宣教 マタイ1章18節~24節 待降節Ⅲ
全世界に与えられた救いの主イエス・キリストの先立ちと守りを戴き、アドヴェント第三週の礼拝に臨むことができました幸いを感謝します。本日は衆議院議員の選挙と最高裁判事の信任を決める投票日です。先週も申しあげましたとおり、日本は今、いのちと平和、経済や社会の問題など大きな曲がり角といいますか、分岐点に立っております。私どもはキリスト者として聖書が示す神の御言葉と戒めを基に、祈りをもって与えられている参政権を行使いたしましょう。
今年も早いもので残り半月となりました。特にこの師走と呼ばれる12月は一年で最も日照時間が短い月で、日の過ぎるのが大変早く感じられます。このような年末にさしかかり慌ただしい中、アドヴェント、そしてクリスマスが訪れるというのは、そういう時こそ静まり、心の耳を澄まして御言葉に聞き、祈って備えていくように、ということがあるのでしょう。このアドヴェントは「救い主を迎え入れる」という喜びの希望に与る時であります。それはヨセフが妻マリアを迎え入れることによって実現しました。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。そのようにこのアドヴェントに求められていることは、神さまの御心に聞き、「迎え入れていく」ということです。そこには大いなる聖霊の力が働いてくださいます。
本日の箇所の冒頭に、「イエス・キリストの誕生の次第について」という記述がなされていますとおり、ここには神の御子イエス・キリストの誕生、すなわち神の救いの到来についてのエピソードが綴られています。神の御子、メシアの到来ですから、何か華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょうが。何とその「母マリアがヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」というのであります。自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなにか失望させたことでしょう。
けれども驚くべき現実を前に、ヨセフは神を畏れ敬う正しい人でありました。そして思い悩んだ末、ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」いたします。そこにはヨセフの正しさだけではなく計算も読み取れます。
彼は律法の規定に従いマリアを訴えることがきましたけれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになります。又公に、身重のマリアを妻に迎えることもできません。それは律法に反することでした。この二つの道の板挟みの中で彼が考えたのは、とりあえずマリアと胎の子の生命が守られ、さらに律法に反しないために、ひそかにマリアと縁を切るということでした。この方法がマリアと胎の子のいのちを守り、さらに律法に反することにならない賢明な道だと自分に言い聞かせるようにしてヨセフは心に決めたのでしょう。
ところが、であります。ヨセフが「このように考えていると、主の天使がヨセフに現れて言います。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」と言った、というのですね。
ここで天使は5つのことをヨセフに示します。
第一は、「ヨセフがまぎれもなくダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、彼がイエスの法的父親であるということです。
第二は、「恐れずマリアを妻に迎えよ」という奨めであります。このことは後で触れます。
第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」ということです。これはイエスが歴史的にダビデの家系に属する者であるだけでなく、イエスは聖霊によって生まれた神の子であるということです。
第四は、「その子にイエスと名付けよ」ということです。イエスという名は、この時代よく付けられたポピュラーな名前でありましたが。ヘブライ語で「イェシュア」、旧約聖書のヨシュアと同じで、それは「神は救い」という意味があるのです。私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、神の救いを求めることであり、それはあの「十字架の救いの御業」をとおしてもたらされたものであることを知っています。
第五は、まさしく「その子は自分の民を罪から救う」という約束であります。これはダビデの子であり、聖霊によって生まれる神の子、まことの人間にして神聖なる主イエスこそ、すべての人間を罪の縄目から解放し、救うお方であられる、という宣言であります。
これらの啓示によって、主の天使はヨセフに第三ともいえる新しい道を示します。
それはマリアを断罪するという律法的な道でも、又マリアとひそかに縁を切るという人間的善意の道でもありません。それは、主の御心とそのご計画を受け入れ、従っていく道であります。マリアを妻として迎え入れ、その出来事もろとも引き受けて生きる。重ねて申しますが、それは当時の常識には全くあてはまらない、社会的に受け入れられず、信用を全てなくしてしまうような事でした。
