日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神を知る心

2015-11-02 12:01:43 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ24章  

今日はいつもの席にパワーポイントのご奉仕をずっと担って下さっていたHさんのお姿をこの目で見ることはできませ。先週の月曜日は病床でバプテスマをお受けになったYさんの告別式でした。私はそのすべてを終え帰宅して夕食でも頂こうとしていた時、玄関のチャイムがなりました。Hさんの訪問ヘルパーの方がその方の訃報を知らせてくださったのです。その前の週の水曜日の夜の祈祷会ではお元気そうでしたし、にわかに信じ難く頭が真っ白になりました。2年前のバプテスマにおいて彼のそのお証しをお聞きになった方は、華やかな元プロカメラマンであった彼がその人生半ばにおいて挫折しどれほど厳しい状況を生きて来られたかご存じでしょう。そのような中でキリストの救いを見出された兄弟ですが、病は重く、加えて闘病中のお母さまへのご心配はいつも兄弟の祈りの課題でした。人には想像もつかないような苦労を抱えつつ、毎週の礼拝とご奉仕、祈り会と賛美の集会に欠かさず出席なさった兄弟。また、まれこれ1年ほど前になるでしょうか。毎週木曜日には我が家の子どもの家庭教師としてお越しになり、ささやかな夕ご飯の食卓を囲みました。
週に4日間ほんとうに神の家族との交わりを中心に、彼の生活はあったのです。その彼が天に召されたことは確かに突然で衝撃的でありましたけれども、神さまは3つの奇跡を起こしてそれを見せてくださったのです。一つは、先程も触れましたが、訪問ヘルパーの方の知らせです。もしこの方の知らせがなかったなら彼がどうなっていたか知らずにいたでしょうし、その後についても想像がつきません。彼は普段からヘルパーさんに自分が教会に自分が行っていること話していたそうで、そのことを知って教会に知らせにきてくださったのです。二つ目は、これも天に召される前の水曜日に、2年近く大阪教会に来られていなかった姉妹がその夜の祈祷会に突然来られたのです。この方はいつもHさんから大阪教会に来るようにいわれていたようですが。耳を傾けることなくすましていたそうですが、何か不思議にその水曜日には行こうと言う思いが起こったそうです。その祈祷会後はバザーの炊き込みご飯をみんなで食べたんですね。これが彼との最後の祈祷会、愛餐となりました。そして三つ目は、私と連れ合いが彼のお葬儀のことでお母さん家を訪問してお話をした時のことです。彼のお母さんは重い病気を抱えておられ歩くのも杖を持ってやっという状態で、お友達の方がいつもお世話をされ、その日もお母さんのそばにそのお友達の方がついておられて、私どもに「お話はありがたいですけど、福祉の方にお葬儀は全部お願いしていますので、お断りします」と再三にわたっていわれたのですね。福祉で葬儀をするというのは仏式で行うということです。それでもあきらめきれず、「お母さん。息子さんはクリスチャンとなって現在教会の礼拝や祈祷会に毎週来られご奉仕をされ、いつもお母さんのご病気がいやされるようにと神さまに祈っておられます。その信じるところに沿うかたちのキリスト教のお葬儀で送ってあげることを、ご本人もきっと望んでおられるのではないでしょうか」と、そういう言葉が私の口から自然に出たんですね。するとお母さんのお隣にいらしたお友達の方が、息子さんのお母さんに向かって「私の思いを言っていいかなあ。私だったら息子が一番願っていることをしてあげたいと思う。お話を聞いて初めて、息子さんが教会によく通い、奉仕をされているその様子が私には分かりました」といわれたんですね。するとお母さんの方も、「そうやね、それならぜひ息子のお葬儀の方お願いします」と私たちに頼まれたんです。その時、神の手が動いたと強く感じました。この3つのお話に共通していたのは、普段からHさんが大阪教会に通っておられることをヘルパーさん、教会に戻ってこられた姉妹、それとお母さんにはっきりと伝え、話をしておられたことです。そこに神の手は確かに動き、豊かに働かれたのです。Hさんは大変寡黙な人でしたが、苦労を知っている人だけが持ち得る深い暖かみかもした人でした。「主は打ち砕かれた魂に近くにおられる」、そのことを実感させてくれる人でした。その最期まで神さまに忠実に聞き、仕え、神の家族の交わりにご自分の魂の居場所を得て、主の救いのうちに日々を過ごしてこられたと、私は信じます。

本日はエレミヤ書24章の「良いいちじくと悪いいちじく」のたとえの預言から、「神を知る心」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

1節にあるように、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨアキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後に、神さまはエレミヤに幻を示されました。
それは2つの籠に入れられたいちじくの幻でした。それぞれの籠には、「非常に良いいちじく」と「非常に悪いいちじく」が入っていました。
「エレミヤよ何が見えるか」そう問われたエレミヤは、そのいちじくを見て答えます。「良い方のいちじくは非常に良いものですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」

すると神さまは、バビロンの捕囚となって連行されていった人々を良いいちじくと見なし、一方の、エレサレムに残されたユダの人々を非常に悪くて食べられないいちじくのようにする、とおっしゃるのです。

