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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

御心が行われますように

2025-04-06 16:44:05 | メッセージ
礼拝宣教    マタイ26章47-56節 受難節Ⅴ 

本日の箇所は、主イエスが裏切られ、逮捕され、弟子たちが皆逃げ去ってしまうという場面でありますけれども。この事が起こる直前まで、主イエスはゲッセマネの園でうつぶせになり必死に父の神に祈りました。                       
主イエスは弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われ、少し離れた場所へ祈りに行かれます。しかし、主イエスが祈って弟子たちのところに戻られると、弟子たちは皆眠っていたのです。                  そこで主イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われます。そして主イエスが再び祈りに行き、弟子たちのところに戻って来られたときも、彼らは眠っていました。                               弟子たちはとても疲れていました。強いストレスを感じていたのです。王となって民を治めるにふさわしい方、神の権威を帯びた信頼すべき方と、そう信じて従ってきた彼らに、主イエスは苦難を受けて死ぬとか。神殿やエルサレムの崩壊を予告されるのです。主イエスが「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と祈られる姿を、彼らはいたたまれない思いで見ていたのでしょうし、不安や恐れもあり、心が疲れきって眠ってしまったのでしょう。                     さらに三度目の祈りから戻って来られた主イエスは、まだ寝ている弟子たちをご覧になってこう言われます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される・・・」。   
そしてこう話しておられると、12人の1人であるユダがやって来るのです。         主イエスはすでに十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダが、自分を裏切る者であることをご存じでした。あの最後の晩餐の場面で主イエスが、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている。」とおっしゃると、弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたとあります。弟子たちは皆、主イエスを慕い愛してましたが、皆心のうちに強いストレスがあることを感じていました。だからこそ、「わたしではありませんよね」「そうだあなたではない。あなたがわたしを裏切るわけがない」と、はっきり言って欲しかったのだと思います。                                       けれども主イエスはそうおっしゃいませんでした。彼らは35節にあるように、「たとえ御一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたの事を知らないなどとは決して申しません。」と言うのですが、結局は主イエスを見捨てて逃げるのです。主イエスはお見通しでした。
私たちは、「ユダってひどい人間じゃないか」と思うかも知れません。主イエスを売った銀貨30枚といえば、まあ1か月分の賃金に価します。ユダってどういう神経をしているのか、と思うかも知れません。しかし主イエスを裏切ったユダについて、わざわざここで「十二人の一人である」と記しているのは、十二人の弟子全員が主イエスを見捨てて逃げた。他の弟子たちもユダのような裏切り者になったかも知れないし、実際主イエスを見捨て散っていったことを、聖書は赤裸々に伝えているのです。                                      確かにユダは主イエスを売り渡した張本人でありますが。その受取った金額から考えても、単にお金が欲しかったのではなく、主イエスが自分の思い描いた通りではないことに、いろんな不満が重なり、極端な行動に走っていったと考えられます。他の11人の弟子たちもどこかそれと似た心の状態だったのかも知れません。「心は燃えても、肉体は弱い」。主イエスがおっしゃったように、私たちも又、この弟子たちのことを笑うことなどできません。裁くことなどできません。
このユダは、主イエスを捕えるときの合図として、「自分が接吻した相手がその人だ。捕まえて、逃さないように連れて行け。」と祭司長や律法学者、長老たちが遣わした大勢の群衆に予め伝えていました。そうして実際主イエスに近寄り、「先生」と言って接吻し、人々は剣や棒をもって主イエスを捕らえようとします。                               ユダは主イエスの弟子として、その十二人の一人にも選ばれ、固い信頼関係で結ばれていたはずでした。すべてを捨てて従って行ったはずのユダが裏切りを企て、このように接吻をもって主イエスを陥れた心の複雑さを考えさせられます。                         今日において、虐待やDVによる傷ましい事件が報道で伝えられますが。その犯行に及んだ多くの人は憎いから加害を加えたのではなく、むしろ相手を愛していた。とても好きだったという場合があるとのことです。そこには何らかの強いストレスや過去の経験など複雑な深層心理が働き、そういう傷ましい行為に結びつくことがあると言われています。いずれにしても、人の心の奥底にある深淵を思わされます。                                    このユダも、主イエスへの願望や期待が大きかったし、主イエスを愛し慕っていたのでしょうが。