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神の共鳴

2011-09-18 08:18:13 | メッセージ
宣教 出エジプト記14:5-31

皆さんは「十戒」という映画をご覧になられたでしょうか?二つに分かれた海、これは紅海であったと言われていますが、正確には対岸の見えるスエズ運河のことで、イスラエルの人々は水が左右に分かれ壁のようにそそり立つその中を通っていき、今度はエジプト軍の騎兵や戦車がそこを通ろうとすると海が元の様に押し寄せて、全滅するという、まあそのような場面などは、壮大なスケールで描かれていて、印象に残っている方もおられるでしょう。しかし、これは単なる物語ではなく、考古学的にもそのような事が実際起こったであろうことが、近年明らかになってきております。ともあれ、私どもはこの出来事から神の業とその御心を聞き、神にある民の歩み、又教訓としてゆきたいと願っております。

さて、今日の聖書の個所を読んで、まず気にかかりましたのは、イスラエルの人たちの心境の変化であります。彼らは民数記33・3に記されているように、「過越の翌日、すべてのエジプト人を目の前に意気揚々と出て行った」のです。ところが、エジプト軍がその後を追っかけてきて、まさに間近に迫ってくる現実を知った時、イスラエルの人々はたちまち意気消沈し、非常に恐れて主に叫ぶのです。前方は混沌とした葦の海が行く手を阻み、後方一帯にはエジプト軍の騎兵と戦車が攻め上ってきたのですから、それは慌てふためき、怖じ惑うのも無理はありません。

彼らはそこで手のひらを返したように主に向かって叫び、指導者モーセに対して「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。云々」と不平不満をぶつけるのです。
順風満帆で踏み出したはよいが、予期せぬこと、アクシデントが突如起こると、瞬く間に最初の主の恵みやみ業を見失ってしまうのです。

彼らは叫びモーセに訴えますが、しかしこの不平不満の出所が「恐れ」と「不安」から来ていることを押さえておく必要があります。これは何もイスラエルの人々に限ったことではありません。突如として襲ってきた出来事にイスラエルの人々が怖じ惑い、恐れたように、私たちも又突如として起こる出来事に恐れ、怖じ惑うことがあります。頼りになると信頼していたものが、いざという時、全く頼りにならないことに気づき、慌てふためくのであります。

自分にとって順調に物事がうまく運んでいる時は、喜び、感謝することができても、自分の身に何か嫌な事や都合の悪い事が生じたり、思いもよらぬ事が起こったりいたしますと、その神への信仰まで縮こまり、せっかくの救いの御恵みを見失うようなことが起こり得るのです。
あんなに救いの喜びに輝いていた人が、、、あんなに熱心に奉仕していた人が、、、気がつけばどこへ行ってしまったのか。主の救いから遠く離れ、神の愛を拒むように、以前の生活へと舞い戻ってしまうのです。ある人たちはそれを人のせいにします。あの人がこう言ったから、、、牧師がちゃんとしてくれないから、、。しかし人のせいにして何になるのでしょう。それで神の御救いと恵みを見失ってはもともこもない事です。

苦難の時に、不調やアクシデントが起きた時、真の意味で私どもの信仰が試され、問われるのです。逆にいえば、むしろそのような時にこそ主は、共におられ、私どもの一挙一動
を見守っておられるのです。私どもが主の御救いの希望を見出し、主が真に生きておられる方であることを体験できるのは、まさにそのような時なのであります。

私どもキリストにある信仰者は、苦しみや痛みの中に十字架の主イエスが共におられるから、そこで終わらない。その道の先には復活の道、希望があると信じます。だから苦しい時も、しんどい時も、人間関係で疲れる時も、主を仰ぎ見、主に倣い礼拝する者なのです。
恐れや不安はクリスチャンであっても当然起こる感情でありますが。しかしその感情に呑みこまれて救いの希望と主にある確信を失わないようにしたい。そのため日々備えるのは大切なことです。

