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独りでは生きられない

2023-07-23 19:41:34 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章18~25節

神奈川の津久井やまゆり園でのあの傷ましく悲しい事件から今月の26日で早5年目を迎えます。
この事件を機に地域で高齢者の施設と障がい者のフードのお店が一緒に入ったセンターができ、そこには地域の子ども達も自由に出入りしてお年寄りの方との交流、又障がいをもつ方がたとの交流が持たれている様子がニュースで流れていました。そのほのぼのとした情景が何とも心地よく、思わず見入ってしまいました。ここのセンター長は事件前までやまゆり園で職員として働いていたそうですが。やまゆり園の事件の教訓の一つとして、障がい者施設の閉鎖的なあり方にも問題があり、そうしたところが偏見や差別を生んでいった、ということから、こうした地域の交流の場の大切さや必要性を強く感じられたそうです。
私の子どもの時代は、住んでいた町内にこども会があり、小鳩と名付けられた少年野球のチームに属し、そこで友だちもでき、又大人の方との交流もあり、多くのつながりの中で育ちました。けれども、そうした交流が現代ではほんとうに少なくなってきました。子どもたちは知らない大人から声をかけられたら話してはならないとまで教えられています。昔だったら、知らない方に対しては挨拶をきちんとしなさいと、よく教えられてきたものです。殊にコロナ禍でソーシャルデスタンス・社会的距離を取って人と人の距離が悲しいほど遠のいた時から少しずつ社会の状況も変わってきたように思いますが。こういう中で年代を越え、いろんな方と共に交流していくことってほんとうに意味があることだと思います。本日は創世記2章18-25節から、御言葉に聞いていきます。

人は独りでは生きられません。同じような人、カラーのない人間関係は脆弱です。いろんな木が植えられた雑木林は、植林された同じ木ばかりの山より災害に強いです。いろんな根っこが絡み合って互いを支えているからです。いろいろな実がなり動植物にもゆたかな環境にもなります。
様々な違いをもつ人が神のお造りになられた人、本来の楽しみも悲しみも課題も分かち合える関係性。そんな共に生きる喜びを見出してゆける社会となりますよう祈ります。

さて、今日は先ほど読まれた創世記2章18-25節から、御言葉に聞いていきたいと思いますが。先週お読みしたところでは、主なる神が土の塵からご自分に似せて人を造られたこと。人は肉体においてはやがて土にかえるかえるもろく壊れやすいものであるけれども、創造主は人の鼻に命の息(霊)を吹き入れられて、生きるものとなさった。それは、人が神の息吹、霊を吹き込まれた霊的存在として造られたものである、ということを覚えました。
又、「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた、東の方のエデンに園を設け、そのようにして自ら形づくられた人をそこに住まわせ、人が耕し、守るようにされた」ということであり
本日はここからです。
確かに楽園、エデンには人が耕して食べるに十分な木の実があり、食べていくのに何不自由なかったのです。食べ、働く。それは生きることです。けれども何かが足りない。神は人の様子をご覧になって次のようにおっしゃいます。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう。」
人が独りでいる姿が神には「これでは良くない」と映った。そこには人と人の関わり、助け合うものとしての関係性がなかった。それは「良くない」ということです。

そこで主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり人のところへ持って来きて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられます。
けれども、人はあらゆる地の動物の中に自分を助けるものを見つけることができなかった、というのであります。
人はみな生まれた後名づけられてやがて名前で呼び合うようになります。そこに互いの関係ということが起こされ、深められていくわけですね。ペットの犬や猫も飼い主が名づけるわけですが、それは飼い主にとって都合のよいように扱われるケースも多く生じ、問題になっていますが。

21節を読んでみましょう。
「主なる神は、そこで人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」
まるで救急の集中治療室で手術がなされているかのような光景が思い浮かんでくるようですが。
ここで注目したいのは、神はその「彼に合う助ける者」を、他の動物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られた、ということであります。それは、人を介して助ける者をお造りになられたのであります。 
なぜあばら骨からだったのか?頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思うのでありますが。中近東では古くからあばら骨のある胸には、「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と、信じられていました。今も小さな子どもたちに、心はどこにある?と聞くと大概の子はどこで聞いたのか、「ここ~ぉ」と胸のあたりでハート型に指を合わせて見せるものです。まあ昔からあばら骨はその人の心情や魂を包み、守る役割があるとされていたのですね。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り、彼に合う(ふさわしい)助ける者として出会わされたというのであります。
それは、人の心の楽しみや喜び、又、労苦や悲しみといった心情を分かち合うことのできる存在こそが、人にとっての「助ける者」であったということであります。
ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従する者だというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんて女性蔑視の考え方だとするのも間違いであります。
助ける者といえば、手助け、ヘルパーのように、助ける側と助けられる側といった一方向の構図が思い浮かぶかも知れません。しかしここで主なる神がおっしゃった、「彼に合った助ける者」とは、上下や従属の関係ではなく、共に仕え支え合う、パートナーなのです。

