宣教 イザヤ書36章1~37章7節
先週はOさん、Yさんが共に88歳のお誕生日を迎えられ、私たちにとっても本当に感謝なことでございましたが。TVニュースをつけますと80歳の三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト発登頂に成功されたということで驚かされると同時に年齢に捉われない生き方に大変励まされました。日本の社会全体がそうであるように、教会も確かに高齢化が進んでいますけども、ご高齢の方がたがその人生経験を通してお証しを戴けることは私たち教会の宝ですね。又、ヨエル書には、聖霊のお働きによって「老人は夢を見る」とございます。いくつになりましてもビジョンをもって生きる幸いは主からの大きな賜物であります。モーセがイスラエルの民のために主から召命を受けたのも99歳の時でした。主の御力は偉大であります。
本日はイザヤ書の36章~37章にかけての長い箇所ですが、ここから「切なるとりなしの祈り」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
若干15歳で南ユダ王国を統治していたヒゼキヤ王は、真実に神を畏れ敬う信仰のあつい王でした。彼はアッシリアの外国から持ち込まれた偶像を焼き払うなど、まことの主なる神への信仰を打ちたてる宗教改革を行いました。そのヒゼキヤ王の働きには、王が物心ついた頃から彼を教育し、とりなし祈ってきた「神の民」と呼ばれる人たちの存在がありました。祈り手、とりなし手の働きは、表には見えませんが、それは歴史に働きかける神の御手を動かす力があるのです。主はどんな時代も、正義と平和を祈る民の声に耳を傾けてくださいます。
私たちも日本、またわが町大阪が神にあって正しき道に導かれていきますよう、とりなし祈り続けなければなりません。それは他ならぬ私たち自身の命と生活に返ってくることだからです。
聖書に戻りますが、そのようなあつい信仰をもったヒゼキヤ王でしたが、アッシリアからの侵攻が次第に激しくなると恐れと不安に襲われ、力をもつ近隣諸国と安全保障の同盟関係を結ぼうとします。ヒゼキヤはバビロニア、次いでエジプトと密約の同盟関係を結び、アッシリア帝国に対する布石を敷いたのです。その折に、預言者イザヤは主のみ言葉を次のよう語っています。
30章15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」
ヒゼキヤ王は人の知恵や世の力に依存しようとしますが、それは神の御心ではありませんでした。主は「まずわたしに聞きなさい」「何よりもわたしに信頼していなさい」とおっしゃるのです。
しかし、ヒゼキヤの心配は尽きず不安は募り、神ならざる力に頼ろうとします。そうしてこのイザヤの預言どおり、エジプトは何の助けにもならず、36章にあるようにアッシリア軍がユダに攻め上って来、ユダのとりでの町はことごとく占領され、遂にエルサレムは包囲されて、陥落寸前に追い込まれるのです。ヒゼキヤ王がユダ王国を統治して14年目の起元前701年のことでありました。
そうして本日の箇所に至るわけでありますが。
アッシリア王はエルサレムに特使らと大軍を送り、降伏を迫るのであります。
彼らはヒゼキヤ王の家臣らに「なぜ頼りにならないエジプトに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉(薄っぺらな政治的交渉など)が戦略であり戦力であると信じているのか」と、言います。又、エルサレムの城壁にいるユダの民にも聞こえるように、これみよがしにユダの言葉で、「主がわたしに『この地に向って攻め上り滅ぼせ』とお命じになったのだ」と言って民の信仰をくじこうとします。「ヒゼキヤにだまされるな。彼らはお前たちを救い出す事はできない」と王への信頼をも損なわせようとします。「ヒゼキヤはお前たちに、『主は必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない』と言って主に依り頼ませようとするが、言う事を聞くな。アッシリア王と和を結び、降伏せよ。そうすれば飲む物食べる物に不自由はしない」などと言葉巧みに民を惑わそうとするのであります。
さて、ヒゼキヤ王はそのようなアッシリアの挑発に対しどのように向き合ったでしょうか。
アッシリア王からいずれ近々降伏せよ、との使者が送られて来るに違いないと予見していたヒゼキヤ王は、予め家臣たちに相手の巧みな心理戦に応じて「答えてはならない」と戒めていたのです。
家臣たちは王に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉を浴びても「押し黙ってひと事も答えなかった」と、あります。彼らもアッシリア王の特使の態度と言葉に悔しさと耐え難い思いがあったでしょうが。衣を裂きながらも、しかしその屈辱に耐え、動揺する思いを押さえながらヒゼキヤ王のもとに来て、その言葉を伝えたのであります。
もしここでヒゼキヤ王の家臣らが、相手の挑発に乗って反撃していたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。エルサレムの人びとは神に訴え祈る機会を失い、エルサレムの都と神の民の信仰は滅びることになったでしょう。
しかし、ヒゼキヤの家臣たちの忠実さと忍耐によって、その最悪のシナリオは免れたということができます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにののしり合うところに、私たち人間の弱さがあります。
昨今拡大の様相を強めて来ている近隣諸国との様々な軋轢もそうでありましょう。挑発的な先導者やそういった情報に惑わされない冷静さをもって忍耐強く対話をもって打開を見出していくことが求められています。