それにも拘らず、どうしてヨセフはそのような決断ができたのでしょうか。非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。ほんとうに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに、主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中にあることだったのです。「そうだ、自分は独りじゃないんだ、主なる神さまが共におられ、導いてくださる。」インマヌエル、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼はその生きるべき道をあゆみ出したのです。
私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤があるものです。ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考え方でのみ解決の道を探ろうといたします。人の計算や思考によって計ったり、よかれと思ったりします。そんな時にはえてして過ちを犯すことがあるかも知れません。又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくすることもあるかも知れません。何が主の御心であるか。「知る力と見抜く力を見につけなさい」と聖書にありますが。御心を知ってそれに従っていくことがほんとうに大切であります。けれども人にはそれがなかなか分からない。またその力もありません。だからこそ、聖霊の力、御霊の導きが必要なのです。主イエスは「それを求めなさい。願いなさい」と何度もお語りになりました。聖霊不在の教会に真の希望はありません。私たちはどこまでも、神の国と神の義を、聖霊の導きによって求めていかなければなりません。そこにこそ真の希望があるからです。そこから本物の、人を思いやる優しさも配慮も生まれてくるのであります。
皆様はその信仰のあゆみにおいて、あるいは教会でも問題と感じること、課題と思えることがおありかも知れません。けれどもこのことを通して、やはり主への信仰が、自分のたち位置が問われ、正され、そしてまっすぐに主を見上げていくようにと導かれているのです。そういう気づきを与えられる。だから教会、兄弟姉妹の交わりは賜物なのですね。
そして、何よりも私たちは、ローマ8章26節に記されていますように、「御霊が弱いわたしたちを助けてくださり、わたしたちがどのように祈るべきか知らない折にも、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
そのようなインマヌエルの主が共にいてくださるのです。この教会にも聖霊が豊かに働いてくださるように、心を合わせて、祈り支え合う私たちとされていきましょう。
全世界に与えられた救いの主イエス・キリストの先立ちと守りを戴き、アドヴェント第三週の礼拝に臨むことができました幸いを感謝します。本日は衆議院議員の選挙と最高裁判事の信任を決める投票日です。先週も申しあげましたとおり、日本は今、いのちと平和、経済や社会の問題など大きな曲がり角といいますか、分岐点に立っております。私どもはキリスト者として聖書が示す神の御言葉と戒めを基に、祈りをもって与えられている参政権を行使いたしましょう。
今年も早いもので残り半月となりました。特にこの師走と呼ばれる12月は一年で最も日照時間が短い月で、日の過ぎるのが大変早く感じられます。このような年末にさしかかり慌ただしい中、アドヴェント、そしてクリスマスが訪れるというのは、そういう時こそ静まり、心の耳を澄まして御言葉に聞き、祈って備えていくように、ということがあるのでしょう。このアドヴェントは「救い主を迎え入れる」という喜びの希望に与る時であります。それはヨセフが妻マリアを迎え入れることによって実現しました。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。そのようにこのアドヴェントに求められていることは、神さまの御心に聞き、「迎え入れていく」ということです。そこには大いなる聖霊の力が働いてくださいます。
本日の箇所の冒頭に、「イエス・キリストの誕生の次第について」という記述がなされていますとおり、ここには神の御子イエス・キリストの誕生、すなわち神の救いの到来についてのエピソードが綴られています。神の御子、メシアの到来ですから、何か華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょうが。何とその「母マリアがヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」というのであります。自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなにか失望させたことでしょう。
けれども驚くべき現実を前に、ヨセフは神を畏れ敬う正しい人でありました。そして思い悩んだ末、ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」いたします。そこにはヨセフの正しさだけではなく計算も読み取れます。
