聖霊降臨・ペンテコステ宣教 使徒言行録2章1~13節
聖霊降臨によってキリスト教会は誕生し、その使命が与えられました。聖霊は代世の時代を経て、世界に、日本に、そして私たち大阪教会にも臨んでおります。聖霊の御業は真にくすしきものです。
バプテスマをお受けになった主イエスに鳩のようにお降りになった聖霊は、主のうちにあって神の御心である十字架のみ救いを成し遂げられました。それは「神のみ救い」「神のご愛」そのものであるといえましょう。聖霊が降臨したキリストの教会は、その神のご愛、神の御子の尊い犠牲による救いを基に、この地上にあって十字架の御業を伝え、あかしし、分ち合う働きを託されています。
創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」とあります。そもそも人類は同じ言語をもち、国や民族が異なっても一つの原語で意思の疎通やコミュニケーションがとられていたということです。にも拘わらず我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である、とばかりに権力を誇示し異文明や異民族を蔑すむ勢力が現れてきました。高くそびえるバベルの塔は、そのような人間の高慢な思いの象徴であります。昨今近隣アジアの人たちに対する心無い民族主義的なバッシングのデモが首都圏や大阪でもなされていることに心が痛みます。もとをただせば、同じモンゴロイドであり、同じ地球の住民であり、そもそも神の創造された同じ人間であります。バベルの塔を建てようとした人たちは「天までとどく塔のある町を建て有名になろう。全地に散らされることのないようにしよう言った」とありますが。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神さまはそれを憂い民を全地に散らされた、つまりあえて様々な言語や文化をつくることをお許しになったということであります。私たちはその多様性を認め合い、互いに尊重し合うべきなのです。バベルの塔の建設が失敗に終った最大の要因は、それが神さまを抜きにして建てようとしたことにあります。神さま御心を思えば様々な気づきも起こったはずです。祈りのうちに示される配慮や悔い改めもあったでしょう。しかしそこにあったのは、「我々の名をあげよう、我々の力の統一を計ろう」とする人間の企てでした。
そのまま天地の創り主なる神を抜きに塔の建設がなされるのなら、人類はその傲慢さ、罪のゆえに滅びの道に向かうしかなかったのです。歴史は繰り返すといいますが、人間は何度も天地万物の創り主なる神さまの意に逆らい、地にバベルの塔を築いていくのであります。人の高慢とあくことのない欲望の象徴バベルの塔。あの町より高く。どの国よりも高く。天まで届くほど高く。まあ阿倍野にもハルカスがそびえんばかりに建って、先日などはてっぺんが雲にすっぽり覆われておりましたが。ビルとしては日本で一番高いようですが、これもまあ人間の人間による人間のための塔ということでありますけれども。そのように人間はどこまでも高みをめざし、「2番じゃなくやっぱり1番じゃなきゃあ」といった具合でありまして、古今東西人の企ては相も変らぬものであります。
ところが、いと高きお方であられる神は自ら、時が満ち小さく貧しい姿でこの暗き世界にお生まれになり、そのような罪深き人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられ死の極みにまで降られたのであります。底知れない人間の罪の闇に救いの光として降られた主は、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たちにもお姿を現わされてから、再び天に昇っていかれた、と聖書に記しています。
その復活の主イエスが天に昇られる際におっしゃったことについては、使徒言行録1章に次のように記されています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである』」。聖霊の降臨(聖霊によるバプテスマ)が約束されたのです。さらに、主イエスはこうも言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった、とあります。
使徒や婦人たちはその復活の主イエスの約束の言葉を握りしめ、一つところに集まり、互いに心を一つに合わせて熱心に祈っていたのであります。
そしてまさにその主イエスが約束された通りのことが起こる。それが本日の2章の聖霊降臨・ペンテコステの記事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と、記されてありますが。