主イエスは言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣によって滅びる」。主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主に信頼し、その教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主がそうなさったように、祈り心をもってとりなしていくことで真の勝利を勝ち取っていきたい、と願うものです。
本日の37章でありますが。その冒頭に「ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行った」とあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。
彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を露わにします。ユダ・エルサレムに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが何とか守られるようにとりなし、祈ってほしいと、イザヤに求めます。
ヒゼキヤ王にとってイザヤの存在は如何に大きかったことでしょうか。このように祈り、とりなしてくれる存在が身近にいることはどんなに心強いことでしょう。私たちにとりましても、祈り、祈られる存在が与えられているのは大きな主からの賜物であります。あまりに問題が大きく思える時、疲れを覚え気力さえ奪われる時、祈りの友が私を助けます。私たちは背後にあって祈ってくださる方がたの祈りによって神さまへの信頼を呼び覚まさされ、苦境を乗り切ることができます。互いにとりなし、祈り合うことによって、共に神の民として生きることができるのです。
さて、このようなことがあってとりなし祈ったイザヤはヒゼキヤ王に伝えます。
6節、「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(おそれの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」
その後、アッシリアの王はまたも遣いを送って、今度はヒゼキヤ王に対して直に降伏するよう勧告するのでありますが。先と違っていたのは、アッシリアの王が「主なる神ご自身」を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。しかし、ヒゼキヤはイザヤの先の預言の言葉、「彼らが冒涜する言葉を聞いても恐れるな」という主の約束を握って真先に神殿に上ります。
ヒゼキヤはアッシリア王の神を冒涜するその手紙を、「主の前に広げ、主の前で祈ります」。
37章16節、「万軍の主よ、あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です」。20節、「わたしたちの神主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国があなただけが主であることを知るに至らせてください。」その祈りは天に届き、主はイザヤをとおして次のようにお語りになるのであります。
33節、「彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かってくることも 都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し この都に入城することはない。」
その実際のお言葉どおり、アッシリア陣営に主の御手がくだり壊滅状態になります。逃げ帰ったセンナケリブ王もその息子たちによって殺害されてしまうのであります。
あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムの人びとは剣を手にするまでもなくアッシリア自ら滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのです。こうしてアッシリアの王はその傲慢の種を自ら刈り取っていくことになるのです。
本日は「切なるとりなしの祈り」と題をつけさせて頂きましたが。
教会に与えられているすばらしい宝、それは兄弟姉妹であり、互いにとりなし祈り合えるということです。イザヤ、ヒゼキヤ王、又エルサレムの人びとにとってそうであったように、とりなし祈ることは何よりも私たちにとって大きな力、恵み、平安、喜びであります。
一般的に「とりなす」というのは、不和や争い、叱責など激しく対立する双方の間に立って、その場の気まずい空気をうまくまとめる、と国語辞典は解説していますが。確かに人間的な努力や心遣いで相手に接して関係を回復したり、不和や争っている人の間に立って意思疎通や仲介をしていくことは大事なことではありますけれども、聖書でいう「とりなし」という言葉は、「仲介者」や「仲保者」、又「助け手」という意味をもちます。イザヤ書に記される「苦難の僕」。私たちの救い主は、イザヤ書53章12節で「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった」と記されています。私のために十字架の苦難と死という大きな犠牲を払って、神との和解のために仲介者となってくださった主イエスさまであります。まず何よりも、神の御独り子イエス・キリストとその御霊によっていつも執り成されているということを忘れてはならないでしょう。その尊い救いの御恵みに応えて生きる私たちもまた、主のお姿に倣いつつとりなし手として仕えていくことが期待されているのであります。このとりなし手としての務めは、主イエスさまから力を戴かなければ十分になしえないことであります。主に信頼しながら、日々の生活の中で、それぞれが主のとりなし手とされてまいりましょう。