彼は律法の規定に従いマリアを訴えることがきましたけれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになります。又公に、身重のマリアを妻に迎えることもできません。それは律法に反することでした。この二つの道の板挟みの中で彼が考えたのは、とりあえずマリアと胎の子の生命が守られ、さらに律法に反しないために、ひそかにマリアと縁を切るということでした。この方法がマリアと胎の子のいのちを守り、さらに律法に反することにならない賢明な道だと自分に言い聞かせるようにしてヨセフは心に決めたのでしょう。
ところが、であります。ヨセフが「このように考えていると、主の天使がヨセフに現れて言います。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」と言った、というのですね。
ここで天使は5つのことをヨセフに示します。
第一は、「ヨセフがまぎれもなくダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、彼がイエスの法的父親であるということです。
第二は、「恐れずマリアを妻に迎えよ」という奨めであります。このことは後で触れます。
第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」ということです。これはイエスが歴史的にダビデの家系に属する者であるだけでなく、イエスは聖霊によって生まれた神の子であるということです。
第四は、「その子にイエスと名付けよ」ということです。イエスという名は、この時代よく付けられたポピュラーな名前でありましたが。ヘブライ語で「イェシュア」、旧約聖書のヨシュアと同じで、それは「神は救い」という意味があるのです。私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、神の救いを求めることであり、それはあの「十字架の救いの御業」をとおしてもたらされたものであることを知っています。
第五は、まさしく「その子は自分の民を罪から救う」という約束であります。これはダビデの子であり、聖霊によって生まれる神の子、まことの人間にして神聖なる主イエスこそ、すべての人間を罪の縄目から解放し、救うお方であられる、という宣言であります。
これらの啓示によって、主の天使はヨセフに第三ともいえる新しい道を示します。
それはマリアを断罪するという律法的な道でも、又マリアとひそかに縁を切るという人間的善意の道でもありません。それは、主の御心とそのご計画を受け入れ、従っていく道であります。マリアを妻として迎え入れ、その出来事もろとも引き受けて生きる。重ねて申しますが、それは当時の常識には全くあてはまらない、社会的に受け入れられず、信用を全てなくしてしまうような事でした。
それにも拘らず、どうしてヨセフはそのような決断ができたのでしょうか。非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。ほんとうに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに、主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中にあることだったのです。「そうだ、自分は独りじゃないんだ、主なる神さまが共におられ、導いてくださる。」インマヌエル、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼はその生きるべき道をあゆみ出したのです。
私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤があるものです。ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考え方でのみ解決の道を探ろうといたします。人の計算や思考によって計ったり、よかれと思ったりします。そんな時にはえてして過ちを犯すことがあるかも知れません。又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくすることもあるかも知れません。何が主の御心であるか。「知る力と見抜く力を見につけなさい」と聖書にありますが。御心を知ってそれに従っていくことがほんとうに大切であります。けれども人にはそれがなかなか分からない。またその力もありません。だからこそ、聖霊の力、御霊の導きが必要なのです。主イエスは「それを求めなさい。願いなさい」と何度もお語りになりました。聖霊不在の教会に真の希望はありません。私たちはどこまでも、神の国と神の義を、聖霊の導きによって求めていかなければなりません。そこにこそ真の希望があるからです。そこから本物の、人を思いやる優しさも配慮も生まれてくるのであります。
皆様はその信仰のあゆみにおいて、あるいは教会でも問題と感じること、課題と思えることがおありかも知れません。けれどもこのことを通して、やはり主への信仰が、自分のたち位置が問われ、正され、そしてまっすぐに主を見上げていくようにと導かれているのです。そういう気づきを与えられる。だから教会、兄弟姉妹の交わりは賜物なのですね。
そして、何よりも私たちは、ローマ8章26節に記されていますように、「御霊が弱いわたしたちを助けてくださり、わたしたちがどのように祈るべきか知らない折にも、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
そのようなインマヌエルの主が共にいてくださるのです。この教会にも聖霊が豊かに働いてくださるように、心を合わせて、祈り支え合う私たちとされていきましょう。