宣教 出エジプト3章1~12節 ②
神は柴の間からモーセにお語りになります。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
ここで神は、「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツについて証言をなさり、又何よりも二人称で「わたしはあなたの神である」と、おっしゃるのです。これはどんなにモーセにとって驚きであり、畏れ多いことであったでしょうか。モーセが「神の顔を見ることを恐れて顔を覆った」という言葉から、その思いが伝わってきます。
そして神は、そのモーセを出エジプトのご計画を遂行されるために召し出されるのです。7~10節「わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・・・へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」それは主がイスラエルの人々の苦しみや痛みをご自身の身に引き受けてくださるという約束のもと、モーセを遣わされるというのであります。
この神の召しに対して、モーセは「はい、わたしがまいります」とは言いませんで、「わたしは何ものでしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と否定的に答えるのであります。
先にも申しましたが、モーセはミデアンの地で身も心も、新たにされたとはいえ、わが子につけた「ゲルショム」という名前が示すように、「自分たちは異国にいる寄留者」であるという自己認識の中にありました。エジプトにいる時も、ミデアンで家庭を築いてからも、
モーセにとってここが自分の故郷、ホームだ」と言える場はなかったのです。
いまだ彼の奥深い所には、エジプトでの殺害事件や同胞であるはずのヘブライ人から罵られた事がずっとひっかかっていました。「わたしは何ものなのでしょうか?」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょうか?」
同胞からも信用されず、罵られるような自分がどうして同胞を救い出す大任を果たし得るのか?モーセは自信を失っていたのです。彼は神への畏れと、ヘブライ人としての負い目をもちながらも、どうすることもできない無力さをおぼえていたのではないでしょうか。
では神さまはそのようなモーセに対して何とおっしゃたでしょうか?
モーセ、「あなたこそ適任だから」「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのですね。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、ただ「わたしは必ずあなたと共にいる」。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。それが、あなたを遣わす根拠だと言うのです。
私たちは能力、血筋、又社会的地位などありとあらゆるもので自分という存在の根拠を形作ろうとするものです。どこの生まれか、どんな学歴や業績があるかなど。逆に自分にはそれらのものがない、と自分の存在を卑下する人もいますし、拠り所としてきたものを失って、自らの価値が損なわれたかのように嘆く人もいます。人は自分の中に、その存在の根拠を見出すことは出来ないのです。それでは人生は本当に的外れなものになってしまいます。聖書はそのような的外れな生き方を罪と申します。
「わたしは必ずあなたと共にいる」という生ける神のお約束、それをしっかりと受け取っていくところに、その人本来の生きる意義が見出されていくのです。
さて、モーセは何よりもこの神によって「罪の解決」を頂くことが必要でした。人を殺めたことへの恐れとその負い目にさいなまれ、同胞からの罵りや排斥の言葉にとどまり続けたところで、何も解決はありません。それは罪の中に埋没してしまうような人生です。
モーセとってこの神との出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分の存在の根拠を見出すことなく、「自分の罪のうちに死んでいった」のではないでしょうか。彼を救い出し、生きる意味を与え、立たしめたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われる神さまなのです。
14節のところで、神はご自分の名前について、「わたしはある」わたしはあるという者だ」とモーセに自己紹介しておられますが。この「わたしはある」とは、「わたしは必ずあなたと共にいる」というお方である、ということです。
この「わたしは必ずあなたと共にいる」というみ言葉から思い起こすのは、「神我らと共にいます」、「インマヌエル」という名をもってお生まれくださった救い主イエス・キリストであります。イエス・キリストのご生涯はまさに、「わたしはあなたと共にいる」というものでした。地上での病人のいやし、世にあって小さくされている人たちとの出会いと交わり、そして十字架の最期、罪の贖いを成し遂げられるその時に至るまで。イエスさまはご自分の告別説教で(ヨハネ福音書8章24節)、「わたしはある(あなたと共にいる)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃいました。
私たちはこの、「わたしは必ずあなたと共にいる」神さまによって真の命を与えられ、この人生を生かされているということを、今日のみ言葉から受け取っていきましょう。
出エジプト3章1~12節におけるメッセージのキーワードは、「道をそれて」と「わたしは必ずあなたと共にいる」です。人生の回り道と思える時、又不測の事態といえるような時、いわば「道をそれて」と思えるような時にあっても、燃え尽きることのない柴をモーセが見たように、主の「あなたに対する愛とそのご計画は尽きることがないということです。主は「あなたと共にいる」と、今日も呼びかけておられます。
最後に、罪からの解放を戴いたモーセは、出エジプトという神の大いなるご計画に参与する者として立てられ、遣わされていきます。それはモーセにはできれば避けたい道であったかもしれません。しかしモーセは主によって信仰を奮い立たされ、その思いを新たにさせられます。
今日、私たちもみ言葉の前に、もう一度、「罪から解放された者であるか」を再確認し、主に立ち返っていく悔い改めをいたしましょう。主は、罪からの解放(罪の赦し)で終わるのではなく、神の救いのご計画に参与する者として「あなたをお遣わしになる」ことを望んでおられます。
教会は、真に罪から解放された一人ひとりが、主の救いと主のお約束を伝え、証しするために建てられています。今、私たちはその為に日々祈り、身近な一人ひとりと接し、関わっているでしょうか?
