宣教 エフェソ2章19~22節
大阪教会新会堂建築がいよいよ具体化すべく起工式及び定礎式を兼ね、主なる神さまに礼拝をお捧げします。新会堂建築に係る中で如何に神さまの導きと支えがあったか、まさに恵みの神さまのお働きと御業をお分かちくださいました。新会堂建築の幻を最初に与えられたのが2008年でしたから、それから5年という年月を経て、10日にはF工務店さんと正式に建築請負契約を結び、今ここに新会堂起工・定礎式を迎えることができました。ここに集われた皆さまもきっと感慨無量ではないでしょうか。
旧会堂の解体工事は予定以上の時間もかかりました。旧会堂のアスベスト除去も地道な作業であったことでしょう。それともう一つは、この旧会堂跡地・新会堂が建てられていく地中に初代会堂を解体した時のガレキがそのまま埋められていたり、又その初代会堂のコンクリートの基礎が残っていたという始末です。通常はそういうものは撤去されておくべきものなのですが、それが残っていたものですから、取り出し、処理していくという作業がなされました。
まあ言って見れば旧会堂は初代会堂解体時のガレキや古い基礎の上に建てられていたのであります。
今回の新会堂建築に当っては、そういうガレキ等をすべて取り除いた上に、杭を打ち、しっかりと地盤を固める基礎を敷いた上に新会堂が建てられていくことになります。
杭が13本必要ということを伺ったとき、結構な杭の数だなあと思いましたが、また何で13本という数になるのか? 12本だったらヨハネ黙示録21章14節に新しいエルサレムについて、「都の城壁には12の土台があって、そこには小羊の12使徒の12の名が刻みつけてあった」と記されてあるように、聖書的だろにとも思ったのであります。又、西洋の多くの高層ビルには13階の建物はないようです。13の階段も控えているところもあり、確かに迷信ではありますけれども、気にはなる数でもあります。
けれども、ユダヤではどうも違うようです。13は「愛」や唯一なる神の「唯一」を意味する数だそうです。又、ユダヤ教では13は、少年が神の前で一人の人として成人する年であり、大人となっていく「責任」を象徴する数だということですね。ユダヤ人は「神の憐れみの13の属性」ということを大切にするそうです。それは出エジプト34章6-7節から、「主、主、神、その神の憐れみ、恵み、忍耐、慈しみ、まこと、幾千代にも及ぶ慈しみの守り、罪と背きと過ちの赦し、罰すべき者を罰する等」の御言葉に神の13の憐れみの属性を読み取ることができるそうです。 キリスト教の母胎であるユダヤ教では13は聖なる数であるということです。そういう旧約聖書の視点から見ることができれば、13の杭を打つということには意味あることなのかも知れません。それでも気になる方のためにこういう解釈もあるでしょう。13は12とおもだった1の数からなります。12が神の民あるいは12の使徒を表し、1は隅の親石といわれる、この世界の救い主として来てくださった主イエス・キリストを表している。それら13本を杭として、神の教会が据えられていく。
今日の聖書はエフェソの教会に使徒パウロが宛てた手紙ですが、ここでパウロは「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と述べています。世には様々な人種や民族の区別がありますが、主なる神に出会い、神の愛に生かされていることを知っている者は、みな聖なる民に属する者であり、神の家族である、というのです。
その神の民、神の家族を形づくっているのが、キリストの教会であります。私たちはこの地上において家族といえば肉親や血縁によるものと考えますが。聖書が告げる神の家族とは、血縁関係を超えた、神の愛に生かされている者たちによって構成される家族なのであります。そこには民族の違い、男女の性差、社会的地位や物質的貧富の差による区分はありません。ただ神に招かれ、神に集められた者によって構成される家族であります。
それはしかし、1日によってなったものではありません。旧約のイスラエルの民の歩みと、その中から全世界の救い主として来られたイエス・キリストの「平和の福音」を通してもたらされた弟子や使徒たち、さらに信仰の先達の歩みによって引き継がれてきた、そのような神の民の系図の延長線上に私たちも又、連ならせて戴いているのです。
大阪教会は今年で開設62年目を迎えました。アメリカ南部バプテストの尊い祈りと献金によって伝道が開始されてからここに至るまでに多くの牧師と宣教師、そのご家族のお働き、そして教会員の方々の献身的なお働きがあったがゆえに、今日の私たちの大阪教会は存在しています。これから建てられる3代目の教会堂がそうであるように、初代会堂、二代目の会堂もその時代にあってそれぞれの役割を果たして来たのです。
確かに問題点や悔改める面もあり、同じ過ちを繰り返さないという思いをもって進むことが必要でありましょう。しかし私どもはこの今日の大阪教会は先達の信仰者たちの熱い祈りと献身的な働きによって導かれ、守られてきたことに敬意を表したいと思います。
これからも時代はうつり、世代は変わっていくでしょう。しかし教会にはその終わりの時まで決して変わらないもの、動かないものがあります。それは神の言葉であり、その主イエス・キリストです。