神さまは捕囚とされた方のユダの人々に向けて5節で、「わたしは彼らをこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」そのように宣言されるのですが。
しかし、それは彼らが何か残されたユダの人々より勝っていたからということではないんですね。彼らも又、神の預言に耳を傾けようとはしなかったのです。ですから、ここに「良いいちじくのように見なす」とあります。それは、やがていつの日か本当に彼らが良いいちじくのようになる日が来る、そういう期待が込められているのですね。
神の都、エルサレムからひきはがされるようにバビロンの地へ連行された人々が、みじめで、苦しく、厳しい状況の中で、自分たちの犯した罪、その過ちに気付き、真の神を知る心を、与えられていくのです。エレミヤが見た良いいちじくの実を結ぶ者とされていくのですね。彼らは遠い異国の地、異教の偶像が祀られるその捕囚の地のただ中で、深い悔改めと真心をもってその神のもとに立ち返るように導かれます。
6節に「彼らをこの地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない」とあるとおり、そうして建てられた信仰は、70年間といわれる長い捕囚の生活においても、決して打ち倒されることはありませんでした。やがては時が満ち、真心をもって約束の地に帰還する彼らを、主は再びその地に植えつけ、ご自身の民となさるのであります。この捕囚とされた子孫らがイスラエルの国家の再建と神の生きた言葉である旧約聖書の編纂を手掛けていくことになるのですね。こうした長い苦難の日々を通して主を知る心を与えられ、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神になる」という預言が実現されていくのです。

一方、エルサレムに残されたユダの人々ですが。彼らは「捕囚とされた人々に比べれば自分たちは災いに遭う事なく守られた。自分たちは正しかったから祝福されたのだ。捕囚とされた人たちは罪深かったから災いに遭ったのだ」と、安心しきっていました。悔改めて神に立ち帰るどころか、諸外国の忌むべき行いに倣い、罪を犯し続けたのです。彼らの目に見えるところで判断すれば、災に遭わずにすむというのは、神の祝福のように思います。しかしむしろ悔改める機会を得ることがないというのは非常に危険なことなんですね。エレミヤはエルサレムに残り、なお聞く耳をもたないユダの人々に神の御心を伝え続けましたが。バビロンの軍隊がエルサレムを完全に包囲してエルサレムの神殿は崩壊し、ユダは陥落してしまうのです。エレミヤの預言を最後までかたくなに拒んだゼデキヤ王は大きな傷を負い、捕虜としてバビロンに連行されていきます。

そのように、エレミヤはエルサレムが完全に陥落する時迄、神の御心に対して聞く耳をもたない、悪い、食べられないしなびれたいちじくのようなユダの人々に向かって「神の言葉に立ち帰って生きよ。そうでなければ滅びを招くことになる」と訴え続けたのですね。ここに悲しみの預言者といわれるエレミヤの所以を伺い知ることができますけれども。
今日のこの箇所を読み、考えさせられますのは、エルサレムに残ったゼデキヤ王をはじめ高官、ユダの民は大きな思い違いをしていたということであります。「捕囚とされた同胞は罪があった、落ち度があった、だから災いに遭った、自分たちは正しいから守られている」というおごり高ぶりがあったということです。
そのような彼らの心を神さまはすべて見通しておられました。
もし、この後、ユダに残った民が、悔改め、エレミヤの告げる主の言葉をまっすぐに受け入れ、神を知る心を持つことができたのなら、「主の御手にある」真の揺るがぬ平安を得たことでしょう。
私たちはどうでしょう。先の良いいちじくのたとえのように、苦難の中で神さまを見出し、真の意味で信仰者として建てられ、神の民とされていくのか。あるいはしなびてもはや食べることのできないいちじくのように、立ち返って神の前に生きることに鈍感になってはいないか、本当に問われます。

最後に、今日は「神を知る心」と題して、御言葉を聞いてきました。私たちの人生にも順調に行っているように思える時、又、苦境に立たされる時がございます。それぞれの日常にあっても、お仕事又育児等で、今、日々追われるよう慌ただしくひと日ひと日を過ごしている方もおられるでしょう。又、社会の一線を退かれて、時間を与えられている方もいるでしょう。あるいは病と向きあいながら、しんどい療養の日々を過ごしている方もいるでしょう。ほんとうに様々でありますけれども。大切な事は、私たちが、どのような時も、どんな状況であっても、私の心が神さまと向き合っているかどうかということです。よく汐満姉が特伝講師であられた松村先生でしたか、「心のチャンネル神さまに合わせましょう」ということおっしゃいますが、そうです。そのようにいつも主に向かって祈り求め、信仰の確認をしていくことを怠ってはならないということであります。
私たちは目に見えるところだけで明日の事を判断することはできません。ほんとうにいつ、何が起こるか私たちには分かりません。だからこそ、与えられた出会いと、その時その時を大事に、丁寧に、主の言葉に聞きながら生きて行く。教会の礼拝や祈祷会のみならず、すべての生活の全領域において、神を知る心をもって一日一日を歩む。そこに本物の平安が与えられていくのですね。神の霊が、ご聖霊が、私たちの内に臨み、神を知ることの豊かな実りが与えられますよう、祈り求めながら努めてまいりましょう。
ゆたかな柔らかな心でいられるように、主を喜び、主に祈りながら、また新しい11月と今週を歩んでまいりましょう。
最後に7節をお読みして宣教を閉じます。
「そしてわたしは、わったしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」
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