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招きに応えた人たち

2022-10-24 09:34:18 | メッセージ
主日礼拝宣教 エズラ記8章15-23節

本日はエズラ記8章より御言葉に聞いていきます。前の7章で第二神殿完成の式典がなされますが、その時エズラはまだバビロンにいました。そしてこの8章において、エズラはユダヤの同胞と共にバビロンからエルサレムへ旅立つのであります。それはまる4カ月間を要するほど難儀な旅路でありました。何分家族を含む多くの人数に加え家畜も連れており、さらに神殿に寄附する高価な捧げものや礼拝を行うための必要な祭具類などもあります。そういったものを運んで共に移動しなければならず、危険を伴う大変な旅路でありました。
8章の始めのところには、バビロンから上って来た人びとの家長の名とその家系などが列挙されていますが。肝心なのはその人たちが、「人に強いられて帰還に加わったのではなく、自ら招きに応えた人たちであったということです。これらの人たちはエルサレムに行くことを自ら望み、その人生を選び取った人たちであったのです。

その人たちの中にはユダヤ士族の長、祭司および王の家の者もいましたし、その他にも志を同じくする一般の人びともいました。ただ問題が一つありまして、神殿の礼拝を整えるレビ人が見当たらないということでした。                  そこでエズラは、ユダヤの頭たち数人をカシフヤという所の神殿の使用人とその兄弟たちのもとに遣わし、「わたしたちの神の神殿に仕える者をよこしてほしい」と伝えさせます。
すると、「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり、彼らはイスラエルの子レビの子であるマフリの一族のシェレブという有能な人物を、その子らと兄弟18人と共に連れて来た」(18)ということでありました。
エズラはこれらのことを通して、エルサレムに帰還するための目的が何であるのかを悟ります。彼らがエルサレムにただ帰還することが目的ではなく、第二神殿で礼拝のため用いられるに相応しい祭具が備えられ、かつてのエルサレム神殿のように、それらの人びとが神と人に仕え、礼拝が整えられていくというビジョンが与えられていたのです。

私たちも主イエスが復活された日曜日の朝を主の日として記念し、毎週礼拝を捧げています。礼拝が整えられていくためには礼拝の式次第の作成(週報)、礼拝のためのお祈り、お掃除やセッティングがなされます。礼拝の司式者、宣教者、奏楽者、奉献祈祷者、受付者、音響やオンライン担当者など祈りつつ準備をし、礼拝が整えられていきます。けれどいくら奉仕者がいても礼拝は成り立ちません。本当に大事なのはそこに礼拝者が集うということであります。そのために各々が祈りつつ礼拝に向けて整えられていくことが大切です。又、それに加えて求道者やその日の礼拝に初めての方を主が招かれることもあります。奉仕者を含むそれらすべての礼拝者を主は自ら導き招かれるのです。主ご自身がそのようにして礼拝を整えてくださるのです。     

私はこれまでも礼拝の前日に明日は礼拝に行けませんと連絡が数件入って、さぞ明日の礼拝は少ないだろうと考えることがありましたが。いざ礼拝当日の朝を迎えますと、不思議と久しぶりの方がお出でになっていたり、思いもよないところから新来者の方が足を運んでくださっていたりと、そういう出来事を頻繁に経験いたします。その度に驚かされると同時に大変励まされてきました。私たちの手が届かないとき、祈る以外ないそのような時ほど神さま御自身が整えてくださるのです。                 

復活の主イエスが舟で漁に出た7人の弟子たちに現れた時のエピソードが思い浮かんできます(ヨハネ福音書21章)。その夜何もとれなかった弟子たちに、主イエスは向こう岸から「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは「何もありません」と答えます。彼らはそれが主イエスだと分かりませんでした。主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、弟子たちは言われたとおり網を打ってみると、網はあまりに魚が多くて、もはや網を引き上げることができなかった。シモン・ペトロは「主だ」と気づくと上着をまとって湖に飛び込んだ。他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で陸まで戻って来ました。そして陸に上がってみると、「炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」。主イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とそう弟子たちに言われたのです。主イエス御自身がくたくたの弟子たちの朝食を整えて待っていて下さるのです。主とその食卓を共にした弟子たちはどれ程慰めと励ましを頂いたことかと思います。わたしも又、この復活の主イエスのエピソードがいつも心の支えになっています。今日の8章18節「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり」という出来事を、主は今も変わることなく私たちの間にゆたかに起こして下さる。その恵みに感謝します。

エズラ記8章に戻りますが。今日の箇所の2つめのポイントは21節以降のところです。まず、「わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした」(21)とあります。礼拝に必要なものが整えられ、いよいよエルサレムに向って出発という時、彼らには心配事がありました。エルサレムの神殿にささげるための高価な祭具や捧げものの金や銀を100日以上かけてエルサレムまで運んでいかなければなりません。もしかするとそれを待ち伏せする盗賊がいるかも知れません。エルサレムに向う人々の中には幼い子どもたちもいました。争いの危険に巻き込んでしまう可能性もあります。       そこで、主の招きに応えた人たちがまずなしたのは、「旅の無事を神に祈ることでした。」
エズラは又、22節で「わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられる・・・・・と王に言っておいていたからである」と記しています。 彼らは、招きに応えてエルサレムに向う者たちを主は必ず守ってくださるという確信wに与りつつ、王の力には頼らず神にのみ依り頼み祈るのです。                         
この世的に見れば王の兵隊の力を借りて旅路を守られるなら何と安心だろうかと思います。しかし彼らが敢えてそうしなかったのは神への信頼に依っていたからです。エルサレムへの帰還の道を開き、招いてくださったのは慈しみ深い神御自身であられるお方の、その招きに応えて行こう。主はエルサレムに着くまで必ず守り導いて下さる。そのような信仰の確信が彼らにあったのです。旅の無事を保証するのは、人の力ではなく神の御手であると信じ、その御守りを祈り求めたのです。                            31節には「わたしたちは第一の月の十二日に、エルサレムに向ってアハワ川を出発した。道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた」とそのように記されてありますね。                           

私たちにとっても「何を第一としてして誰を信頼して生きるか」ということが人生の局面において重要なわけでありますが。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの必要はみな加えて与えられる」と、まず何にも勝って神に信頼し、神の御心を尋ね求めることをお教えになりました。昨今の私たちを取り巻く世界、又社会には命の危機や生活の不安が増し、将来の展望を見出すことさえ難しいような世知辛い世の中になってきているように思います。けれど、時代や状況が変化しても決して変ることのないお方、そのお言葉の真理は私たちを支え、守り導いてくださると信じます。                   

今日の、主なる神の招きに応え、神殿における礼拝が共に整えられていくために都に上っていった人たちの姿を思い浮かべつつ、主の招きに応え、絶えず神を尋ね求めて歩んでいく者には、恵み溢れる御手が差し伸べられる経験をすることができるという希望があることを、今日の御言葉からしっかりと受け取って歩んでまいりましょう。
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