礼拝宣教 創世記2章4節b~17節
先の創世記1章では、神があらゆる被造物、野の草木などをお造になられた後で、動物などの生き物を従わせ治める者として人をお造りになったという記事を読みました。今日の2章4節以降には、「主なる神が地と天をつくられたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」と、人は土地を管理する存在として記されています。
火星からの探査機によって送られてきた映像など見ますと、草も生えていない荒涼とした赤土の地表に虫一匹も見当たらず、生命が感じられない世界とはこうも殺伐としたものなのか、と思わされますが。そんな火星もかつては水が流れる大きな運河があったのでは、という痕跡が見られるそうです。その地下に何らかの生き物が存在するかも知れないと、現在も探索が続いているということですが。
ところで6節には、「水が地下から湧き出て、土の面すべてを潤した」とあります。
地下から泉が湧き出(いで)ることによって生命体が誕生してゆくのですね。1章1節には「神の霊が水の面を動いていた」とありましたが、神はこの潤された大地の「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」と、創世記は伝えます。
ここで興味深いことは、私たち人は神によってどろんこのような「土くれ」から造られたということです。人は生まれ、この地上での生涯を生き、いずれは生涯の終りを迎えて死に、その体は朽ち果て、大地に帰ります。人の骨も水に還元されます。それだけなら草木のような被造物と何も変わりありません。
しかし、神は息を吹きかけて人を生きるものとしてくださった。そしてやがて生涯を終えた人の息を神は引き取られるのです。人が死ぬ時には、「息を引き取る」と言いますが。これは息が霊とともに神のもとに帰るということです。コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節には、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と大変重要なことが記されています。
私どものいのち、生きる力は、そのいのちの源である主なる神から与えられいる。ですから、人はその主なる神との関係性を大切にしていくことによって、真に生きることができるのです。
さて、8節で「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」とあります。
この東の方のエデンが地理的にどこにあったのかは定かではありませんが。「東の方」とは、光が射し込んでくる方向、太陽が昇る方向であり、「エデン」とはへブル語で「歓喜」、「楽しみ」や「喜び」の意味があります。ギリシャ語ではパラダイス、「楽園」です。そのように人の喜びや楽しみが「東の方のエデン」には備えられていたという事です。それは前回お話したように、神が「見よ、それは極めて良い」と絶賛された創造世界が東のエデンには満ち溢れ、広がっていたということであります。
9節「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせられた」とあります。
必要な食べ物はただ神の恵みとして備えられ、人はそれらを享受することができたのです。大切な事は、神は人が生きるために、あらゆる恵みを賜物として与えていて下さるということです。主イエスは、空の鳥を見よ、一羽のすずめさえ、天の父が養ってくださるとおっしゃいましたが。今なおこの世界には多くの実りがもたらされているはずなのですが。紛争や貧困、非常時における救済もままならず、飢え苦しむ人が増えている一方で、大量消費から食料が投棄され続けているこの世界の不均衡はエデンの園からほど遠いものです。
さて、10節には、「エデンから1つの川が流れ出て園を潤し、そこから分れて、4つの川となっていた」とあります。
先に、「地下の水が湧き出て、土の面をすべて潤していた」ということに触れましたが。この水は生命の源であり、人が生き、生活していくために欠かすことができない尊い資源であります。
ちなみに旧約聖書の預言者エゼキエルは、幻を見て、水が神殿の敷居の下から湧き上がり、川となって流れゆくそのところはどこでも、群がる生き物すべてが生き返り、果実は絶えることなく実をつける様子を謳っています。それは霊的な命の水ですが、その川の流れゆくところに、いやしと回復、豊かな命の糧があるというエデンの園を彷彿とさせる幻であります。
15節に「主なる神は人を連れて来て、そのようなエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。
先回の1章の創造の記事では、神は人に「動物や生き物を支配し、治めるようにお命じになりましたが、この2章においても神は、「人をエデンに住まわせて、地を耕し、守るようにされた」のです。神がお造りになったあらゆる種のいのちをはじめ、大地の恵みを私たち人間が正しく管理していくように、神は今も私たちに託しておられます。