ここでまず心に留めたいことは、使徒たちや婦人たちが主イエスの約束のお言葉をしっかりと握って、心を一つにして熱心に祈り続けていたということです。イエスさまの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんから、自分たちの身に危険も感じたり、不安や恐れもきっとあったに違いありません。又、弟子の中には疑う者もいたということですから、不信を起こさせるような試もきっとあったと思うのです。
しかし彼らは主イエスのお言葉をしっかり握って、互いに心を合わせて熱心に祈り続けたということですね。そこに聖霊が集う一人ひとりの上にとどまり、臨まれるのであります。聖霊は目に見えませんけれども、主の御名によって集うその一人ひとりに神の一つの御霊が降られるのであります。ここに教会の意義があります。聖霊は多様な私たちが心を一つにして主に祈り求めていくところ、すなわち教会に臨まれるのであります。
皆さまも礼拝や祈り会、又讃美を共にささげている時、心の中に感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だか知らないけれど涙が止らなくなったりという体験を多分お持ちではないでしょうか。そこには間違いなく、人間の側からではなく神さまの側からの愛の介入、ご聖霊ご自身がお働きになることを望んでおられるのであります。心を開いてご聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、心は暖められ、平安を得、主が共におられる確信が与えられます。心を1つにして主の霊の力を願い求め続ける時、今も永遠に変わることのないご聖霊が臨んでくださいます。
さて本日の箇所でさらに注目すべきは、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのです。
聖霊に満たされた者たちは、都エルサレムに巡礼に来ていた様々なお国の人々に対して、それぞれのお国の言葉で、神さまの偉大な業を語ったのです。
先にバベルの塔を建てようとする民に対し、神さまが「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、「民をそこから全地に散らされた」という話をしましたが。その世界中に散らされた民が、エルサレムにおいて何と自分たちが理解できるお国の言葉で神の偉大な業について聞くことになったのですね。それは何もその時だけの話ではなく、今日のこの日も世界中で人種の違いを越えて、同じ神をあがめ、礼拝されているのです。素晴らしいことですよね。
使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と述べ、それを実践しました。聖霊に満たされた人の愛の働きは実に豊かで自由であります。聖霊降臨の出来事は、新しい愛の言葉が天から下り、互いを理解し合える世界が訪れたことを告げているのです。
現実には確かに私たちは、自分と異なる人のその違いを受け入れられず、理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊は理解することの困難な中においてもなお先立たれ、働いてくださるのです。ローマ8章26節にあるように「言葉で言い尽せない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」のです。ここに一つ心で祈り合い、共に主に執り成し合っていく場所があり、共に聖霊の豊かな働きを共有することができるのは真に幸いであります。
このように聖霊のお働きは素晴らしいものでありますが、では私たちは具体的にそのお働きを如何に受け取り、応えていけばよいのでしょうか。霊の働きと言いますと、何だか得体の知れない正体のないものを想像される方もおられるかも知れませんが。その点聖書ははっきりしています。そのお働きは「御言葉」を聞くことによって始められるのです。
本日の箇所で、聖霊の働きによる御言葉を聞いた人びとが、さらにペトロのメッセージを聞き、悔い改めと、主イエスによる愛の業を信じ、受け入れるという救いが実現してくのです。
ローマ10章17節には、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記されている通りです。そのように「聞いて」「受け入れる」ことによって聖書は、その人たちの生き方が変わり、周りの人びとにも福音となる影響を及ぼしていったことが記されています。御言葉の勧めを聞き、それを受け入れて応答してゆく中で、救われていく人びとが起され、日々仲間に加えられていったというのですね。その情景が思い浮かんでくるようですが。
聖霊降臨によって、今日世界中で神の偉大な業を聞くことができるようになりました。信仰を与えられ、主イエス・キリストにあって新しく生まれ変わる人たちがどんどん起こされてきました。そこにキリスト教会の誕生と使命があります。
