会がありました。又、夕方の祈祷会に10年前に1ヶ月でバプテスマ受けたが、その後教会から離れて家が仏教のためにキリスト教の信仰と仏教の信仰の違いが分からなくなり、悩んでいるということで教会を訪ねてこられたということです。祈祷会の祈りの時に御自身からそのことを勇気をもって打ち明けてくださり、共に祈り合いました。
ほんとうに、キリスト教について知りたいという方や、クリスチャンになられてからもいろんな問題で悩み苦しんでおられるかたがたがまだまだ多く地域におられるということを改めて実感した二つの出会いでした。
この大阪教会に連なるわたしたちそれぞれに託された務め、働きがあります。それは主が今も生きてお働きくださっていることが、証しされていく主のご計画と栄光のためにそれぞれが用いられている、ということです。そのためにさらに主に祈り求めつつ、今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。