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新しい契約

2015-11-15 14:17:03 | メッセージ
宣教 エレミヤ31章

今日はエレミヤ書31章から「新しい契約」と題し、御言葉を聞いていきます。
2年前にもこのところから、同じ宣教題で実はお話していたということを先週の水曜日にある方から知らされ、また同じ題をつけてしまったんですね。その時のお話と今日とは時間的にも経過しており、又御言葉の受けとり方も少し変っています点についてお話できたらと思います。

まず、「新しい契約」ということについてですが、これを一事でいえば「新約聖書」の新約のことを表しています。先日ある方が、旧約聖書と新約聖書の違いについて、カトリック教会が旧約聖書を聖典とし、プロテスタント教会は新約聖書を聖典としているんですか、とお尋ねになられたのです。以前にも同様の質問を受けたことがありますが。「旧約」とは今日の箇所でも記されているとおり、出エジプト以来神とイスラエルの民とが結んだ契約であり、それは「モーセの十戒」を柱とする律法を守り行うことによって与えられる神と人の契約のことですね。新約は旧約聖書に預言されたメシヤ・救世主イエス・キリストによる救いの新しい契約です。私たちプロテスタントも又カトリックもキリスト教会では、その「旧約」と「新約」とが2つ揃って「聖書」なんです。旧約だけでは聖書ではないし、逆に新約だけでも聖書ではありません。神は旧約と新約に一貫して働いておられると、そう信じているのです。

本日のエレミヤ書31章には、その契約による救いを与えたもう「神さまの特性」というべきものを読み取ることができます。
それは第1に「神の愛(憐れみ)」についてであります。
31章3節に、神がイスラエルとユダについてエレミヤに語られた言葉ですがこう記されています。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節には、神がエフライム(これはイスラエルのことですが)、そのエフライムに向けて「エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる」とおっしゃるのですね。
 ここには、神さまのイスラエルとユダの民に対する熱情ともいえる愛が一貫して語られています。それはそもそも申命記の7章6‐8節のところにあるとおり、神さまがイスラエルの民を「神の宝の民」とされたそこに原点があるのです。何度もこの箇所を礼拝で引用し耳にタコができたという方もおられるかも知れませんが、非常に大事な御言葉ですのでお聞き下さい。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。
この「主の愛」とあります「愛」はヘブル語で「ヘセド」;腸(はらわた)がちぎれるほどの思い(断腸の思い)をもってという事です。先のイスラエルとユダの民に向けて語られたとおり、時は流れ人は変り罪が増しても、神さまは3節「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」20節「彼のゆえに、胸は高鳴り(断腸の思い)で、わたしは彼を憐れまずにいられない」と一貫して民を見守っておられるのです。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもと神さまのこのヘセドの愛、腸がちぎれるような熱情ともいえる深い愛と憐れみを受けているのです。それは私たちが何か救われるに十分な能力や資格があったからというのではなく、20節にあるとおり、ただ、その主の愛のゆえに、父がその子を憐れむそのヘセドの愛をもって、救いを必要とする私たち一人ひとりを贖い、導いておられるのです。

神さまの特性というべき第2の点は、神さまが「見張り(見守り)続けられる神である」ということです。この「見張る」の原語は「見守る」とも訳せます。
28節にこう記されています。「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
 神さまはその民が預言者を通してなされた警告に聞くことなく、滅びに向かうその姿を断腸の思いもって「立ち返って命を得よ」と切に願いながら、ずっと見守り続けておられたのですね。けれどもそんな神さまの御心とは裏腹に、民は神のご計画を拒み、自ら崩壊への道へ落ちていくのであります。どんなに神さまの心は痛んだことでしょう。それでもなお神さまはイスラエルとユダの民に望みをかけ、その後もなおずっと見守り続けられたのです。
イスラエルとユダの完全な崩壊と確かに人の目では何もかもが終わったように見えました。けれどもそれがすべての終わりではなかったのです。そのような闇のような時代においても、神さまはイスラエルとユダの民を見捨てることなく、見守り続けておられたのです。それは、これらのことを通して後に実現する「新しい契約の日」、その日に向け、すなわち28節にありますように「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるんですね。そうなんです、神さまは決して民から目を離されません。彼らがどのような状況にあっても、たとえ悲惨な、打ち捨てられたような状況にあっても、神さまは決して見捨てることなく、見守り続けておられるのです。

