宣教 申命記24:14-22
ここには、寄留者・貧しい人・孤児・寡婦などの権利を奪われている人々への社会的保護の規定であります。それは申命記以外にも出エジプト記、レビ記などにも繰り返し規定されています。これはイスラエルの王国時代の階級や格差の違い、現代でいうところの「格差社会」によって、これらの人々の命と生きる権利が奪われないように、又生活を守ることが如何に重要であったかを示しています。
「寄留者」とは、イスラエルの町の中に所有地のない人を指していました。彼らは他人から仕事をもらったり、地域の人々の好意に頼って生きなければならず、孤児や寡婦と共に社会的弱者でありました。今日でいえば、文字通り貧しい外国人労働者といえますし、又日本人であっても戸籍や住民票の無い人、あるいは寄せ場という釜が崎や山谷、寿町など流れながら生きている日雇い労働者でもあるといえましょう。
さて、本日の14~15節は、イスラエルの民であれ、イスラエルに寄留している人であれ、貧しく乏しい雇い人には賃金を日が暮れる前に支払わねばならないという規定です。雇い人は日雇い労働者のように、その日その日の生計を維持していくような状態でしたから、きちんとその日に一日分の賃金が支給されなければ、その一日は飢えることになります。家族がいたとしたなら家族を飢えさせてしまいます。ですから、雇用主は労働の対価をその日のうちに雇用人に支払わなければならないと規定します。
又17~18節は、イスラエルの町に寄留する人たちや孤児の権利をゆがめてはならないという規定であります。又、寡婦の着物を質にとってはならないという規定であります。これと似た規定が出エジプト記22:20-24にもあります。「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す」とあります。
このように神は貧しくて弱い者の訴えを最優先に聞き、保護しようとなさるのです。もしこのような貧しくて弱い立場におかれた者の権利を奪い、訴えをゆがめる者がいたら、神はその者を厳しく処罰されるというのですね。あのマタイ25章31節以降の羊と山羊を分けて裁かれるというイエスさまのたとえの最期で言われた、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしてくれなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」との言葉を思い起こされます。
さらに、19~21節は、寄留者、孤児、寡婦のために食物を残しておくようにする規定が記されております。一つは、畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。彼らのものとしなさいというのです。貧しい者を顧み、憐れまれる心について教えています。
同様にオリーブの木やぶどうの木の実を収穫する際は、全部くまなく取り尽くしてはならい。一旦取ったら後でまたくまなく取り尽さず、あとは貧しい人たちが食べられるように残しておきなさい、と神は誰もが糧に与ることができるようにと配慮してくだるのです。
神はモーセを通して、それらの規定の根拠を示されます。
それは道徳的に善いことだらでしょうか?いいえ、それは何よりもまず、イスラエルの民自身がかつてエジプトで寄留者として抑圧されていたことを思い起こして、抑圧されている者の立場に立って生きるようにと繰り返し語られているのです。このことを思い起こすならば、イスラエルの民は謙虚にならざるを得ません。ただ恵みによって生かされていることを知っているからです。ただ主の慈しみに生きることこそ恵みなのです。
それはイエス・キリストの十字架を通して救われた者にとっても同様のことであります。
Ⅱコリント8章9節に「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあるように、今、私たちが主の救いと平安を得ることができるのは、主が十字架の尊い犠牲をささげられ、私たちが当然受けなければならない罪の裁きを主が自ら担って裁きを受けて下さった。そのことをいつも忘れるわけにはいきません。
最後に、今日の聖書で、神の規定は「~してはならない」という禁止命令の口調に聞こえますが。その本質は、神が罪深く、小さなイスラエルの民を罪の咎もあるまままるごと抱えこんで、エジプトにあって寄留の民であり奴隷の状態から救い出して下さった、という大いなる恵みであります。ですからその「~してはならい」というお言葉は、この大いなる恵みを体験したあなたがたは、決して「~しないであろう」という積極的で未来志向的な意味の言葉なのです。
イエスさまはマタイ7:9-12でこう言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。
