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御言葉による回復

2015-11-22 15:51:04 | メッセージ
宣教 エレミヤ32章6節-15節

本日はエレミヤ書32章より「御言葉による回復」と題し、御言葉を聞いていきます。
この時すでにユダの都エルサレムはバビロンの王ネブカドレツァルの軍隊に包囲され、今日のアナトトなどの周囲の地域も日に日にバビロンの支配下におかれていくような危機的状況にありました。3節に記されているように、エレミヤの再三に亘る警告をユダのゼデキヤ王は聞く耳をもたず、それどころか国に不利益をもたらすような預言をしてはならないとエレミヤを拘留します。今日のエピソードはその拘留されたエレミヤに「主の言葉が臨んだ」そのところから始まります。

① 「御言葉を聞く」ということ。
それは「いとこのハナムエルが訪ねて来て『わたしの畑を買取って下さい。あなたが親族として買い取り所有する権利があるのです』と言うであろう」というそのような御言葉がエレミヤに臨むのです。
そうしたところが8節にありますように、「主の言葉どおり」エレミヤのもとにいとこのハナムエルが訪ねて来て、主がおっしゃった事と同様の言葉を口にするのです。それは今にもバビロンに攻め込まれ、その支配下に移ろうとしている土地を買い取って欲しいという常識では全く受け入れ難い要求でした。
しかしエレミヤは9節の前にありますように、「これが主の言葉によることを知っていた」のです。そのことによってエレミヤはこれが主の言葉から出た事であるとの確信をもってハナムエルの申し出を受け入れるのです。

私たちもまた、エレミヤのように「聞いていた御言葉」が実際の生活の中でほんとうに生きた言葉として「ああ今まさに私に必要な言葉だ」とそのように響いてくることがあるでしょう。又「あの時聞いた御言葉が今生きている」。さらには「今の私の信仰にチャレンジを与えている」。そのお感じになることもあるのではないでしょうか。そういった御言葉のダイナミックな生きた働きを日々体験するためには、むろん日々の祈りと礼拝をはじめ聖書を読み御言葉に親しむことが不可欠です。
エレミヤが主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対していたからです。人からは理解されず反感を買う中でも、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でさえも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも執り成した人であった。そう言う神さまとの関係性の中で、主は彼に生きた御言葉をお与えになるのですね。彼は15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
涙の預言者と言われたエレミヤのその心の思いをほんとうによく表している言葉でありましょう。
繰り返すようですが、エレミヤが「前もって御言葉を聞いた」のは、彼が獄舎に拘留されていた時でした。それは苦難の時、試練の時でありました。国は滅びに向かいつつあり、この先どうなるのか見えないような状況の時でした。そういう中でもエレミヤは主と相対して今日のエピソードのように御言葉の確信をもって行動を起こしたのです。

水曜夜の祈祷会で今新約聖書の書簡(手紙)を読んでいるのですが、そこから改めて教えられるのは、クリスチャンであってもなお降りかかってくる悩みや苦しみの中でなお祈り、望み、信じ続けることの重要性です。
私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にも、決して落胆せず共に祈り続けること、共に信じ望み続ける、そのような中で主イエスの救いの奥義を教えられ、十字架と復活の生ける主が共におられることに気づかされます。それは自分の力が尽き、もうどうすることもできないお手上げになったところから、生ける御言葉と、そこに働いておられる主の御手の業を知らされるのですね。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主に応答しなければ、生きた関係性をもたなければ何も始まりませんし、何も起こりません。クリスチャンであっても自分の状態が安定し順調な時というのは、なかなか主と必死に向き合うということをしないものです。ある意味自分が追い込まれなければ主に必死に向き合うようなことはいたしません。とてもこの心は頑な者です。自分の世界に自信をもち、自分の力で何もかもできるかのように考えている間は、せっかく主がお語りになっていてもそれをキャッチできないし、御言葉の命を組み出すことができません。むしろ苦難の中でこそ、御言葉がほんとうに人を生かす力の源であることを知って、エレミヤがむさぼり食べたように、聖書の言葉を読み、主に聞き従っていく中で、私たちも主の御業を体験し、何にも代えがたい恵みに与ることができるのです。私たちの神さまは生きておられ、私たちといつも対話してくださるお方です。神さまは祈り求める者に生きた御言葉をお与えになり、御言葉に聞き従い行く者に、その事実を仰がせて下さるお方であります。

② 「主の言葉を行う」こと。
さて、「いとこのハナムエルの来訪と畑の買い取りの要請」を受けたエレミヤは、「わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シュケルを量って支払った」とあります。
先にも言いましたように、一般常識から見れば、いくら親戚から頼まれたとしても、エレサレムが陥落寸前でユダの国の存続さえ危ういその状況下で、なかばバビロンに差し押さえられたも同然の土地を買い取るような人などいません。この危機的状況に及んで土地の売買などして何の意味があるでしょう。周りの人たちもどうしてそんな無駄なことをするのか、とけげんに思ったのではないでしょうか。お人よしにも程があると笑う者もいたかも知れません。
一方、危機に直面して畑を売ろうとしているハナムエルの行動の方が人々にはむしろ賢明に映ったのではないでしょうか。
しかし、エレミヤはそれが主のご計画のうちにあることを確信していました。御言葉に従うことが後々ユダの人々の希望となり、主の救いの証しに変えられていくことと信じ、望み、行動を起こすのです。彼は獄舎に拘留されている身であるにも拘わらず、なおかつそれが自分にとって不利益なものとなっても主のご計画に信頼して行動を起こすのです。このように御言葉への信頼は具体的行動に結びつくことで証明されます。

そこで、エレミヤはいとこのハナムエルと土地の売買契約をわざわざ当時の法的手続きに則って行います。古代のパレスチナにおいて土地の売買の際には2通の契約書を作成し、原本となる購入証書は封印され、永久に保存するためかめに入れて、土の中に保存した。写しの証書は封印されず購入者が所持したということで、ここではエレミヤの購入証書の写しは彼の友人であり書記官であったバルクに保存させたようですが。その売買過程で契約が成立するためには、3人の証人が必要とされたそうです。まあ、そのようにこの土地売買の契約は当時の法的手続きに則って行われ、さらにその場には獄舎にいたユダの人々全員もおりそれを見ていたとありますことから、それがある意味公的に行われたということですね。
そしてその人々が見ている前でエレミヤはバルクにこう命じます。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
 この御言葉によってそこに集められたユダの人々のうちに神さまの約束の言葉、希望の言葉が植えつけられるのです。それは艱難の暗い時代のともしびとなり、来るべき解放の日には神さまの約束の実現として祝われることとなっていくのです。
37‐42節にはエレミヤに臨んだ主の御言葉が次のように語られています。
「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない、またわたしに従う心を与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。
今日のお話は、土地の売買という現実の生活と密着したものが題材になっております。
先程子どもメッセージで話されていたように、戦争という事態で「すべてが無駄になりそうな時代の中にあっても、エレミヤは国が平和だった時と同じように、神さまの律法に定められたとおりのことを行った人であった」のですね。

今日の世界をとりまく状況、この日本もまた、まさに聖書の御言葉に記されてありますとおり、「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態が生じておりますけれども、エレミヤがたとえ周囲の人々には理解されず、苦難を受けるようなことがあっても、「生ける主の言葉に聞き、それを行って」主の解放と回復の計画を指し示していったように、私たちもまた、希望をもっていのちの御言葉の救いと真理を掲げ続ける者とされてまいりましょう。
祈ります。
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