日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あなたはメシア、生ける神の子

2012-12-02 20:34:40 | メッセージ
宣教(待降節) マタイ16章13節~23節

①「あなたはわたしを何者だと言うのか?」
イエスさまと弟子たち一行はフィリポ・カイザリア地方を訪れました。そこはユダヤの宗教家たちから異邦人との境とされており、ローマ皇帝をはじめ、バアルの神々、ギリシャ神話の神々などが祀られてきた多神教と偶像に満ちた地でありました。
そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行ったイエスさまの力を旧約の預言者たちと重ねて見ていたということです。
けれどもそれは、イエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシヤ(救い主)であると口にする人はいなかったということであります。民衆はローマの政治的支配による抑圧から解放してくれる勇ましい指導者をメシヤとして待望していました。柔和で権威的とは見えないイエスさまは民衆の持つメシヤのイメージとは違っていたのでしょう。
するとイエスさまは弟子たちに言われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」 今度は弟子たち自身がイエスさまを何者というのか、という大きな、それは弟子として主に従うことの根本的な意義を問われるのであります。

ところで皆さま方の中にご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか別の信仰をもっていて、自分だけが教会に行きキリストを信じるようになった、という方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、まあ殆どは異教的な環境の中でキリスト教と出会うのであります。
実に多くの人がキリスト教への関心や興味を少なからず持っていると思うのでありますが、本当にイエス・キリストを信仰の対象として信ずるに至るその道のりは、この日本の異教的で、かつ物質的繁栄と営利を求める文明社会においては厳しいものといえるのかも知れません。今も世界のベストセラーは聖書であり、それは世界中の人々が読み親しまれている書物であります。確かに聖書に対する世間の人たちの見方やキリスト教に対する見方も、悪い印象より良い印象をもたれる人が多いと思います。本屋に行けばキリスト教についての様々な入門書や注解書も手にできますし、結構よく売れているのですね。又、ミッションスクールなどでそれを学ぶ人も沢山おられます。ところがです。「じゃあ、あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という、まさに聖書の中心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は実に少ない、極少数であるというのが現状ではないでしょうか。
本日の箇所はフィリポ・カイザリアに立つイエスさまと弟子たちの問答でありますが。それは世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な解説ではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスさまからの個人的な問いかけが、このフィリポ・カイザリアに象徴されます異教的な文化の中で暮らす一人ひとりに、投げかけられているのではないかと思うのであります。

②「ペトロの主告白と教会」
さて、イエスさまの問いに対しシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。彼は「あなたは救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と、そう言い表したのです。
するとイエスさまはペトロに答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
イエスさまはペトロを幸いだと祝福しますが、しかしこのことを現わしたのはペトロの理解力や知性によるのではない、天の父によるものだと言うのです。天の父なる神が、「イエスこそ、生ける神の子・キリストである」という奥義、今まで覆い隠されていた事を明らかに示されたというのですね。そして史上初めて「イエスさまが主である」との信仰告白をなしたペトロでありました。
けれども、イエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられのか、それは知るよしもありませんでした。この時のペトロにとってのメシア像とは、権威を帯びてユダヤの民にあらゆる抑圧からの政治的解放をもたらすような存在であったからです。
ですから彼はイエスさまがご自身の受難とその死について語り始めた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスさまを自分の方に引きよせて、いさめ始めたのです。ペトロにとってそれは決してあってはならないことであり、自分にとっての理想的社会の実現を否定するものでした。
しかし、イエスさまは振り向いてそんなペテロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている」と言い放たれます。ペトロにとってそれはどれ程衝撃的な事であったでしょう。

ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子であり、又筆頭格の弟子でありましたけれども。その彼のあゆみを福音書から辿って観ますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく書かれていますよね。にもかかわらず、主イエスの愛はどこまでもペテロに伴っていました。あのイエスさまを3度否んだ時、イエスさまの十字架を前にしてペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感いたします。
しかしイエスさまは、彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるように望み、信じ、祈られていました。そして復活の主イエスはこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」という御言葉をもってペトロを招かれました。ペトロはこの時になって初めて神のご計画による救い、イエスさまがメシアとして来られた本当の意義、その神の奥義を知ることになるのです。彼はその主の招きに応え、主の御言葉どおり信徒らを導き、その群を養う者とされていくのであります。
このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上のゆるしと執り成しによる愛に支えられたものでありました。イエスさまは実にそのようなゆるしと執り成しと、自らを捧げる愛によって神の救いをもたらされたのであります。それこそが、私たちの救い主(メシア):キリストのお姿なのであります。

ペトロの話に戻しますが。イエスさまはペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。「ペトロ」はヘブライ語とアラム語で「ケパ」といい、岩という意味です。聖書教育の学びの解説に、「ペトロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と言い表した信仰告白こそが、教会を支える‶岩のように強くて頑丈な基礎″であることを意図したのでしょう」とありました。確かに彼の信仰告白は現代に至るまで教会の基であり、その信仰告白の上に今日まで教会が建てあげられ、形成されてきたのです。
けれどもペトロは先程申しましたように、救い主(メシア)がどのような形で成就されていくのか迄は分かりませんでした。だから、イエスさまの受難告知に躓いたのです。
そう考えますと、ペトロの信仰告白というのは頑丈であるというよりはむしろ不完全なものであった、と言えるのかも知れません。口でいくら立派な主告白をしても、人間の思いが優先し神さまの御心が受けとめられないで、とんちんかんな過ちを繰り返すようなペトロ、弟子たち。その延長線に私たちも立っているのではないでしょうか。
けれどもすごいのは、イエスさまはそのようなペトロをご存じの上で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのです。人としての不完全な信仰告白の上にキリスト(救い主)の教会を建てる」と、おっしゃったのですね。私たちも又、ゆるされて、不完全ながらもつたないその信仰告白によって、受け入れられ、何よりも愛されて建てあげられていくのであります。教会は主の恵みとゆるしに気づいた一人ひとりが、心から悔い改めて主に立ち帰って生きるその群であり、そこに人ではなく神の御業が起こされていくのです。そして教会はこの救いの恵みを人々に伝え、証ししていく群でもあるのです。

最後に、今日のこの個所からつくづく示されます事ですが。イエスさまがペトロをして「神のことを思わず、人間のことを思っている」と指摘している点であります。
人は誰しも「こうなったらいいのに」という願望や「そうなるべきだ」という理想を掲げ思い描くものです。ペトロもそうでありました。しかし、救い主イエスさまに従う弟子として招かれていることは、「神の御心、神の計画に聞き、信頼をもって従う」という事であります。24節でイエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われています。
今、私たちに与えられている救いの恵みと、そのために払われた主のご愛をおぼえつつ、感謝と賛美をもって主の導きに聞き従ってまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする