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キリストにある平和と勝利

2016-03-06 15:40:18 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ16:1-33 レント(受難節)Ⅳ

本日はヨハネ16章より「キリストにある平和と勝利」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。この福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。私たちは今、現在幸いにも「信教の自由」が憲法によって保証されておりますが、イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深める中東において、又中国において、あるいは明るみにはなっていないけれども様々な地域で、いまだ主イエスを信じるキリスト者への激しい弾圧や迫害が起こっている現実がございます。今の日本ではそんな直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが、キリスト者としての信仰や信条を貫こうとする時、バッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりする方々も実際におられます。家族、親族、又地域コミュニティーから疎外感をおぼえたことがあるという方もこの中においでかも知れません。そういう中で私たちが「平和」を得、キリストにある勝利の人生を生きるためのメッセージを、今日のイエスさまのお言葉から聞いていきたいと思います。

さて、私たちは受難節に入り、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚されて、弟子たちに決別説教をなさったそのところをこれまで読んできましたが。先先週は弟子たちの足を洗いながら「互いに足を洗い合いなさい」とお命じになった箇所を、そして先週は「ぶどうの木であるイエスさまに、その枝としてしっかり実を結ぶものとならせていただくように」との勧めをいただきました。いずれも共通しているのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これが父の神の掟である、というメッセージであったのです。

本日の16章はそれらのイエスさまの決別説教のクライマックスともいえる箇所でありますが。ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。

イエスさまは5章18節以降の「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と弟子たちにおっしゃるのです。それはつまり、弟子たちが迫害を受ける前に、イエスさまご自身が迫害を受け、十字架の苦難と死を遂げられるということが述べているのです。そうしてイエスさまが捕えられて死なれた後、弾圧と攻撃の鉾先は福音を受け継いでいく弟子たちに向かっていくのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのですが。しかし、イエスさまは御自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が生じることを十分見こされて、弟子たちが慌てふためき、つまずくことがないようにと、弟子たちに大切なお言葉を語られるのです。
ですから4節にこう記されています。「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「ああ、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と思い出すようにということですね。
このようにイエスさまは、弟子たち、それはさらにイエスさまを信じるすべての信徒たちの将来を十分見こして、危険や災難が間近に迫ってきた時にも慌てふためき信仰を失うことのないようにと、これらのことを語られたのです。

ではその中身をもう少し丁寧に聞いていきたいと思いますが。
イエスさまは5節以降でこう言われます。
「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、、、、しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」

イエスさまが彼らのもとから離れ去ることを聞いて、弟子たちは「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。そのような弟子たちにイエスさまは「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。さらにイエスさまはおっしゃいます。「わたしが去って行かなければ弁護者はあなたがたのところに来ない。わたしが行けば弁護者(助け主)をあなたがたに送る。」
それは12節にありますように「主の弟子、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊」、聖霊であります。

イエスさまは16節で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、おっしゃっています。それは御自身が十字架におかかりになって死なれ、ご復活されて天に昇られた後、あの聖霊の降臨によって主イエスが共におられることを知るようになる、そのことをおっしゃっているんですね。しかし、弟子たちはこの時まだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。別れの悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりだったでしょう。  

その彼らにイエスさまは言われます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る。」そして 22節にありますように「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」とおっしゃるんですね。何とも力強いイエスさまからのお約束です。

それから2000年を経た今日の私たちはイエスさまを目で見てはいませんが、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きいてお働きになっていることを知っています。この聖霊はキリストの教会を通してお働きになり、主が生きておられること、その救いの御業を与え続けていてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る。」「心から喜ぶことになる。だれもこの喜びを奪い去る者はいない。」聖霊に満たされた生活はそのおかれた状況如何に関わらず、主にある喜び、何ものも奪うことのできない喜びが溢れます。

ちょっと話が逸れますが、杉本竜一さんという方のBELIEVEという曲があります。ご存じの方もおいでだと思いますが。それはこんな歌詞です。「たとえば君が 傷ついて くじけそうに なった時は かならずぼくが そばにいてささえてあげるよ その肩を 世界中の 希望のせて この地球は まわってる いま未来の 扉を開けるとき 悲しみや 苦しみが いつの日か 喜びに変わるだろう アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる 」 
この「かならずぼくがそばにいて」という言葉や、「悲しみや苦しみが、いつの日か喜びに変る、アイ、ビリーブ イン フューチャー 信じてる」という言葉が、今日のイエスさまのお言葉と重なっているように思えて何だかずっとこの曲が頭から離れなくなったんですが。

さて、23、24節でイエスさまは「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と、言われます。

弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。しかしイエスさまの御名によって祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。けれどもイエスさまはここで弟子たちに、この地上を去るにあたり、今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
聖霊が送られてきた「その日には」、26節にも「その時には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」とございます。 それはイエスさまの十字架の贖いを通して与えられる私たちの祈りです。聖霊がそれを悟らせて下さり、それによって父なる神さまが直接、私たちを愛して、祈りを聞いてくださるのです。これはものすごい約束の言葉です。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」
アーメン。私たちも聖霊のお働きによる救いの業と喜びが起こされるように、祈り続けましょう。

さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞きながら、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言っています。それはその時の弟子たちなりの信仰の表明でした。しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
弟子たちは、その後イエスさまが捕えられ引き渡される事態を目の当たりにして、イエスさまを置き去りにして逃げて行くのです。「信じます」と言った言葉が吹っ飛んでいく、そんなやるせない経験を彼らはすることになるのです。けれど実はイエスさまはそのような弟子たちの弱さをすでにお見通しであられたのですね。それを十分ご存じのうえで、弟子たちに今日のこの言葉を語っておられるのです。

ここでイエスさまが弟子たちの弱さやについて予告なさったのは、彼らを落胆させるためではなかったのです。それは33節にあるように、イエスさまは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とおっしゃいました。   
イエスさまを見捨てて逃げ、その無残な最期を遂げられたことを知り、自責の念にさいなまれたであろう弟子たち。その失意のどん底で、イエスさまの今日のこのお言葉を思い出した彼らは、どんなにかイエスさまの深い愛と招きに胸を打たれたに違いありません。主イエスがお語りになった言葉、それはまさに1節「あなたがたをつまずかせないため」4節「その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためであった」ということです。
そうして主の愛に生かされた彼らは、主のご復活と聖霊降臨によって何ものも奪うことのできない神の愛と救いの喜びに満たされ、真の平和(平安)を得るのであります。誰にでも失敗はあります。人の決心も、ともすれば吹っ飛んでしまうものです。にも拘らず主はそんな私たちの弱さもあるがままに、その愛によって導き、聖霊をもって何度でも立ち上がることができる勇気をくださるのです。

イエスさまは最後に言われます。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、その愛と平和のうちにあって力強く主の証し人とされていきましょう。
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