12節に「そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とありますが、かなめ石というのは、当時の建物はどだいが石を組み合わせて作ってあったのですが。かなめ石はそれらの文字通りかなめとなる石で、それがなければ石がうまく組み合わされないわけですから、土台はもろく結果的にちょっとした事で倒れてしまうような建物になってしまうのです。ですから、イエス・キリストは教会の土台であり、かなめ石なのだということであります。教会堂の基に聖書を据えますが。「神の言葉を土台とし、イエス・キリストをかなめ石として据えていく」決意をいつまでも記憶するための体験であります。
ところで皆さまは家や建物を建てるときに何が最も大切だとお考えになるでしょうか。家でも、教会でも確かに見た目というものは第一印象として大きいですよね。今回お世話になっています設計の田邉さんが素晴らしい新会堂の完成イメージ図を作ってくださり、それを戴きました。しおりの表紙に印刷していますが。御覧の通りキリスト教会ということが一目見ればわかって戴けるような教会堂です。これを見ると、ほんとに出来あがるのが楽しみですね。外観は建物にとってその存在をアピールする大きな要素です。
けれども建物にとって一番大事なのは、目に見えていない基礎の部分にあります。
なぜならこの基礎の土台がいい加減で脆弱なら、いくら立派で高級な建物であっても一たび災害にあれば無残に崩れ去ってしまうからです。教会堂は目に見えるところに勝って、今日の話に象徴されますように、何を土台としているのか。見えないところこそ真に重要なことであるということです。それは私たちの信仰であり、御言葉に立つ姿勢や証しと言えるでしょう。
新会堂の建築工事がこれからいよいよ開始されますが。まず13本の杭が打たれと基礎が据えられていきます。それは会堂が完成すると全く見えなくなりますけれども、その13本の杭については先ほど言いましたように、神の「愛」。又「唯一」ただ一つ大切なことを表します。さらに神の前に成人となって「責任」を担っていくことを象徴いたします。そのような気骨をもった大阪教会の新たな歩みとなりますように心から願います。
聖書は「かなめ石、イエス・キリストにおいて、建物全体はしっかりと組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」と言うのであります。
さらに22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住いとなるのです」とあります。
本日のこの起工・定礎式をとおして、私たちもキリストにあって共に建てあげられ、益々豊かなご聖霊の働きを戴いて神の住まいとされることを志してまいりましょう。キリストのよき香りを放ち、神の愛と恵みを伝え、あかししていくよう私たちは招かれています。
そのための会堂建築です。この大阪教会を通して次々と新しい神の家族が誕生し、神の国の喜びが拡大されてゆくようにと希望をもっております。
末筆になりますが、皆さまのお祈りとお支えを、今後ともよろしくお願い申しあげます。
大阪教会新会堂建築がいよいよ具体化すべく起工式及び定礎式を兼ね、主なる神さまに礼拝をお捧げします。新会堂建築に係る中で如何に神さまの導きと支えがあったか、まさに恵みの神さまのお働きと御業をお分かちくださいました。新会堂建築の幻を最初に与えられたのが2008年でしたから、それから5年という年月を経て、10日にはF工務店さんと正式に建築請負契約を結び、今ここに新会堂起工・定礎式を迎えることができました。ここに集われた皆さまもきっと感慨無量ではないでしょうか。
旧会堂の解体工事は予定以上の時間もかかりました。旧会堂のアスベスト除去も地道な作業であったことでしょう。それともう一つは、この旧会堂跡地・新会堂が建てられていく地中に初代会堂を解体した時のガレキがそのまま埋められていたり、又その初代会堂のコンクリートの基礎が残っていたという始末です。通常はそういうものは撤去されておくべきものなのですが、それが残っていたものですから、取り出し、処理していくという作業がなされました。
まあ言って見れば旧会堂は初代会堂解体時のガレキや古い基礎の上に建てられていたのであります。
今回の新会堂建築に当っては、そういうガレキ等をすべて取り除いた上に、杭を打ち、しっかりと地盤を固める基礎を敷いた上に新会堂が建てられていくことになります。
杭が13本必要ということを伺ったとき、結構な杭の数だなあと思いましたが、また何で13本という数になるのか? 12本だったらヨハネ黙示録21章14節に新しいエルサレムについて、「都の城壁には12の土台があって、そこには小羊の12使徒の12の名が刻みつけてあった」と記されてあるように、聖書的だろにとも思ったのであります。又、西洋の多くの高層ビルには13階の建物はないようです。13の階段も控えているところもあり、確かに迷信ではありますけれども、気にはなる数でもあります。
けれども、ユダヤではどうも違うようです。13は「愛」や唯一なる神の「唯一」を意味する数だそうです。又、ユダヤ教では13は、少年が神の前で一人の人として成人する年であり、大人となっていく「責任」を象徴する数だということですね。ユダヤ人は「神の憐れみの13の属性」ということを大切にするそうです。それは出エジプト34章6-7節から、「主、主、神、その神の憐れみ、恵み、忍耐、慈しみ、まこと、幾千代にも及ぶ慈しみの守り、罪と背きと過ちの赦し、罰すべき者を罰する等」の御言葉に神の13の憐れみの属性を読み取ることができるそうです。 キリスト教の母胎であるユダヤ教では13は聖なる数であるということです。そういう旧約聖書の視点から見ることができれば、13の杭を打つということには意味あることなのかも知れません。それでも気になる方のためにこういう解釈もあるでしょう。13は12とおもだった1の数からなります。12が神の民あるいは12の使徒を表し、1は隅の親石といわれる、この世界の救い主として来てくださった主イエス・キリストを表している。それら13本を杭として、神の教会が据えられていく。
