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自ら十字架を背負う救い主

2016-03-20 14:23:11 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ19:16b-30 受難週

「主への信頼によって」
いよいよ主イエスのご受難を覚えて過ごす受難週を迎えました。先日聖書の言葉を紹介するアプリが送られてきたものを見ますと、「もしも、これがあなたの人生の最期の1週間であることを知ったなら、あなたはどのように過ごされますか?」とありました。みなさんはどうお答えになりますか?そんなことを急に言われたとしても、そもそもあと1週間で地上での人生が終わるなんて言われても、果してきちんと受け止めることができるのだろうか、と考えたりしましたが。
私は闘病生活の果てに天に召された方々と接する機会が幾度もありました。始めはご病気のことを受け入れられずに苦悩する日々をみなさんそれぞれに通られるのですけれども、主イエスへの信仰のゆえに、やがてはほんとうに平安に満ちたりたお顔で、主の御もとに帰って行かれます。そんな時、私の方こそ逆に力づけや慰めをいただくのです。命の終わりが近づくと人は自分の一生を顧みるのでしょう。その時様々な思い出と共に、自らのぬぐい難い罪をも思い出すでしょう。ほんとうの意味で十字架の贖いを知り、体験するのはまさにその時なのかも知れません。救いの主、イエス・キリストが共にいてくださる。それは人生の終わりを前にした人にも、又、今を生きる私たちにも、命に輝きを与える生ける力です。

さて、今日は、イエスさまの十字架と死の場面から「自ら十字架を背負う救い主」と題し聖書のメッセージを聞いてきたいと思います。このレント(受難節)の1ヶ月あまりイエスさまの人生の最期の1週間の記事をともに読んでまいりました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった出来事から聖書に聞いてまいります。
17節で「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた」とあります。それは処刑場でした。
たくさんの奇跡や不思議な業をあらわされた神の子イエスさまです。何とかして十字架刑の苦難と死の道から逃れることもできたはずです。ユダの裏切りも始めからご存じだったのですから、そこから逃れることも十分できたはずです。けれどもイエスさまは敢えてそうなさらなかったのです。それは一重に、父の神の御心である救いの業を成し遂げるためでした。前夜ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエスさま。そこでイエスさまは十字架の道こそ、すべての人のための救いを成し遂げる唯一の道であり、それを父なる神は望んでおられることを知り、受け入れて自ら十字架を背負われたのです。ローマ兵の鞭に打たれ、いばらの冠をかぶせられ、身体じゅうから血を流しながらも、主イエスは私たちの救いのために自らあゆんでいかれたのです。

「神のご計画の実現」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された、来るべきメシア(救世主)がイエスさまであられることを証しています。
18節には、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが実際に起こったことを示しています。
又、23節以降には、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることと同様のことがなされたということです。そのようにイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神さまのご計画の実現であったということなのです。
さらに、イエスさまの死の場面において28節には、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。
この「渇く」というのも先程の詩編22編16節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という描写を受けて「旧約聖書の言葉が実現した」とヨハネ福音書は伝えているのです。
兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した」とありますが、これも詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします」と、記されたメシアの苦難の成就ととれます。
この酸いぶどう酒を差し出すために使われたヒソプの枝は、過ぎ越し祭の祭で用いられたものでした。それはかつてイスラエルの民が囚われのエジプから神さまによって導き出される折に、それぞれの家の門柱に「ほふられた小羊の血」を塗ることで、滅ぼすものから守られ、災いを過ぎ越すことができたのです。そのほふられた小羊の血はヒソプの枝に浸してから門柱に塗られたのです。
バプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。そのとおりイエスさまはまさに世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神さまのご計画の実現の証しとなっているのです。

「主イエスの十字架」
だれしも不当に捕えられたりすれば、無実と汚名を晴らすために必死になって弁明したり、抵抗したりするでしょう。ところがイエスさまはそうなさいませんでした。ローマの総督ピラトもイエスさまの無実を認めており、なんとかイエスを釈放しようとしたことが分かります。しかし、イエスさまはイザヤ書の言葉をかりますなら、53章7節「屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」のです。それはまさに、イエスさまが神の小羊として世界の、私たち人類すべての罪を自ら負われた。私たちの罪をご自分の裁きとして「お受けになった」ということであります。重ねて言いますが、イエスさまは自ら十字架を負い私たちの罪をご自分の身に負うことによって私たちを滅びから解放し、神との交わりを回復してくださったのです。
無実のイエスさまを十字架につけていった者、それはだれでしょうか?他ならぬ私自身ではないでしょうか。罪に滅びゆくしかない、又死の淵にあっては到底神の前に立つことができない私。その私が滅びることのないようにと、その罪をイエスさまはご自分の罪として自ら背負ってくださった。そうして私が神に向かって父なるお方、お父さんと呼べるような和解を与えてくださった。それほどまでにこの私をイエスさまは愛してくださっているのです。このイエスさまの十字架の御救いは、人間の知恵や知識によるのではなく、むしろ罪を犯さずには生きていけないような私たちの弱さや破れの中に、唯恵みとして与えられているのですね。私たちはその神さまの愛を知さられ、その愛に生かされていく中に、主の御救いのゆたかさとみ恵みを体験させていただけるのです。唯、唯感謝であります。