先週はOさん、Yさんが共に88歳のお誕生日を迎えられ、私たちにとっても本当に感謝なことでございましたが。TVニュースをつけますと80歳の三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト発登頂に成功されたということで驚かされると同時に年齢に捉われない生き方に大変励まされました。日本の社会全体がそうであるように、教会も確かに高齢化が進んでいますけども、ご高齢の方がたがその人生経験を通してお証しを戴けることは私たち教会の宝ですね。又、ヨエル書には、聖霊のお働きによって「老人は夢を見る」とございます。いくつになりましてもビジョンをもって生きる幸いは主からの大きな賜物であります。モーセがイスラエルの民のために主から召命を受けたのも99歳の時でした。主の御力は偉大であります。
本日はイザヤ書の36章~37章にかけての長い箇所ですが、ここから「切なるとりなしの祈り」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
若干15歳で南ユダ王国を統治していたヒゼキヤ王は、真実に神を畏れ敬う信仰のあつい王でした。彼はアッシリアの外国から持ち込まれた偶像を焼き払うなど、まことの主なる神への信仰を打ちたてる宗教改革を行いました。そのヒゼキヤ王の働きには、王が物心ついた頃から彼を教育し、とりなし祈ってきた「神の民」と呼ばれる人たちの存在がありました。祈り手、とりなし手の働きは、表には見えませんが、それは歴史に働きかける神の御手を動かす力があるのです。主はどんな時代も、正義と平和を祈る民の声に耳を傾けてくださいます。
私たちも日本、またわが町大阪が神にあって正しき道に導かれていきますよう、とりなし祈り続けなければなりません。それは他ならぬ私たち自身の命と生活に返ってくることだからです。
聖書に戻りますが、そのようなあつい信仰をもったヒゼキヤ王でしたが、アッシリアからの侵攻が次第に激しくなると恐れと不安に襲われ、力をもつ近隣諸国と安全保障の同盟関係を結ぼうとします。ヒゼキヤはバビロニア、次いでエジプトと密約の同盟関係を結び、アッシリア帝国に対する布石を敷いたのです。その折に、預言者イザヤは主のみ言葉を次のよう語っています。
30章15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」
ヒゼキヤ王は人の知恵や世の力に依存しようとしますが、それは神の御心ではありませんでした。主は「まずわたしに聞きなさい」「何よりもわたしに信頼していなさい」とおっしゃるのです。
しかし、ヒゼキヤの心配は尽きず不安は募り、神ならざる力に頼ろうとします。そうしてこのイザヤの預言どおり、エジプトは何の助けにもならず、36章にあるようにアッシリア軍がユダに攻め上って来、ユダのとりでの町はことごとく占領され、遂にエルサレムは包囲されて、陥落寸前に追い込まれるのです。ヒゼキヤ王がユダ王国を統治して14年目の起元前701年のことでありました。
そうして本日の箇所に至るわけでありますが。
アッシリア王はエルサレムに特使らと大軍を送り、降伏を迫るのであります。
彼らはヒゼキヤ王の家臣らに「なぜ頼りにならないエジプトに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉(薄っぺらな政治的交渉など)が戦略であり戦力であると信じているのか」と、言います。又、エルサレムの城壁にいるユダの民にも聞こえるように、これみよがしにユダの言葉で、「主がわたしに『この地に向って攻め上り滅ぼせ』とお命じになったのだ」と言って民の信仰をくじこうとします。「ヒゼキヤにだまされるな。彼らはお前たちを救い出す事はできない」と王への信頼をも損なわせようとします。「ヒゼキヤはお前たちに、『主は必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない』と言って主に依り頼ませようとするが、言う事を聞くな。アッシリア王と和を結び、降伏せよ。そうすれば飲む物食べる物に不自由はしない」などと言葉巧みに民を惑わそうとするのであります。
さて、ヒゼキヤ王はそのようなアッシリアの挑発に対しどのように向き合ったでしょうか。
アッシリア王からいずれ近々降伏せよ、との使者が送られて来るに違いないと予見していたヒゼキヤ王は、予め家臣たちに相手の巧みな心理戦に応じて「答えてはならない」と戒めていたのです。
家臣たちは王に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉を浴びても「押し黙ってひと事も答えなかった」と、あります。彼らもアッシリア王の特使の態度と言葉に悔しさと耐え難い思いがあったでしょうが。衣を裂きながらも、しかしその屈辱に耐え、動揺する思いを押さえながらヒゼキヤ王のもとに来て、その言葉を伝えたのであります。
もしここでヒゼキヤ王の家臣らが、相手の挑発に乗って反撃していたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。エルサレムの人びとは神に訴え祈る機会を失い、エルサレムの都と神の民の信仰は滅びることになったでしょう。
しかし、ヒゼキヤの家臣たちの忠実さと忍耐によって、その最悪のシナリオは免れたということができます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにののしり合うところに、私たち人間の弱さがあります。
昨今拡大の様相を強めて来ている近隣諸国との様々な軋轢もそうでありましょう。挑発的な先導者やそういった情報に惑わされない冷静さをもって忍耐強く対話をもって打開を見出していくことが求められています。