今日の聖書はエフェソの教会に使徒パウロが宛てた手紙ですが、ここでパウロは「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と述べています。世には様々な人種や民族の区別がありますが、主なる神に出会い、神の愛に生かされていることを知っている者は、みな聖なる民に属する者であり、神の家族である、というのです。
その神の民、神の家族を形づくっているのが、キリストの教会であります。私たちはこの地上において家族といえば肉親や血縁によるものと考えますが。聖書が告げる神の家族とは、血縁関係を超えた、神の愛に生かされている者たちによって構成される家族なのであります。そこには民族の違い、男女の性差、社会的地位や物質的貧富の差による区分はありません。ただ神に招かれ、神に集められた者によって構成される家族であります。
それはしかし、1日によってなったものではありません。旧約のイスラエルの民の歩みと、その中から全世界の救い主として来られたイエス・キリストの「平和の福音」を通してもたらされた弟子や使徒たち、さらに信仰の先達の歩みによって引き継がれてきた、そのような神の民の系図の延長線上に私たちも又、連ならせて戴いているのです。
大阪教会は今年で開設62年目を迎えました。アメリカ南部バプテストの尊い祈りと献金によって伝道が開始されてからここに至るまでに多くの牧師と宣教師、そのご家族のお働き、そして教会員の方々の献身的なお働きがあったがゆえに、今日の私たちの大阪教会は存在しています。これから建てられる3代目の教会堂がそうであるように、初代会堂、二代目の会堂もその時代にあってそれぞれの役割を果たして来たのです。
確かに問題点や悔改める面もあり、同じ過ちを繰り返さないという思いをもって進むことが必要でありましょう。しかし私どもはこの今日の大阪教会は先達の信仰者たちの熱い祈りと献身的な働きによって導かれ、守られてきたことに敬意を表したいと思います。
これからも時代はうつり、世代は変わっていくでしょう。しかし教会にはその終わりの時まで決して変わらないもの、動かないものがあります。それは神の言葉であり、その主イエス・キリストです。
12節に「そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とありますが、かなめ石というのは、当時の建物はどだいが石を組み合わせて作ってあったのですが。かなめ石はそれらの文字通りかなめとなる石で、それがなければ石がうまく組み合わされないわけですから、土台はもろく結果的にちょっとした事で倒れてしまうような建物になってしまうのです。ですから、イエス・キリストは教会の土台であり、かなめ石なのだということであります。教会堂の基に聖書を据えますが。「神の言葉を土台とし、イエス・キリストをかなめ石として据えていく」決意をいつまでも記憶するための体験であります。
ところで皆さまは家や建物を建てるときに何が最も大切だとお考えになるでしょうか。家でも、教会でも確かに見た目というものは第一印象として大きいですよね。今回お世話になっています設計の田邉さんが素晴らしい新会堂の完成イメージ図を作ってくださり、それを戴きました。しおりの表紙に印刷していますが。御覧の通りキリスト教会ということが一目見ればわかって戴けるような教会堂です。これを見ると、ほんとに出来あがるのが楽しみですね。外観は建物にとってその存在をアピールする大きな要素です。
けれども建物にとって一番大事なのは、目に見えていない基礎の部分にあります。
なぜならこの基礎の土台がいい加減で脆弱なら、いくら立派で高級な建物であっても一たび災害にあれば無残に崩れ去ってしまうからです。教会堂は目に見えるところに勝って、今日の話に象徴されますように、何を土台としているのか。見えないところこそ真に重要なことであるということです。それは私たちの信仰であり、御言葉に立つ姿勢や証しと言えるでしょう。
新会堂の建築工事がこれからいよいよ開始されますが。まず13本の杭が打たれと基礎が据えられていきます。それは会堂が完成すると全く見えなくなりますけれども、その13本の杭については先ほど言いましたように、神の「愛」。又「唯一」ただ一つ大切なことを表します。さらに神の前に成人となって「責任」を担っていくことを象徴いたします。そのような気骨をもった大阪教会の新たな歩みとなりますように心から願います。
聖書は「かなめ石、イエス・キリストにおいて、建物全体はしっかりと組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」と言うのであります。
さらに22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住いとなるのです」とあります。
本日のこの起工・定礎式をとおして、私たちもキリストにあって共に建てあげられ、益々豊かなご聖霊の働きを戴いて神の住まいとされることを志してまいりましょう。キリストのよき香りを放ち、神の愛と恵みを伝え、あかししていくよう私たちは招かれています。
そのための会堂建築です。この大阪教会を通して次々と新しい神の家族が誕生し、神の国の喜びが拡大されてゆくようにと希望をもっております。
末筆になりますが、皆さまのお祈りとお支えを、今後ともよろしくお願い申しあげます。