日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

天の故郷めざして

2011-09-11 07:38:18 | メッセージ
召天者記念礼拝宣教 ヘブライ11:1-16

本日は先に天に召された兄弟姉妹を偲びつつ、召天者記念礼拝を主に捧げています。先ほど、先に天に召された方々のお名前が呼ばれ、献花をいたしました。私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべ治め、生ける命も、又召された命も司っておられます。それゆえ私たちは故人を偲びます時、その魂の神の御前における平安と、ご遺族の方々の守り導きを神に執り成し祈ります。この生ける神さまにある望みを、今日ご出席くださった召天者のご家族、近親の方々、そして大阪教会に連なる主にある兄弟姉妹と共に戴きましょう。

まずここの、冒頭で、信仰の定義がなされています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。そして更に、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と説かれています。神は、天地万物をお造りになるその業の初めに、「み言葉」によって何もないところ、闇のようなところに「光あれ」とおっしゃると、そのとおり「光があった」と、創世記にあります。目に見えるところでなく、たとえそれが目には見えなくとも、「神の言」によって成る。この神の創造の業を信じて生きること、それが信仰であります。「この信仰のゆえに、昔の人々は神に認められました」。

4節から、アベル、エノク、ノア、アブラハムという4人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」が紹介されていますが。それは信仰の先達のリストであります。
それらの人々はみな、神の約束が実現するという目に見える保証を何らもっていませんでした。けれども、神は約束なさったことを必ず実現なさる、と確信していたのです。
彼らは神の約束が現在進行中であると信じ、祈り行動したのです。まだ見ていない、しかし神は必ず約束を実現なさる。それが彼らの信仰です。
そこに「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰があったのです。

まずアベルについてですが。彼は神へのささげものをめぐり、兄カインに逆恨みされて殺害されるという悲惨な最期を遂げました。しかし彼は「カインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」(4節)とあります。この優れたいけにえ」とはどういう事でしょうか?それは献げもの自体にではなく、その状況の中で「如何に神に喜ばれるようにささげた」かという意味であります。彼は大切にしていた羊の群の中から、最もふさわしいと思える肥えた初子を選び、神に献げました。アベルは神のみ前に犠牲や痛みを払いつつ、「信仰によって」彼は最も善きものを神に献げるのです。

次はエノクという人物ですが。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」とあります。創世記5章21節以降に、「エノクは65歳になったとき、メトシュラをもうけた。エノクは、メトシュラが生まれた後、300年「神と共に歩み」、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは「神と共に歩み」、神が取られたのでいなくなった」と記されています。ここで強調されていますのは、エノクは絶えず「神と共に歩んだ」ということです。そこにエノクが神に喜ばれていたあかしの日々がありました。

3番目はノアについて次のように述べられています。
7節「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神にお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造った」のです。
ノアは、「大洪水が地の表を覆う」との神からのお告げを受けたとき、人間的な思いとしていろいろな疑念や戸惑いがあったのではないでしょうか?なぜなら、十分な雨も降らないような所で地を覆う大洪水が起こるとは、想像を遥かに上回ることであったし、ましてや示されたような大きな舟を川からも海からも離れた自分の家の前で作るなど常識では考えられないことです。 

しかしノアは、「まだ見ていない事柄、想像も及ばないような事柄について神のお告げを受けたとき」、信仰によってそのお告げを受けとり、行動に移しました。そこには心の内なる葛藤や外との闘いがあったと思うのです。内陸で舟を造るなんて、当然世間の人びとにとってみれば馬鹿げた行為に思えたに違いありません。神のときが訪れる迄の永い歳月、ノアはずっとそういった人々からの冷たい視線や中傷にさらされ続けたことでしょう。
それこそ想像を絶するほどにノアの信仰がそこで試されたことでしょう。しかしノアは信仰によって、まだ見ていない事柄を受けとめ、自らを神に従わせてその生涯を歩んだのです。

最後はアブラハムについてでありますが。彼については2つの記述があります。
まず、8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とあります。
創世記12章のアブラハムの召命と移住の記事を読みますと、自分が土地や財産を受けることになるから出ていったというのではなく、アブラハムは、ただ主の言葉、「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」とのみ言葉に聞き従ったのであります。つまり、先の目に見える保証がないだけでなく、行き先も知らされずに、アブラハムはただ主の「わたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に自分を従わせたのであります。

彼についてのもう一つの記述9節には、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、「神が設計者であり建設者である」堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。

神のみ言葉に聞き従って出て行ったアブラハムは、示されたカナンの地に実際に入ると、そこでは移動しながらの天幕を張り生活したのです。そこで遊牧民としての生活を送る中、定住者となることはなかったのです。それは、カナンという目に見える土地を仮の住まいとしながら、「神の建てたもう堅固な土台を持つ都を待ち望んでいたからからです」。

アブラハムが待望していた神の建てたもう都とは一体どういうものであったのでしょう?それはこの世の建物、この世の時間や規範の中に制限を受けるようものではないのでしょう。彼はそれとはまったく異にする神による霊的建てもの、神のすべ治めたもう都を待ち望んでいたのではないでしょうか。

アベル、エノク、ノア、アブラハムのそれぞれの信仰について少し丁寧に読んでまいりましたが。見落としてならないのは、13節に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」という言葉です。殊にアブラハムやその連れ合いのサラなど、「海辺の数えきれない砂のように、彼らに多くの子孫が生まれる」という神の約束の出来事を、彼らはこの地上においては見る事ができませんでした。さらに、彼らは約束の都をも見ずして死んだのです。

しかし同じ13節に、「約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分の故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです」とあります。16節、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。
神は、そのような彼らを誇りとし、彼らのために天の故郷、天の都を準備していてくださるのです。

今私たちは、旧約聖書のこの信仰を、まことの幸いなことにイエス・キリストを通して受け継ぐ者とされています。イエス・キリストによって「天の故郷」への道が開かれているのです。今日は先に天に召された方々の地上でのご生涯を偲びつつ、死より復活されたイエス・キリストを仰ぎ見て、天の故郷をめざす私たちの希望とさせて頂きたいと願います。  

信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハムと私どもの信仰は比べられるものではありませんが。「主への信仰」が有るか、無いかとでは雲泥の違いです。からし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる中で、神さまはきっとあなたの道を整え、天の故郷へと通じる道を備えてくださいます。「天の故郷をめざして」。私たちの真の希望はそこにございます。

最後にヘブライ12章1~2節を読んで本日の宣教を閉じます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 特別集会ご案内 | トップ | 神の共鳴 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