私たち大阪教会のあゆみは遅々たるものに思えるかも知れません。しかし聖霊のお働きのもと御言葉に聞き、信仰をもって応えてきたことで今日の大阪教会があります
新会堂建設は神の偉大な業を語り伝え、神のご愛と恵みを分ち合う働きのために献げられようとしていますが。この仮会堂の今、聖霊のお働きがお休みになっているかというと決してそうではありません。狭く不自由な場所ながらも教会に初めて来られる方々が現に起され、離れていた方々が礼拝や祈り会にお出でになり、証しがあり、賛美かあります。
目に見える形を超えて、聖霊が豊かにお働きになっているのをひしひしと感じます。この仮会堂での残り6カ月の礼拝・祈祷会、主の交わりをとおして、信仰を与えられ、救われる方々が起こされていくことを期待し、祈りながら共にあゆんでまいりましょう。
最後に、「神の偉大な業が語られている」一方で、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」と記されています。
これは教会に自分の意思で行き初めるようになった時や信仰を持つ決心をした時に、直面する試みでもあります。そしてこの異教の地ともいえる日本において信仰を守ることが常につきまといます。あざけられたり、馬鹿にされたり。友情や人間関係がぎくしゃくしたり、危うくなることさえあります。それでも神への信頼、その信仰の確信を損なわずに一歩一歩踏み出してゆくとき、救いの喜びに生きるその姿を見て、信仰が本物であることを認めてくれる人も出てまいります。
たとえあざける反対者がいたとしても、主イエスは言われました。「わたしのために罵られ迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。又、フィリピ1章29節には、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。
キリストに従って生きるがゆえに負う苦しみ、悩みや試練も避け難くあるでしょう。しかしそれらの経験をとおして、主への愛と信仰の確信が高められ、強められ、主のものとされていくのです。
聖霊降臨を心から感謝します。
主イエスの十字架の愛と復活の命の言葉に聞き、心一つに祈りつつ、お一人おひとりの上にとどまり、臨んでお働きになり、お用いてくださるご聖霊によって主の恵みの「あかし」を戴いて、今週も力強くあゆんでまいりましょう。
聖霊降臨によってキリスト教会は誕生し、その使命が与えられました。聖霊は代世の時代を経て、世界に、日本に、そして私たち大阪教会にも臨んでおります。聖霊の御業は真にくすしきものです。
バプテスマをお受けになった主イエスに鳩のようにお降りになった聖霊は、主のうちにあって神の御心である十字架のみ救いを成し遂げられました。それは「神のみ救い」「神のご愛」そのものであるといえましょう。聖霊が降臨したキリストの教会は、その神のご愛、神の御子の尊い犠牲による救いを基に、この地上にあって十字架の御業を伝え、あかしし、分ち合う働きを託されています。
創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」とあります。そもそも人類は同じ言語をもち、国や民族が異なっても一つの原語で意思の疎通やコミュニケーションがとられていたということです。にも拘わらず我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である、とばかりに権力を誇示し異文明や異民族を蔑すむ勢力が現れてきました。高くそびえるバベルの塔は、そのような人間の高慢な思いの象徴であります。昨今近隣アジアの人たちに対する心無い民族主義的なバッシングのデモが首都圏や大阪でもなされていることに心が痛みます。もとをただせば、同じモンゴロイドであり、同じ地球の住民であり、そもそも神の創造された同じ人間であります。バベルの塔を建てようとした人たちは「天までとどく塔のある町を建て有名になろう。全地に散らされることのないようにしよう言った」とありますが。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神さまはそれを憂い民を全地に散らされた、つまりあえて様々な言語や文化をつくることをお許しになったということであります。私たちはその多様性を認め合い、互いに尊重し合うべきなのです。バベルの塔の建設が失敗に終った最大の要因は、それが神さまを抜きにして建てようとしたことにあります。神さま御心を思えば様々な気づきも起こったはずです。祈りのうちに示される配慮や悔い改めもあったでしょう。しかしそこにあったのは、「我々の名をあげよう、我々の力の統一を計ろう」とする人間の企てでした。