ほんとうに移ろいやすく不確かな自分をどこまでも見守り続けてくださる神さまの存在に心から気づいた人は、その神さまに向きを変えて立ち返って生きるようになるでしょう。もはや先祖に罪の責任を問うことなく、自らが神の前にあってどのように生きていくかを考えるようになるでしょう。
29節には「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』とあります。
この言葉は昔からの言い伝えのようですが。日本でも自分にふりかかる災は先祖のたたりだからと言われたりいたします。災いに遭い弱気になった人の心に着け入り、お祓いや壺を押しつけて多額の請求をするような財霊感商法が後を絶ちません。
神さまは、先祖が悪いことをしたとしても、それはその人自身の罪であってその罰(ばち)を子孫である者たちに負わせることはない、と言われているのです。それは預言者エゼキエル書も同様、バビロンの捕囚の民に向けて18章3節以降で「お前たちはイスラエルにおいてこのことわざを二度と口にすることはない。すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も同様にわたしのものである。罪を犯した者その人が死ぬ」と、その罪の代償としての審きの責任はその人自身にあることを強調しています。
捕囚の民の中にも、自分たちがこのような目に遭うのは先祖の罪が自分たちにふりかかったのだろうか、とそのように考える人たちもいたようです。
けれども、問題は先祖にあるのではなく、自らが滅びの道から立ち返って生きよ、との警告に反して耳ざわりのよい偽りの平安や平和に身をゆだね、身勝手に歩んでいった末に今の事態を招いた。その事に気づかずにいた、そこに問題があったのです。先祖にではなく神さまと自分自身との関係が問われているのです。

翻って、主によって贖いとられ救われた私ども又、主の見守りの中で、この主との一対一の信頼関係を絶えず築いて生きていくことこそ、新しい契約にあずかる者の生き方なのです。まさに「今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は(私たちに対して)言われている」のであります。

さて、神さまの特性の3番目は「人の心に働きかけ、人を新しく創造してくださるお方」だということです。31-33節にはこのようにあります。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。

エジプトから導き出された時の契約とは、始めに申しあげたとおり十戒の律法に基づくものでした。出エジプト19章5節~6節で、神さまは「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」とおっしゃっているんですね。しかし、これに反してイスラエルの民は、その神との契約を軽んじ神に逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に聞く耳を持たず、罪を犯し続け、契約における祝福は損なわれて遂にユダの国は崩壊し、捕囚の民となってしまうのです。

それにも拘わらず神さまは、そのイスラエルとユダの家に「新しい契約」を結ぶ日が来る、と約束されるのですね。その新しい契約とはどのようなものでしょうか。
それについて神さまは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言われています。
それは「神さま御自身が直接的に人の心に働きかけ、神に信頼し従う愛と意志を人々のうちに起こさせる」というのです。エゼキエル書36章26節にはこのように記されています。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」
この後ユダの捕囚とされた人々はその苦難を通して真に神に立ち返り、やがて神の宝の民としての復興のときを迎えます。
しかしここに記された約束が完全な形で実現されたのはそれからさらに数百年後のことであります。その時、神さま自ら人の心に働きかけ、新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心をお与え下さる。それはまさに私どもにとりまして主イエス・キリストご自身であります。主自ら私たちの心に働きかけ、新しい霊、すなわち聖霊をもって私たちから石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、神に信頼し従う意志と愛を与えてくださっているのです。

34節「そのとき、人々は隣人どうし。兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
いくら熱心に律法を守り、知識を得たとしても、神さまとの命の交わり、生きた関係が築かれなければ意味はありません。人の名刺を見ても、実際その人を知らなければ関係性が起こらないと同様、どんなに「主よ、主よ」と言っても、実際に生きた神さまとの関わりがないのならそれは死んだ信仰といえます。
大切なのは、神ご自身がイエス・キリストという肉の姿をとってこの地上においでになり、直接働きかけて私たちの心のうちに「主を知る」聖霊をおいてくださっている事実であり、私たちから石の心を取り除き、主に喜び従う愛でいっぱいに満たしてくださっているその恵みであります。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側の働きと導き、聖霊のお取り扱いによるものなのであります。そういう「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信を戴き、その信仰の体験によって私たちは日々新しく創造されていくのですね。
神の霊にとらえられた人は益々謙虚にされ、心が神さまによって開かれているがゆえに、神さまのなさる御業やお働きをしなやかに、又敏感に察知でき、神さまの働きに関わることができるのです。この生きておられる神さまとの関係こそ、「新しい契約」の本質なのであります。

最後の34節で、主は「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われています。この言葉は簡単に読み過ごされそうですが、とても大事なことです。
そもそも、イスラエルの民はシナイの旧い契約を自ら破って滅ぶしかなかったのであります。それにも拘わらず、神さまはその民が滅びゆくことが耐え難かったために、その罪深い民と今度は新しい契約を結ばれたのです。これまで御言葉を辿ってきたとおりですが。それはまさに、神の側が人の側に近づき、人のあるがままを引き受けてくださった、ということであります。そこにこの旧約聖書において新約聖書さながらの神さまのご性質が示されております。
今や完全なかたちで顕わされた「新しい契約」は、まさに神の御子イエス・キリストが人の罪を引き受け担われて、十字架の上で流された血汐によって与えられる罪の贖いと赦しになのです。主の晩餐の折に、いつも「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とⅠコリント11章25節が読まれますよね。
この新しく結ばれた契約は、以前の契約と違って、人の罪と弱さによって破棄されることはありません。そこに如何なる犠牲と傷みが払われたかを、私たちは決して忘れてはなりません。日々、聖霊が私たちの胸の中に主の愛と恵みを授けてくださっていることを覚えつつ、私たちの心に記された命の御言葉を生き、証しとなる者とされていきましょう。そこに新しい契約に与った私たちの道があります。
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