日本バプテスト大阪教会へようこそ!

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バラムとロバ

2011-10-16 17:42:13 | メッセージ
宣教  民数記22:22-35

① 背景
モーセとイスラエルの民がモアブの平野まで進んできた時のこと。モアブの人々はイスラエルがアモリ人に対してした事、すなわち彼らが全軍残らず撃ちまかし、その国を占領したのをことごとく見て、恐れを抱き、気力もうせて、「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをなめ尽くそうとしている」と言います。そこでモアブの王バラクは、ぺトルの地に住んでいた霊能者バラムに「イスラエルの人々に呪ってほしい」と、礼物を持たせた使者を送るのです。
その夜神はバラムに、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と命じられます。バラムは神の言葉を王の使者に語り、帰るように伝えます。
しかし、王はバラムのもとに再度使者を送るのです。今度は前よりも多くの身分の高い指導者たちをバラムに遣わし、「あなたを大いに優遇します。言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください」と伝えます。
ここで王バラクは「わたしのために呪いをかけてください」と言っていますが、彼は個人的な願望によって呪いや祝福をコントロールしようとします。これはまさに異教的な手法です。この呪いの出所は神にではなく、自分のためにという所にあります。
聖書を読みますと、神は占いやまじないを嫌われると随所に出てまいりますが、それは神の御心を求めること、又信頼することに反して、願望や欲望を満たすために神の力まで利用しようとする人の心のさもしさを神はいとわれるからでありましょう。

さて、王の申し出に対してバラムは、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と答えます。
が、しかし彼はバラクの使者たちをすぐに帰らせることをせず留まらせて、「主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」と言います。
確かに口では「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と語ったバラムですが、その本心ではそうきっぱりと言い切れるものではなかったのです。ここにはバラムの心が2つに割れ、揺れ動いている様が表れています。神に仕える心と己の利権や富のために仕える心です。彼の脳裏に「神を自分の願いに従わせたい」との思いがチラリと横切ったのではないでしょうか。
その夜、神はバラムに「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」とお告げになります。が、ここに「これらの者があなたを呼びに来たなら行くがよい」とあるよう、これは主が自ら「行きなさい」と言っておられるのではないのです。まあ結局「バラムは朝起きるとロバに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた」というのであります。

② バラムとロバ
「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃えあがった」というのです。
神は、バラムがバラクの高官たちと共にモアブに行くことを許されながらも、バラムに対して怒りを現わされたというのですね。これは一体どうしてなのでしょう?
それは先に触れたように、二心となり神に従う道をあやふやにしたバラムの心を知って非常に憤られたからです。
聖書の神、特に旧約の神は、ねたむほどに愛する神と自らを言い表されるごとく、その愛が裏切られるような場面においては、燃え上がるような怒りをもって臨まれるのであります。しかし、それならなぜ、神はきっぱりとバラムに「行くな」と禁止されなかったのでしょうか? 
これが聖書の神のご性質なのです。神は人間をロボットのように上から指示命令してそのとおりに従わせようとはなさいません。それは人を奴隷としてではなく自由を持つ人として扱われるからです。バラムにも自分で考え、祈って、主の御心が何で、どこにあるのかを聞き取っていく道を委ねられたからなのです。
たとえとして適切かどうかわかりませんが、例えば、子どもが友だちとゲームセンターに行くといったら、親としては「それはやめときなさい」と言います。それでもある程度大きな子なら、親としては「じゃ、これこれは気をつけるように、しないように」と念を押しつつ、心の中では「行くのはやめてほしい」「わかってくれないのかなあ」と、イライラするでしょうが。ある程度大きな子どもには、自分で気づいてほしいと願うのは親心でありましょう。

神がバラムに、「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」と語られたのは、まさにバラムの信仰を試し、問うたものだったのです。バラムにはそれを自由に選ぶことが任せられていたのです。結局彼は「よかった、ゴ―サインがでたぞ」ということで自分の心の願いが果たせると喜んでモアブの地に向かったのでありますが、結局それは神が「行くな」と言っているその御心が見えなかったということであります。