そのまま天地の創り主なる神を抜きに塔の建設がなされるのなら、人類はその傲慢さ、罪のゆえに滅びの道に向かうしかなかったのです。歴史は繰り返すといいますが、人間は何度も天地万物の創り主なる神さまの意に逆らい、地にバベルの塔を築いていくのであります。人の高慢とあくことのない欲望の象徴バベルの塔。あの町より高く。どの国よりも高く。天まで届くほど高く。まあ阿倍野にもハルカスがそびえんばかりに建って、先日などはてっぺんが雲にすっぽり覆われておりましたが。ビルとしては日本で一番高いようですが、これもまあ人間の人間による人間のための塔ということでありますけれども。そのように人間はどこまでも高みをめざし、「2番じゃなくやっぱり1番じゃなきゃあ」といった具合でありまして、古今東西人の企ては相も変らぬものであります。
ところが、いと高きお方であられる神は自ら、時が満ち小さく貧しい姿でこの暗き世界にお生まれになり、そのような罪深き人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられ死の極みにまで降られたのであります。底知れない人間の罪の闇に救いの光として降られた主は、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たちにもお姿を現わされてから、再び天に昇っていかれた、と聖書に記しています。
その復活の主イエスが天に昇られる際におっしゃったことについては、使徒言行録1章に次のように記されています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである』」。聖霊の降臨(聖霊によるバプテスマ)が約束されたのです。さらに、主イエスはこうも言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった、とあります。
使徒や婦人たちはその復活の主イエスの約束の言葉を握りしめ、一つところに集まり、互いに心を一つに合わせて熱心に祈っていたのであります。
そしてまさにその主イエスが約束された通りのことが起こる。それが本日の2章の聖霊降臨・ペンテコステの記事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と、記されてありますが。
ここでまず心に留めたいことは、使徒たちや婦人たちが主イエスの約束のお言葉をしっかりと握って、心を一つにして熱心に祈り続けていたということです。イエスさまの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんから、自分たちの身に危険も感じたり、不安や恐れもきっとあったに違いありません。又、弟子の中には疑う者もいたということですから、不信を起こさせるような試もきっとあったと思うのです。
しかし彼らは主イエスのお言葉をしっかり握って、互いに心を合わせて熱心に祈り続けたということですね。そこに聖霊が集う一人ひとりの上にとどまり、臨まれるのであります。聖霊は目に見えませんけれども、主の御名によって集うその一人ひとりに神の一つの御霊が降られるのであります。ここに教会の意義があります。聖霊は多様な私たちが心を一つにして主に祈り求めていくところ、すなわち教会に臨まれるのであります。
皆さまも礼拝や祈り会、又讃美を共にささげている時、心の中に感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だか知らないけれど涙が止らなくなったりという体験を多分お持ちではないでしょうか。そこには間違いなく、人間の側からではなく神さまの側からの愛の介入、ご聖霊ご自身がお働きになることを望んでおられるのであります。心を開いてご聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、心は暖められ、平安を得、主が共におられる確信が与えられます。心を1つにして主の霊の力を願い求め続ける時、今も永遠に変わることのないご聖霊が臨んでくださいます。
さて本日の箇所でさらに注目すべきは、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのです。
聖霊に満たされた者たちは、都エルサレムに巡礼に来ていた様々なお国の人々に対して、それぞれのお国の言葉で、神さまの偉大な業を語ったのです。
先にバベルの塔を建てようとする民に対し、神さまが「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、「民をそこから全地に散らされた」という話をしましたが。その世界中に散らされた民が、エルサレムにおいて何と自分たちが理解できるお国の言葉で神の偉大な業について聞くことになったのですね。それは何もその時だけの話ではなく、今日のこの日も世界中で人種の違いを越えて、同じ神をあがめ、礼拝されているのです。素晴らしいことですよね。
