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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスは生きておられる

2016-03-27 18:30:40 | メッセージ
イースター礼拝宣教 ヨハネ21章1-14節 (マルコ16章1~8節 参照)

イエス・キリストのご復活・イースターおめでとうございます。
イエスさまは私たちが罪に滅びることがないように、御自身が十字架にかかることによって私たちの罪をすべてあがなってくださいました。その神の子イエス・キリストによって今日も私たちは救いに与かっています。そればかりではありません。私たちが死という絶望から天の希望、すなわちいつまでも主と共に生きるいのちに移されるために、主イエスは死から3日後、よみがえられたのです。私たちはこの神さまの愛と救いを思い起こすためにイースターを祝い、互いに「おめでとう」と喜びを分かち合うのです。
また、昨日はイースター特別公演の「ゴスペル音楽劇&トークライブ」(大阪教会&桜人企画コラボ)が行われ、たいへん有意義な時をもつことができました。本日も午後3時から2回目の特別公演が行われます。

本日はヨハネ福音書21章から「主イエスは生きておられる」と題し、御言葉に聞いていきます。
この箇所は復活のイエスさまが7人の弟子たちに現れる記事ですが、イエスさまはすでにエルサレムにいた弟子たちに2度にわたってご自身を現わしておられました。
鍵をかけた狭い家の中、絶望的な思いに閉じ込められていた彼らの間にイエスさま現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった、とあります。
残念なことにそこに居合わせてなかった弟子のトマスが他の弟子の体験を聞き、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのであります。イエスさまは8日の後再び弟子たちの真中に立たれ、そのトマスにご自分が生きておられることをお示しになられたのですね。そうしてトマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と言うと、イエスさまはトマスに、「見ないで信じる人は、幸いである」と言われた、と記されています。人は見えるから必ずしも信じるのではないのですね。「見ないで信じる者は幸い」なのです。

それから、さらに主イエスさまは3度目にガリラヤのティベリアス湖畔で、ヨハネ、シモン・ペトロら含む7人の弟子たちにご自身を現わされました。
マルコ福音書16章には、女性たちが墓に葬られたイエスさまのもとを訪れた時、真白な長い衣を着た若者が現れ、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と伝えたとあります。
 先に申しましたように、エルサレムでもイエスさまはご自身を現わされましたが、彼らの出発の原点となったガリラヤの地で、今一度彼らを福音の使者として召し、任命する。そのようなご計画を主は持っておられたのです。

イエスさまが捕えられることになると、それまでイエスさまを慕って来た弟子たちは怖れや不安にかられて身を隠しました。又、筆頭格の弟子であったペトロも、官邸内までイエスさまの後について行きましたが、そこでイエスさまのことを3度も「知らない」と否んでしまったのです。
復活の朝、白い衣を着た若者が「弟子たちとペトロ」と、あえてペトロを名指ししているのは、ペトロが人一倍自分のとった行為を恥じ、深い絶望の淵にいたからです。
復活の主イエスはそのペトロの心のうちをよくご存じであられたのです。己のふがいなさ、罪深さに自分を責め続けていたペトロに、復活の主イエスは「ガリラヤで今一度待っているよ」と、天の使いを通して伝言なさったのです。そして、今日の箇所はまさにガリラヤから始まる彼らの再出発の物語なのです。

さて、ペトロら7人の弟子たちはティベリアス湖で漁をしたが、その日は何もとれなかった、と記されています。
ペトロやゼベタイの兄弟らはイエスさまの弟子になる前は漁師でした。イエスさまがいなくなってしまい、食べて行くため、その仕事に戻っていたとも考えられますが定かではありません。ただ単に、お腹を満たすために漁に出たのかも知れません。ともかく元漁師であった彼らをしてもその夜は1匹すら捕れなかったのです。

そうして、既に夜が明けた頃、復活の主イエスが向こう岸に立っておられました。けれども弟子たちはそれがイエスさまだと分からなかった、とあります。イエスさまが「何か食べ物があるか」とお尋ねになると、彼らは「ありません」と答えたので、イエスさまは弟子たちに、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と言われます。そこで弟子たちがそのとおり「そこで網を打ってみると、魚ふぁあまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」大漁になったというのですね。

この大漁のしるしを見たイエスの愛しておられた弟子のヨハネは、ある記憶がよみがえります。(ルカ5:9)それはペトロはじめ、漁師であった彼らがイエスさまに従っていくことになった時のことです。その時もイエスさまの言われる通り、網を降ろすと舟が傾くほど大漁になったのです。漁師であった彼らが主イエスに弟子として従っていくことになった時のことです。(ルカ5:1-11)彼は向こう岸へ立つお方はイエスさまだ!といち早く気づくのです。ヨハネからそれを聞いたペトロは、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」とありますね。