さて、バラムはロバに乗り、二人の若者を従えていたのですが、そこへ主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていました。この主の御使いを見たロバは、道をそれて畑に踏み込みました。一方、バラムはロバを打って、道に戻そうとしました。すると今度は主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていました。ロバは主の御使いを見るや、その道の石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたのです。するとバラムはまた、ロバを打ちました。さらに進むと、剣を手にした主の御使いは、今度は右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがっていました。ロバはその主の御使いを見るや、バラムを乗せたままもうよけようが無いものですから、とうとうその場にうずくまってしまいました。するとバラムは遂に怒りを燃え上がらせ、まあ本気でロバを杖で打ったというのです。
ここを読むと、ロバは3度剣を手にした主の御使いの姿を見ているのに、バラムにはそれが全く見えていなかったことがわかります。それどころか彼は3度そのロバを打ったのです。バラムは何とかして自分の願う道を通したいと急いでいたために、主の御使いに気づきません。それに気づいて災いを避けようとしたロバは、彼にとって自分の願望を邪魔するものに過ぎません。本当は命の恩人(ロバですが)、まあ罪を犯させまいとする存在なのです。彼は自分の思いと違うところに行こうとしたロバ、多少痛い思いをさせたロバに対して、激しく怒りを燃え上がらせたのです。
これは一つの教訓とも言えます。私たちには人間として願望があります。それは決して悪いことではありません。しかし、主の御心以前にそれに固執してしまうと、周りの忠告も妨げるもの、助言もいまいましいものに聞こえてしまうでしょう。それは危機から守り罪を犯させないため、又大きな過ちから遠ざけるために神が遣わされた者かも知れないのに、それに気づかないことがあるのではないでしょうか。

さて、そこで主はロバの口を開かれます。ロバは「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」。それに対してバラムは「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう」と答えます。バラムは主の御使いの剣が自分に向けられているのも知らず、こういっているのです
ロバはバラムに更にこう言います。「わたしはあなたのロバですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか」。バラムは「いや、なかった」としか答えることができなかった、とあります。聖書で動物が言葉を話すのはこのロバと創世記のヘビだけですが。神が口を開かれたというのはロバだけなのですね。何ともユニークな個所でありますけれども。

そこで、主は今度はバラムの目を開かれます。すると、彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道をふさがっているのを見たのです。バラムはどれだけ自分の目が罪で覆われていたのかを知り、身をかがめてひれ伏しました。
主の御使いは、バラムが非難したロバのとった行動について弁護いたします。
「なぜ、このロバを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしを妨げる者として出て来たのだ。このロバはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ロバがわたしを避けていなかったら、きっと今は、ロバは生かしておいても、あなたを殺していたであろう」と語られます。

バラムは主の御使いに答えます。
「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」。
彼はモアブの長たちと共に旅立ったことが間違いだったと認めます。そして、主の御目に悪しければ、引き返すと言います。

それに対して主の御使いはバラムに次のように言われます。
「この人たちと共に行きなさい」。今度は「行きなさい」とお命じになっていますね。
「しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」と。
主の御使いは唯一つの条件として、神が告げられる言葉だけを告げるようにと言われます。
ここで主の御使いはバラムにどうして「引き返せ」とおっしゃらなかったのでしょうか?それは、バラム自身がその信仰を問われて、改めて主に従う道を見出したからではないでしょうか。この新しくされたバラムを主は遣わし、「神が告げられる言葉」のみを告げるという「使命を託された」ということなのでしょう。
バラムはこの後、モアブの王バラクに対して、主の告げられることだけを告げます。多くの宝を積まれ、王がイスラエルの民を呪うよう願っても、バラムは「主がわたしの口に授けること。わたしはそれだけを忠実に告げるのです」と答えます。
 
私たちはいろんな出来事に心変わりしたり、揺さぶられたりしやすい者です。けれども主は決して変わることのないお方です。私たちもまた、その変わることのないお方に信頼し、誠実に従っていく道が問われているのです。

最後に、聖書教育の少年少女科のところに、とてもよい視点が記されています。
このバラムとロバの出来事は、当面のイスラエルの民の全くあずかり知らないところで起こっていたという事であります。後で、「あのとき、主が働いていて守っていて下さったんだなあ。支えていて下さったんだなあ」というような事が、私たちにもあるのではないでしょうか。
私たちもまた、祈られています。祝福されています。主に益々信頼し、主のみ業に参画する者とされていきましょう。
コメント
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