23節、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
この言葉こそ、創造主が造られた「人」が初めて思いを込めて語った言葉としてここに記述されているわけですが。
「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」というこの表現には、「やっと見つけた」「探していたのはこれだった」と、そのような感動が伝わってくるようであります。それは彼と向き合うその人も又、同様であるのでしょう。その感動は人と人が出会い、交流することで起こってくる感動です。人には喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみといった心情を吐露し、共感をもって分かち合う相手が必要だったのです。そうした他者との関係性が人を人たらしめる重要な要素であったのです。

現代社会は如何に便利に快適になるかを追求してきました。人間として生きることを隅に追いやってまで、それを求めてきたのです。その弊害として人と人の関係が損なわれていき、今、人が益々孤独になっている危機感をおぼえます。様々な犯罪や事件が起こっているのもこうした社会の情勢とリンクしているのかも知れません。「私はもう一月近く人と話していません」「誰一人助けを求めることができる人がいません」。そのような人が実際増えて来ているようです。中には孤独を埋めるために万引きを何度も繰り返して投獄される人もいるそうです。どんな形であれ関わりが起きるからだということでした。技術の進歩と共に、いたる所が無人化するのは何か薄気味悪く、殺伐とした世界に思えるのは私だけではないでしょう。
先に、人が造られるに際し、土のちりから造られた。肉体的にも精神的にも弱くもろいものであるということを申しました。それだから、「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、そんな弱さやもろさをもつ人に、共に励まし合い、支え合い、生きる存在を与えられたのであります。

23節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。
この当時として、男性優位の社会にあって、男が父母を離れて結婚する。家や族長を男が離れて、家庭を築くということは、まあ革命的といいますか、考えられないことであったのです。その根底には、家や族長制度の中で行われて来た結婚が、一人ひとりの存在を大切に尊重し、ともに生きていくための結婚感を読み取ることができます。
それは男と女という形で述べられているのですけれども。何も夫婦という形に限られたものではありません。神さまがお造りになられた人、その人はだれもが、その助ける者を必要としているのです。その最も偉大な助けるお方こそ、私たちが人として生きる命を取り戻すために人の姿となってこの世界にお出でくださったイエス・キリストであります。

私たちはたえず他者という存在によって生かされています。日頃の平々凡々とした生活の中でも、意識しようがしまいが実にいろんな人とのつながりによって成り立っているのです。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在でありますけれども、その与えられた時間とその人生を如何に生きるかということが大切であります。
「人が独りでいるのは良くない」とのお言葉のとおり、他者との関係性を見出せなかったり、歪んだ関係性の孤独の中に埋没してしまうことほど辛く苦しいことはありません。人の孤独を真にご存じであられる神さまは、人のあばら骨、人がその思いや心情をもっているところから取り分けて、彼に合う助ける者を造られた。共感し合える存在、愛情を覚え合う存在として互いに生かされている。そこにエデンの園があったのです。
25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。
それは二人の関係性に神が伴われていたからです。
コヘレトの言葉には「ひとりでいるよりはふたりがよい、三つよりの糸は切れにくい」と記されていますが。人の関係性は弱くもろいものです。二本の糸をよってもすぐもつれたり、ほどけたりします。けれどそこに三本目の糸があれば三つ編みにしたりしてなかなかほどけない強い糸になります。そこには、主が私たちと共におられることをおぼえ、その関係性は喜びも悲しみも、悩みや苦しみまでもおぼえ合い、祈り合うことが与えられていくからです。
世の利害関係や社会での緊張からしばし離れ、私たちの存在を受け入れてくださる主が共におられる安息の中で、私たちは心開かれます。二つの糸は人であります。そして三つめの糸、それが主なる神さまご自身を表しているのです。人は弱さやもろさを抱えて生きています。けれども、その間に主なる神さまをおいて生きるとき平安と安らぎが与えられます。今週もこの礼拝から主と共に歩み出してまいりましょう。
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