主日賛美礼拝式 ネヘミヤ記1章1節-2章8節
「わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ、主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え。」(詩編135・2-3) 本日は宗教改革記念日でありますが、私どもプロテスタントの全ての教会は礼拝で聖書の御言葉に聴くということをとても大切にしています。それは、神の救いがまず聴くことにより、その信仰によって確かなものとされるからです。しかしそれだけではありません。与えられた信仰によって心を一つに祈り求め、感謝と応答の賛美、奉献をお捧げすることで礼拝は構成されています。
今日は賛美礼拝ということで、生ける主、私たちの救いの神さまに心から賛美をお捧げし、主の御名をほめたたえています。 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8・10)との御言葉どおり、この主への賛美の中に神さまの霊、聖霊が主を賛美することはわたしたちの力の源でありこの主への賛美の中に神さまの霊、聖霊がゆたかに臨んでくださいますように、主イエスの御名によってお祈りいたします。
さて、この10月は旧約聖書エズラ記をずっと読んでまいりましたが。今日のネヘミヤはその次の時代に立てられた人ということになります。今一度その時代背景をおさらいしましと。神殿のあった都エルサレムとその民は、神への背信と深い罪のためにバビロンによって滅ぼされ、多くの人たちが捕囚としてバビロンにつれて行かれます。やがてそのバビロンもペルシャ王国にのみこまれ、ユダの人々はその統治下におかれますが。「神がお働きになったので」、捕囚の人々はエルサレムへの帰還が実現いたいます。エルサレムでは20年に亘る困難な状況の中でようやく神殿が再建されたというのが先週までのお話でありました。
一方ペルシャでの生活を確立し、その地でクラス人たちもいたわけですが。彼らも又、常にイスラエルの再建を祈りつつ、エルサレムに帰還する人たちの援助をずっとし続けていたのであります。そういった中に今日のネヘミヤもいたわけでありますが。
ネヘミヤは、そのユダの民の子孫でありながら、ペルシャ王の献酌官として起用されていた人物でありました。それは王様の酒のいわば毒味役を兼ねた給仕役であったということです。何だか物騒な気もいたしますが。ネヘミヤは王の篤い信頼ゆえの役職ということで、その地位も大変高かったのです。彼は後にエルサレムの政治を司る総督となったように、政治的手腕にもたけていたのでしょう。
先週読みましたエズラは祭司であり又、王の書記官でしたが、このエズラとネヘミヤの二人の霊的指導力と政治的指導力を通して、ユダの国の復興と改革がなされていったということであります。祭司と総督という立場は異なりますが、ともに神への愛とユダヤ同胞への厚い思いをもって、神の民の霊的復興を祈り求めながら、エルサレムの神殿再建の工事を遂行していくのです。
先週読みましたエズラは祭司であり又、王の書記官でしたが、このエズラとネヘミヤの二人の霊的指導力と政治的指導力を通して、ユダの国の復興と改革がなされていったということであります。祭司と総督という立場は異なりますが、ともに神への愛とユダヤ同胞への厚い思いをもって、神の民の霊的復興を祈り求めながら、エルサレムの神殿再建の工事を遂行していくのです。
先ほど、1章から2章8節が読まれました。
ネヘミヤが荒廃したエルサレムとその城壁の建て直しに着手していったきっかけは、ユダヤの同胞からその荒廃したエルサレムの現状を知らされたからです。そのことを聞いたネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食も断って神に祈る」のであります。
又、ネヘミヤは主に、「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。」と切々と訴え祈ります。
ネヘミヤが荒廃したエルサレムとその城壁の建て直しに着手していったきっかけは、ユダヤの同胞からその荒廃したエルサレムの現状を知らされたからです。そのことを聞いたネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食も断って神に祈る」のであります。
又、ネヘミヤは主に、「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。」と切々と訴え祈ります。
しかし、それにしても不思議ではありませんか?民の背信と罪のためバビロンによる崩壊と捕囚が起こったのは、このネヘミヤの祈りからおおよそ100年程昔のことです。1世紀も前の民の罪をネヘミヤは自らのこととして悔い改め祈っているのです。彼はときのペルシャ王にその地位と立場を保証されていたのです。そういう立場であれば、大方の人なら安泰を願い、もはや先祖の土地など思い起こすことなどしないでしょう。ところが彼は遥か彼方のユダの地とその同胞に思いを馳せ、神に訴え祈るためになんとそれこそ遥か昔1000年程も前に、主がモーセを通して語られた、民への約束を引き合いに出して、イスラエルの民族にとっての悔い改めと共に、「その約束の場所に民の復興をお与えください」と、切に祈っているのですね。それは何と壮大な祈りでありましょうか。 その歴史においてたとえどのような境遇におかれようとも、脈々と受け継がれてきた神の約束委を信じ望み祈り続ける人々が何世代にも亘って存在していたということであります。遠く離れた異教の地にあってもエルサレムの進まぬ復興と同胞の苦境を自分のこととして憂い、心痛めるネヘミヤ。そしてその祈りは実に4カ月の時を得て、不思議なかたちで導かれていくのです。
ある日、ネヘミヤはペルシャの王から、「暗い表情をしているが、何か悩みごとでもあるに違いない」と尋ねられます。ネヘミヤは王にそのように尋ねられたことで、そのユダの地エルサレムの町の現状を自然に王に打ち明けることができました。 すると王は、ネヘミヤに「何を望んでいるのか」と尋ねます。ところがネヘミヤは、王に即答せず、「わたしは天の神に祈って、王に答えた」(4-5節)とあります。ネヘミヤは王に自分の願いや主張をすることができたと思うのですが、そうはせずに、彼はまず何よりも「天の神に祈って」、自分の思いではなく、主の御心が何であるのかを聴くようにしたのです。その主の御心の確信を受けたネヘミヤは、王に「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください」と答えたというのですね。
まあこうして、ネヘミヤはユダの地の町の再建のために働きたいと申し出ることができたのです。ネヘミヤ自身こういう形で自分の祈りが導かれるなどとは考えてもいなかっでありましょう。自分の方から何か話を持ちかけたり、働きかけるという以前に、生ける神さまが状況を整え、道を拓いてくださったのです。
ネヘミヤはこう言っています。8節「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。」
このように生ける神、主がネヘミヤの背後にゆたかにお働きくださって、一つひとつの事どもを導いていかれるのです。
ネヘミヤはこう言っています。8節「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。」
このように生ける神、主がネヘミヤの背後にゆたかにお働きくださって、一つひとつの事どもを導いていかれるのです。
今や私たちは主イエス・キリストによる罪の赦しと救いの約束という新しい契約(新約)に入れられているという驚くばかりの恵みに与る者とされました。 主に祈り続けるその祈りを、主は聞き逃すことなく聴いておられます。人は憂うべき状況の中で何とか事態を打開させ改善させようと、もがき画策します。それも大事かもしれませんが。まず真実な訴えに耳を傾け、最善の御計画を導くことのできるお方、主なる神さまに向き合い祈ることが大事であります。ネヘミヤの思いを遙かに超えたかたちで道を拓いて下さったこの生きてお働きくださる主に、どこまでも信頼し、希望をもって祈り続けてまいりましょう。