先に申しましたように、その主イエスご自身による言動に決定的な失望が生じ、歪んだ形の行為に暴走していったのでしょう。では彼の身に起こったことを教訓として、私たちはこのユダの暴走から何を教訓とするでしょうか。主イエスは言われます。「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい」。                                       実は主イエスは、十字架の苦難と死の告知だけでなく、受難と死の後の復活についても語っておられたのです。主イエスがゲッセマネの祈りの最中に、弟子たちに「目を覚ましていなさい」と言われたのは、受難と死、さらに復活をもって実現される「神の御心」に対して目を覚ましていなさいと言うことなのです。を主イエスが信じていたということなのです。それは、神が預言者を通して語っておられる全世界に向けた救いのメッセージであります。主イエスは、それがご自身を通して必ず実現されるべき事として語られているのです。
56節「このすべてのことが起こったのは預言者たちの書いたことが実現するためである。」  そこに書かれているのは、主のしもべ(僕)が苦難を受け、それによって罪のゆるしと悔い改めが全世界にもたらされていく神の壮大なご計画であります。                       今日の時代においても、いかなる時も様々な不平や不満、そして愛が冷えて誘惑に陥ることがないように、神の御心とご計画を信じ、祈り、目を覚ましていなさいと、主は言われるのです。
主イエスはゲッセマネの園で父の神に祈りました。                     最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言うように、「できることなら」と個人的な感情や思いが強くこめられていました。しかしその祈りは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という祈りに導かれていきます。                          また二度目の祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈られます。ここには個人的願いはもはやありません。主イエスご自身、神の御心が実現されるよう血の汗したたるほどに苦闘しながら祈られたのです。それは主イエスご自身が、誘惑から守られ御心が行われるための祈りでした。その誘惑とは、自分の力を誇示し、自分の力で打ち勝とうとする誘惑です。                       50節のところで、「人々が進み寄り、イエスを手にかけて捕らえたそのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸して剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とします」。それを見た主イエスはこう言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」                                        この剣を抜いた者は主イエスの弟子でした。主イエスが捕らえられることに強い憤りを感じて自ら剣を取って主イエスを捕らえようとする者を倒そうとしたのです。しかし主イエスは、暴力をいくら用いたとしても何も解決しないばりか、暴力は暴力を呼び、武力で人を征服する者は、皆武力で倒れると、警告されます。主イエスは弟子たちにもかつて、「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:39)と語られていました。これは今日のキリスト教界、キリスト者すべてにも語られている事です。                                       主イエスはまたこう言われます。53-54節「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかし、それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。                 主イエスが願いさえすれば、そうした天の軍団を送ってもらい、捕らえる者を倒して自ら助かることもできたのです。しかし主イエスはそうしません。そのようなことをすれば、「聖書の言葉が」語り伝えている神の救いのご計画が実現されなくなるからです。主イエスはそうした天からの力と権能をもっておられましたが、ただ神の「御心が行われますように」と、すべてを神に従い、自らを明け渡されたのです。
剣を抜いた弟子も、また主イエス捕らえるために剣や棒を取って来た群衆も共に武力を用い、暴力を振るおうとしましたが、主イエスはその力を用いませんでした。武力や暴力によっては、「聖書の言葉」「預言者たちの書いた」神の救いのご計画は、実現されることが無かったからです。それは罪による滅びの道でしかなかったのです。                           主イエスは先のゲッセマネの園での三度に亘る切実な祈りを通して、神に従い通すことを選ばれました。それがまさに、「あなたの御心が行われますように。」との祈りです。          主イエスが捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいました」。しかし主イエスは、その弟子たちを愛してやまなかったのです。主イエスは唯、罪による滅びからの救い、真に人間が解放されて、新しく生まれることを神の御心と、確信していたのです。      
今、何かのしかかる心配や不安があるでしょうか。強いストレスがあるでしょうか。今日も主が共にうめきつつ、神の御心から外れないよう、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなさい、と呼びかけておられます。
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