主イエスは言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣によって滅びる」。主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主に信頼し、その教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主がそうなさったように、祈り心をもってとりなしていくことで真の勝利を勝ち取っていきたい、と願うものです。
本日の37章でありますが。その冒頭に「ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行った」とあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。
彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を露わにします。ユダ・エルサレムに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが何とか守られるようにとりなし、祈ってほしいと、イザヤに求めます。
ヒゼキヤ王にとってイザヤの存在は如何に大きかったことでしょうか。このように祈り、とりなしてくれる存在が身近にいることはどんなに心強いことでしょう。私たちにとりましても、祈り、祈られる存在が与えられているのは大きな主からの賜物であります。あまりに問題が大きく思える時、疲れを覚え気力さえ奪われる時、祈りの友が私を助けます。私たちは背後にあって祈ってくださる方がたの祈りによって神さまへの信頼を呼び覚まさされ、苦境を乗り切ることができます。互いにとりなし、祈り合うことによって、共に神の民として生きることができるのです。
さて、このようなことがあってとりなし祈ったイザヤはヒゼキヤ王に伝えます。
6節、「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(おそれの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」
その後、アッシリアの王はまたも遣いを送って、今度はヒゼキヤ王に対して直に降伏するよう勧告するのでありますが。先と違っていたのは、アッシリアの王が「主なる神ご自身」を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。しかし、ヒゼキヤはイザヤの先の預言の言葉、「彼らが冒涜する言葉を聞いても恐れるな」という主の約束を握って真先に神殿に上ります。
ヒゼキヤはアッシリア王の神を冒涜するその手紙を、「主の前に広げ、主の前で祈ります」。
37章16節、「万軍の主よ、あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です」。20節、「わたしたちの神主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国があなただけが主であることを知るに至らせてください。」その祈りは天に届き、主はイザヤをとおして次のようにお語りになるのであります。
33節、「彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かってくることも 都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し この都に入城することはない。」
その実際のお言葉どおり、アッシリア陣営に主の御手がくだり壊滅状態になります。逃げ帰ったセンナケリブ王もその息子たちによって殺害されてしまうのであります。
あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムの人びとは剣を手にするまでもなくアッシリア自ら滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのです。こうしてアッシリアの王はその傲慢の種を自ら刈り取っていくことになるのです。
本日は「切なるとりなしの祈り」と題をつけさせて頂きましたが。
教会に与えられているすばらしい宝、それは兄弟姉妹であり、互いにとりなし祈り合えるということです。イザヤ、ヒゼキヤ王、又エルサレムの人びとにとってそうであったように、とりなし祈ることは何よりも私たちにとって大きな力、恵み、平安、喜びであります。
一般的に「とりなす」というのは、不和や争い、叱責など激しく対立する双方の間に立って、その場の気まずい空気をうまくまとめる、と国語辞典は解説していますが。確かに人間的な努力や心遣いで相手に接して関係を回復したり、不和や争っている人の間に立って意思疎通や仲介をしていくことは大事なことではありますけれども、聖書でいう「とりなし」という言葉は、「仲介者」や「仲保者」、又「助け手」という意味をもちます。イザヤ書に記される「苦難の僕」。私たちの救い主は、イザヤ書53章12節で「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった」と記されています。私のために十字架の苦難と死という大きな犠牲を払って、神との和解のために仲介者となってくださった主イエスさまであります。まず何よりも、神の御独り子イエス・キリストとその御霊によっていつも執り成されているということを忘れてはならないでしょう。その尊い救いの御恵みに応えて生きる私たちもまた、主のお姿に倣いつつとりなし手として仕えていくことが期待されているのであります。このとりなし手としての務めは、主イエスさまから力を戴かなければ十分になしえないことであります。主に信頼しながら、日々の生活の中で、それぞれが主のとりなし手とされてまいりましょう。