使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と述べ、それを実践しました。聖霊に満たされた人の愛の働きは実に豊かで自由であります。聖霊降臨の出来事は、新しい愛の言葉が天から下り、互いを理解し合える世界が訪れたことを告げているのです。
現実には確かに私たちは、自分と異なる人のその違いを受け入れられず、理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊は理解することの困難な中においてもなお先立たれ、働いてくださるのです。ローマ8章26節にあるように「言葉で言い尽せない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」のです。ここに一つ心で祈り合い、共に主に執り成し合っていく場所があり、共に聖霊の豊かな働きを共有することができるのは真に幸いであります。
このように聖霊のお働きは素晴らしいものでありますが、では私たちは具体的にそのお働きを如何に受け取り、応えていけばよいのでしょうか。霊の働きと言いますと、何だか得体の知れない正体のないものを想像される方もおられるかも知れませんが。その点聖書ははっきりしています。そのお働きは「御言葉」を聞くことによって始められるのです。
本日の箇所で、聖霊の働きによる御言葉を聞いた人びとが、さらにペトロのメッセージを聞き、悔い改めと、主イエスによる愛の業を信じ、受け入れるという救いが実現してくのです。
ローマ10章17節には、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記されている通りです。そのように「聞いて」「受け入れる」ことによって聖書は、その人たちの生き方が変わり、周りの人びとにも福音となる影響を及ぼしていったことが記されています。御言葉の勧めを聞き、それを受け入れて応答してゆく中で、救われていく人びとが起され、日々仲間に加えられていったというのですね。その情景が思い浮かんでくるようですが。
聖霊降臨によって、今日世界中で神の偉大な業を聞くことができるようになりました。信仰を与えられ、主イエス・キリストにあって新しく生まれ変わる人たちがどんどん起こされてきました。そこにキリスト教会の誕生と使命があります。
私たち大阪教会のあゆみは遅々たるものに思えるかも知れません。しかし聖霊のお働きのもと御言葉に聞き、信仰をもって応えてきたことで今日の大阪教会があります
新会堂建設は神の偉大な業を語り伝え、神のご愛と恵みを分ち合う働きのために献げられようとしていますが。この仮会堂の今、聖霊のお働きがお休みになっているかというと決してそうではありません。狭く不自由な場所ながらも教会に初めて来られる方々が現に起され、離れていた方々が礼拝や祈り会にお出でになり、証しがあり、賛美かあります。
目に見える形を超えて、聖霊が豊かにお働きになっているのをひしひしと感じます。この仮会堂での残り6カ月の礼拝・祈祷会、主の交わりをとおして、信仰を与えられ、救われる方々が起こされていくことを期待し、祈りながら共にあゆんでまいりましょう。
最後に、「神の偉大な業が語られている」一方で、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」と記されています。
これは教会に自分の意思で行き初めるようになった時や信仰を持つ決心をした時に、直面する試みでもあります。そしてこの異教の地ともいえる日本において信仰を守ることが常につきまといます。あざけられたり、馬鹿にされたり。友情や人間関係がぎくしゃくしたり、危うくなることさえあります。それでも神への信頼、その信仰の確信を損なわずに一歩一歩踏み出してゆくとき、救いの喜びに生きるその姿を見て、信仰が本物であることを認めてくれる人も出てまいります。
たとえあざける反対者がいたとしても、主イエスは言われました。「わたしのために罵られ迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。又、フィリピ1章29節には、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。
キリストに従って生きるがゆえに負う苦しみ、悩みや試練も避け難くあるでしょう。しかしそれらの経験をとおして、主への愛と信仰の確信が高められ、強められ、主のものとされていくのです。
聖霊降臨を心から感謝します。
主イエスの十字架の愛と復活の命の言葉に聞き、心一つに祈りつつ、お一人おひとりの上にとどまり、臨んでお働きになり、お用いてくださるご聖霊によって主の恵みの「あかし」を戴いて、今週も力強くあゆんでまいりましょう。