あなたを遣わす神、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃる主と共に、この週もそれぞれ遣わされてまいりましょう。
神は柴の間からモーセにお語りになります。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
ここで神は、「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツについて証言をなさり、又何よりも二人称で「わたしはあなたの神である」と、おっしゃるのです。これはどんなにモーセにとって驚きであり、畏れ多いことであったでしょうか。モーセが「神の顔を見ることを恐れて顔を覆った」という言葉から、その思いが伝わってきます。
そして神は、そのモーセを出エジプトのご計画を遂行されるために召し出されるのです。7~10節「わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・・・へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」それは主がイスラエルの人々の苦しみや痛みをご自身の身に引き受けてくださるという約束のもと、モーセを遣わされるというのであります。
この神の召しに対して、モーセは「はい、わたしがまいります」とは言いませんで、「わたしは何ものでしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と否定的に答えるのであります。
先にも申しましたが、モーセはミデアンの地で身も心も、新たにされたとはいえ、わが子につけた「ゲルショム」という名前が示すように、「自分たちは異国にいる寄留者」であるという自己認識の中にありました。エジプトにいる時も、ミデアンで家庭を築いてからも、
モーセにとってここが自分の故郷、ホームだ」と言える場はなかったのです。
いまだ彼の奥深い所には、エジプトでの殺害事件や同胞であるはずのヘブライ人から罵られた事がずっとひっかかっていました。「わたしは何ものなのでしょうか?」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょうか?」
同胞からも信用されず、罵られるような自分がどうして同胞を救い出す大任を果たし得るのか?モーセは自信を失っていたのです。彼は神への畏れと、ヘブライ人としての負い目をもちながらも、どうすることもできない無力さをおぼえていたのではないでしょうか。
では神さまはそのようなモーセに対して何とおっしゃたでしょうか?
モーセ、「あなたこそ適任だから」「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのですね。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、ただ「わたしは必ずあなたと共にいる」。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。それが、あなたを遣わす根拠だと言うのです。
私たちは能力、血筋、又社会的地位などありとあらゆるもので自分という存在の根拠を形作ろうとするものです。どこの生まれか、どんな学歴や業績があるかなど。逆に自分にはそれらのものがない、と自分の存在を卑下する人もいますし、拠り所としてきたものを失って、自らの価値が損なわれたかのように嘆く人もいます。人は自分の中に、その存在の根拠を見出すことは出来ないのです。それでは人生は本当に的外れなものになってしまいます。聖書はそのような的外れな生き方を罪と申します。
「わたしは必ずあなたと共にいる」という生ける神のお約束、それをしっかりと受け取っていくところに、その人本来の生きる意義が見出されていくのです。
さて、モーセは何よりもこの神によって「罪の解決」を頂くことが必要でした。人を殺めたことへの恐れとその負い目にさいなまれ、同胞からの罵りや排斥の言葉にとどまり続けたところで、何も解決はありません。それは罪の中に埋没してしまうような人生です。
モーセとってこの神との出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分の存在の根拠を見出すことなく、「自分の罪のうちに死んでいった」のではないでしょうか。彼を救い出し、生きる意味を与え、立たしめたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われる神さまなのです。
14節のところで、神はご自分の名前について、「わたしはある」わたしはあるという者だ」とモーセに自己紹介しておられますが。この「わたしはある」とは、「わたしは必ずあなたと共にいる」というお方である、ということです。
この「わたしは必ずあなたと共にいる」というみ言葉から思い起こすのは、「神我らと共にいます」、「インマヌエル」という名をもってお生まれくださった救い主イエス・キリストであります。イエス・キリストのご生涯はまさに、「わたしはあなたと共にいる」というものでした。地上での病人のいやし、世にあって小さくされている人たちとの出会いと交わり、そして十字架の最期、罪の贖いを成し遂げられるその時に至るまで。イエスさまはご自分の告別説教で(ヨハネ福音書8章24節)、「わたしはある(あなたと共にいる)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃいました。
私たちはこの、「わたしは必ずあなたと共にいる」神さまによって真の命を与えられ、この人生を生かされているということを、今日のみ言葉から受け取っていきましょう。
出エジプト3章1~12節におけるメッセージのキーワードは、「道をそれて」と「わたしは必ずあなたと共にいる」です。人生の回り道と思える時、又不測の事態といえるような時、いわば「道をそれて」と思えるような時にあっても、燃え尽きることのない柴をモーセが見たように、主の「あなたに対する愛とそのご計画は尽きることがないということです。主は「あなたと共にいる」と、今日も呼びかけておられます。
最後に、罪からの解放を戴いたモーセは、出エジプトという神の大いなるご計画に参与する者として立てられ、遣わされていきます。それはモーセにはできれば避けたい道であったかもしれません。しかしモーセは主によって信仰を奮い立たされ、その思いを新たにさせられます。
今日、私たちもみ言葉の前に、もう一度、「罪から解放された者であるか」を再確認し、主に立ち返っていく悔い改めをいたしましょう。主は、罪からの解放(罪の赦し)で終わるのではなく、神の救いのご計画に参与する者として「あなたをお遣わしになる」ことを望んでおられます。
教会は、真に罪から解放された一人ひとりが、主の救いと主のお約束を伝え、証しするために建てられています。今、私たちはその為に日々祈り、身近な一人ひとりと接し、関わっているでしょうか?
あなたを遣わす神、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃる主と共に、この週もそれぞれ遣わされてまいりましょう。