さて、不満をぶつけ意気消沈するイスラエルの人々に指導者モーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。・・・・・主があなたたちのために戦われる」と答えるのでありますが。
しかしそのすぐ後で、主はモーセに「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と命じます。モーセの民への言葉は本当に素晴らしいもののように思えますが。これは一体どういう事でしょうか。
置かれた状況に混乱をきたしている人々に対して、「恐れてはならない。落ち着きなさい。主の救いを見なさい」と、信仰を持つように促すモーセであります。が、しかし、モーセ自身も又、神への信頼を持っているとはいえ、民の指導者としての重責から、「ほんとうに神さま何とかしてください」と、切実なる神への叫びがその心にあったことでしょう。

主はそのようなモーセに対して、「わたしが戦っている時に、モーセよ、あなたはただ私に叫ぶだけ、傍観しているだけではいけない」といっているのであります。そして主はモーセに、「イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と、お命じになります。つまり「モーセよ、あなたには、イスラエルの人々がどうつぶやこうとも、この人々を恐れず、彼らを進みゆかせる務めがある」とおっしゃっているんですね。モーセにはイスラエルの人々を主の目的に沿って進みゆかせる働きが託されていたのです。それはまさにモーセ自身が「主と共に働く」ことでなされるのであります。
この個所を読みながら、神の召しに答えて生きるとはどういうことなのか、深く考えさせられます。何万人もの同胞からつぶやきや非難を受け、一人孤独であっても「主のみ声に聞き従う道」を民に示し続けようと努めるモーセの心境、それは計り難いものがあります。
しかし、その中で主は、「わたしがあなたと共にいる」。あなたはその「わたしと共に働きなさい」と、促されるんですね。
今日の聖書の中心メッセージは、ここにあります。本日は「神の共鳴」という題をつけさせて頂きましたが。神はその民として祈り、歩む私たちと共にいると言われ、又私たちもこの主と共に働く。その響き合う中で、主のみ業と栄光、そして民の救いが実現されていく。この神の共鳴を心に留めながら「主と共に働く」ことが大切なのです。

19節以降を読みますと、「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった」とあります。

主なる神は、雲の柱として臨み、モーセらイスラエルの民たちとエジプト軍との間に入って民を守り導いてゆかれるのであります。「イスラエルの人々とエジプト軍は、一晩中、互いに近づくことがなかった」とありますように、神は夜も一睡もすることなくイスラエルの人々をみ守り続けたということですね。
聖書の神さまは、ただ天から見下ろして傍観しているのではなく、主のみ声に一足一足その歩みを進める人々と共にあって、寝ずの番をして、見守り、戦ってくださるお方なのであります。

モーセは海辺に着くと、主がお命じになったとおり「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ」ます。
21節「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返えされたので、海は乾いた地に変わり。水は分かれた」。
神はモーセと共にお働きになり、民の前でその栄光を現されるのです。その後も、モーセは主の言葉どおり「海に向かって手を指し述べる」と、「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(28-30)のであります。そのようにして31節にありますように、「民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じるに至った」というのです。

今日壮大でドラマチックな物語を私どもは読みました。が、それをただ読んで「ああ神のみ業は素晴らしい」で終わるのであれば何の力にもなりません。又これは牧師などの特定のリーダーだけに語られているのでもありません。
13節でモーセは「今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」とイスラエルの人々に向けて語ります。それは、今ここにいる私どもにとっても生きたみ言葉となるのであります。
私どもは肉においてはイスラエルの民とは異なりますが、霊においてイエス・キリストの十字架のみ救いにより、この聖書のエジプトに象徴される世のさまざまの力から救い出された者、出エジプトした者なのです。

最後になりますが。このイエス・キリストのみ救である十字架のみ業は、世の究極の苦難、理不尽、人の罪を神がその身に負われたしるしであります。その主イエスはよみがえら、今も生きて私たちと共にいてくださる。それが聖書に示される約束であります。私どもはこの救いの主、復活の主を信じている者であります。

3・11東日本大震災、さらにそれに伴って起こった原発の事故。先週は台風と長雨により奈良、和歌山、三重で多くの人が亡くなられ、行方不明であります。世には様々な苦しみがあり、不条理といえるような理解できない出来事も起こります。しかし神さまは人の苦しみや、痛みをきっとご存じであられ、共鳴なさって、共なる歩みをなしてくださるお方であると信じます。今日も、私どもの一挙手一投足に目を向け、共に働いてくださる主がおられることを、忘れないように、日々のあゆみを大切にしていきましょう。
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