私はこのペトロが湖に飛び込んだ場面を何度も読んできました。これまでペトロのとった行動は、「主だと聞いて」一刻も早く主のもとに向かおうとする純粋な姿だと思ってきました。それはかつて海の上を歩いて来られたイエスさまを見て、ペトロが水の上を歩いてイエスさまの方へ進むも、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた、とい記事(マタイ14:22-33)が印象深く、ここと重なっていたせいもあるのでしょう。
しかし、よくよく考えてみますと、何でペトロは水に飛び込むのに、わざわざ上着をまとったんでしょう。普通は脱いで飛び込みますよね。そんな彼の慌てふためく姿の中に、イエスを3度も否んだ罪を恥じ、主の前で何とか体裁をととのえようとし必死になっていたんだなあ、と今回気づきました。

イエスさまはそんなペトロたちの弱さや心情をすべてご存じだったんですね。
陸に上がってきた弟子たちをほんとうに暖かくお迎になる様子がここに記されています。彼らが陸に上がってみると、夜通しの漁で冷えた体を暖める炭火が起こしてあり、その上に魚が焼かれていました。パンまで添えてありました。そのすべてをイエスさまが準備され、弟子たちを待っていてくださったのです。

主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招き、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」
この光景はかつてイエスさまが5つのパンと2匹の魚を5千人にお与えになったヨハネ6章の場面を思い起こさせますが。ここでもイエスさまは自ら弟子たち一人ひとりにパンを割き、与え、彼ら一人ひとりの必要を満たしてくださるのですね。
このイエスさまの愛。私たちの主は、たとえ私が、どうしたってとり繕いようもない者であったとしても、このように愛し、何度でも迎え励ましてくださるお方なのですね。そんなイエスさまの愛と許しが骨身にしみたのは、他ならぬペトロであったでしょう。彼はイエスさまが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」とおっしゃると、真っ先にお言葉どおり舟に乗り込んで網を陸に引き上げます。すると、「153匹もの大きな魚でいっぱいであった」というのです。
 それを見た時、7人の弟子たちはほんとうに知ったのではないでしょうか。「ああ私は、主イエスがいなければ魚一匹すら捕ることもできない。」それはこの後、彼らが主イエスの救いと祝福を伝えて行く中で何度も直面する無力さです。人が人を救うなんてできることではありません。身近な人でさえその心を変えることは人にはできません。結局は主に祈るしかない無力をおぼえます。そんな時こそ、主のおっしゃる言葉に望みをおき、従っていく。そこに私たちは主の栄光を拝することが起こされていくのですね。

先程、信仰告白をされてバプテスマをお受けになられたKさんの新しい歩みは今日からスタートしました。初めからこう言うのも何ですが、クリスチャンになれば悩みや苦しみは問題が無くなるとは限りません。これからもいろんな出来事が起こることでしょうが、大切なのは、どんな時も主イエスが必ず共にいて、乗り越えることが出来るように見守っておられるということです。様々な体験がいつか証に変えられていく時が来ます、今日もまさにそうでありますけれども。その深い「私個人」の希望と喜びが、「私たち」の希望と喜びとして分かち合われていく、ここにキリストの教会のゆたかさがあります。

キリストの教会に足を運んでそこに身をおくことによって、目には見えない力や働きを感じ、いやされ、平安が与えられる。それは主イエスが生きてお働きになっておられるからです。主イエスは肉眼では見ることはできませんが、主イエスを信じ、仰いで生きる人たちの間に神の憐れみと恵みをもって生き生きと働かれるのです。

聖霊は召し集められたキリストの教会、エクレシアに神の愛の力を注ぎ、その一人ひとりをその神の証し人としてお遣わしになります。主イエスは、弟子たちに食卓の準備をして招かれたように、私たち一人ひとりをもその主の食卓へと招いてくださっています。
十字架の御業という尊い犠牲によって、私たち一人ひとりが主のご愛いっぱいに満たされるように主は今日も待っておられます。主のご愛でいっぱいにされた者は又、その恵みと喜びとともに霊の食卓の準備をする者とされていくでしょう。イエスさまの愛を分ち合う喜びを知るからです。イースターおめでとうございます。主にあって今日新しく生まれ変った河さんとご一緒に、このイースターから新しい歩みをスタートいたしましょう。
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