以前私が住んでいた九州の教会には畑がありました。ご高齢の方が様々な野菜を作っておられましたが、退かれてからは連れ合いがナスやキュウリ、イチジクの木を植え育てていました。私はもっぱら食べるばかりで、たまに水やりや土に触れる程度でしたが。その季節折々の実りを眺め、驚くばかりでした。土いじりはなんでもいやしの効果があるそうです。そういう時人はエデンの園にいた時のことを思い出すのでしょうか。
大阪教会敷地内にあるびわの木には毎年百以上のびわが実ります。手入れも何もしていないにも拘わらず毎年実るのですね。カラスが早々に実ったびわを咥えていきます。負けじと難コカはもぎ取るのですが、高いところにあるので多くはとれません。昨年より多めでしたが、実が一回り小さくなっていました。来年はあらかじめ枝の選定をしてみようと今から思っています。まあそのように農園や菜園において大事なのは、地を耕して命ある種や苗が育つためのよい土壌を作り、水をやり日光に気をつけて肥料をやり、さらに手入れをしてくことでしょう。「地を耕し、地を守る」ことには心と体を使っていく必要があります。そこにはそれだけの報いがあります。逆にその恵みの大地、自然を乱獲し、管理を怠ってしまいますと、それは人の側に跳ね返ってきます。
神から管理を委託されたこの大地をどのように耕し、守っていくか。それは農業、畜産業、漁業や林業の関係者のみならず、その収穫の生産物を食し、消費している私たちの事柄であります。この「地を耕し、守るように」と、お命じになられる神のお言葉を如何に聴いていくかが問われています。
神はさらに人に命じて言われました。
16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」
このお言葉を読むとき、すべての木から取って食べなさいと言われながら、善悪の知識の木からは、決して食べてはならならい、というのは矛盾していると思われる方もおられるのではないでしょうか。
まず知っておきたいのは、「命の木」と「善悪を知る木」の本質、その実が神の領域であることを表すシンボルとして園の中央に据えられていたということです。
現代科学の進歩に伴い、人の倫理観が大きな問題になっています。神の領域とその境界線が人に問われています。何を善とし何を悪とするか。そこには神との対話が必要です。
神は人を指示通り従うロボットのようにではなく、神の意志に対して自分で考え、選び取っていく「自由意志」をお与えになりました。初めからロボットのように人を造られたのならそういうようなことを人間に語りかける必要はなかったのです。人は神にかたどられ、畏れ多いことにその似姿として造られましたが、それは人が神との一対一の関係性、汝と我という霊的な関係性をもつ存在であるということです。
神はエデンの園におかれた人が、ご自身のお言葉に応えて「生きる」ことを願われたのです。人が自ら主体的にそのように選び取っていくことを神は願われたのです。
エデンの園は単なるおとぎばなしではありません。
神が与えてくださった恵みの賜物を、神との対話なしに人が身勝手にむさぼり尽くしていく時、地は呪われるものとなるのです。神がそうなさるのではなく、必然的にそうなって
ゆくのです。その殺伐とした現状が、今の私たちの世界において数知れず生じ拡がっています。
では今一度人間がそのあるべき原点に立ち返っていくには、どうしたらよいのでしょうか。
はじめに、神が地を潤され「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」という点に触れました。
人は大地の一部である「土のちり」から造られたのです。人体は29種類の元素からなっていると言われていますが。そのすべての元素は土の中に含まれているそうです。最近火山付近の泥の成分が人の細胞内の環境に非常に似ているという発見がなされたそうですが。
詩編103:14-16には「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」と記されいます。そのように私たち人間が実にもろい土の塵から造られている存在であることを認める必要があるでしょう。それらのちりから、私が神によって作られていることを思い起こすことです。それは又、地上のあらゆる被造物のいのちが一本の木の枝であり、実であるように、私たち人間もこの地球上のすべての神が造られたいのちにつながり、存在しています。あのエデンの園の中央の命の木は私たちに「とってそのシンボルでありましょう。
大切なのは、すべての人が全被造物を創造された主なる神さまに立ち返って生きることです。まさにその損なわれた関係性が取り戻されるべく、天地創造より御父と共におられた御子イエス・キリストが人となり、和解の福音をもたらして下さいました。すべての人、そして全被造物が神の子の出現を待ち望んでいます(ローマ8章)。共に世界に神の福音(よき知らせ)がもたらされ、エデンの祝福に立ち返る日が訪れますよう、共に祈り続けていきましょう。