「十字架のもとで始まる新しい関係」
さて、本日のイエスさまの十字架の場面の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまとそのもとに居続けた女性たちのことであります。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らは表舞台にではなくイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたのであります。ところが、イエスさまが捕えられて主だった弟子たちが逃げて行く最中、なおイエスさまの十字架のもとにとどまり続け、その死の最期を見届けた彼女たちの姿はひときわ存在感があります。 
女性の存在感といえば、朝ドラの主人公の広岡浅子さんが注目をあびています。彼女はキリスト者として女子高等教育や大阪YWCAの創設、又キリスト教界においても大きな貢献をされたそうですね。見えるところ見えざるところで、女性の祈りと働きというのは大変優れたものであると尊敬いたします。

聖書に戻りますが。苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
愛弟子とはヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。彼はそれ以降本当に言われたとおりに、イエスさまの母マリアを引きとって世話をしたとあります。

死ぬ直前に自分の母親を家族や親族に託すということは一般的な事としてこの時代もあったのでしょう。しかしここでイエスさまは、何人もの兄弟がいたにも拘わらず、自分の肉親ではない愛する弟子に母を託したのです。恐らく当時のイエスさまの肉親の兄弟姉妹たちはイエスをメシアと信じていなかったのでしょう。聖書には「兄弟がやってきてイエスのなさっていることをやめさせようとした」という記述がございます。又、イエスの母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人のことである」(マタイ16章)とお答えになったともあります。
ここでイエスさまが母にその弟子をして、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われたその時、この主イエスの十字架のもとで、新しい人間関係が生まれたのであります。キリストにある者はみな、血縁関係、肉の親子、兄弟姉妹に関係によってではなく、十字架の主イエスのもとこの新しい関係によって結び合わされるのです。ここにキリストの教会の本質がございます。あらゆる違いを超えた神の家族としてのゆたかさ、和解の福音の原点がまさにここから始まっていくのですね。私たち一人ひとりも又、この主イエスの十字架のもとにあって神の家族として互いを大切にして生きるよう招かれているということを今日改めて思い起こしたいと思います。

最後になりますが、十字架につけられたイエスさまの身体は鞭で皮膚は裂けぼろ布のように傷だらけでした。迫る死を前にされ、苦悩と痛みをただひたすら耐え忍ばれたのです。その姿は人の目に敗北者と映ったことでしょう。しかしそれはイザヤ書53章5節に、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と預言されたとおりのことが主イエスによって成し遂げられるためであったのです。
人生の苦しみや悩み、痛み、悲しみの中でこの十字架の主イエスのお姿を想う時、そしてその愛を知る時、私たちは深い慰めをそこに見出します。又、人生の荒波の中で主にある家族の祈りと支えをいただく時、どんなに私たちは勇気づけられることでしょうか。さらに、そのような主イエスの執り成しのもとにある関係性を築いていくようにとの、主のお言葉と招きに留まり続けることは大切です。
悩みや問題を抱え、苦しんでいる時は人と顔を合わせるのもしんどいと礼拝を休もうと考えることがあるかも知れません。しかし実はそういう時にこそ、主イエスのもとに足を運び、主のいやしと平安に与かる必要があるのです。しんどい時にこそ、礼拝に足を運び、主の御前に出で、そこに身をおくと、しんどかったけれど教会に来てほんとうによかった、と思うことがきっと多いはずです。主から離れると魂は欠乏をおぼえ心は益々重くなっていくものです。何よりもそのしんどさを抱えて苦しむ一人ひとりを主が執り成してくださっています。一人ひとりがかけがえの無い存在として大切におぼえられ、神の家族として招かれています。そのメッセージに応答しつつ今週も歩み、来るイースターを共に迎えてまいりましょう。
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