それはまさに、~してはならないという否定形でなく、~しなさいという積極的な関与なのであります。ただで受けたのだから、惜しみなく分け合う豊かさを主は示しておられるのです。
それは又、自分自身が悲しみ、苦しみ、寂しさ、辛さを知っているのなら、今同様の悲しみや苦しみ、寂しさや辛さを抱える人が、何を求め、欲しているのかを知り、接することができるでしょう。
神はキリストのからだなる教会を通してなされる救いと平安に大きな関心をよせておられます。まず主にある兄弟姉妹が互いに支え合い、助け合い、主の霊がキリストのからだなる教会に満ち溢れるほどに充満していきますように、アーメン。
ここには、寄留者・貧しい人・孤児・寡婦などの権利を奪われている人々への社会的保護の規定であります。それは申命記以外にも出エジプト記、レビ記などにも繰り返し規定されています。これはイスラエルの王国時代の階級や格差の違い、現代でいうところの「格差社会」によって、これらの人々の命と生きる権利が奪われないように、又生活を守ることが如何に重要であったかを示しています。
「寄留者」とは、イスラエルの町の中に所有地のない人を指していました。彼らは他人から仕事をもらったり、地域の人々の好意に頼って生きなければならず、孤児や寡婦と共に社会的弱者でありました。今日でいえば、文字通り貧しい外国人労働者といえますし、又日本人であっても戸籍や住民票の無い人、あるいは寄せ場という釜が崎や山谷、寿町など流れながら生きている日雇い労働者でもあるといえましょう。
さて、本日の14~15節は、イスラエルの民であれ、イスラエルに寄留している人であれ、貧しく乏しい雇い人には賃金を日が暮れる前に支払わねばならないという規定です。雇い人は日雇い労働者のように、その日その日の生計を維持していくような状態でしたから、きちんとその日に一日分の賃金が支給されなければ、その一日は飢えることになります。家族がいたとしたなら家族を飢えさせてしまいます。ですから、雇用主は労働の対価をその日のうちに雇用人に支払わなければならないと規定します。
又17~18節は、イスラエルの町に寄留する人たちや孤児の権利をゆがめてはならないという規定であります。又、寡婦の着物を質にとってはならないという規定であります。これと似た規定が出エジプト記22:20-24にもあります。「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す」とあります。
このように神は貧しくて弱い者の訴えを最優先に聞き、保護しようとなさるのです。もしこのような貧しくて弱い立場におかれた者の権利を奪い、訴えをゆがめる者がいたら、神はその者を厳しく処罰されるというのですね。あのマタイ25章31節以降の羊と山羊を分けて裁かれるというイエスさまのたとえの最期で言われた、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしてくれなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」との言葉を思い起こされます。
さらに、19~21節は、寄留者、孤児、寡婦のために食物を残しておくようにする規定が記されております。一つは、畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。彼らのものとしなさいというのです。貧しい者を顧み、憐れまれる心について教えています。
同様にオリーブの木やぶどうの木の実を収穫する際は、全部くまなく取り尽くしてはならい。一旦取ったら後でまたくまなく取り尽さず、あとは貧しい人たちが食べられるように残しておきなさい、と神は誰もが糧に与ることができるようにと配慮してくだるのです。
神はモーセを通して、それらの規定の根拠を示されます。
それは道徳的に善いことだらでしょうか?いいえ、それは何よりもまず、イスラエルの民自身がかつてエジプトで寄留者として抑圧されていたことを思い起こして、抑圧されている者の立場に立って生きるようにと繰り返し語られているのです。このことを思い起こすならば、イスラエルの民は謙虚にならざるを得ません。ただ恵みによって生かされていることを知っているからです。ただ主の慈しみに生きることこそ恵みなのです。
それはイエス・キリストの十字架を通して救われた者にとっても同様のことであります。
Ⅱコリント8章9節に「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあるように、今、私たちが主の救いと平安を得ることができるのは、主が十字架の尊い犠牲をささげられ、私たちが当然受けなければならない罪の裁きを主が自ら担って裁きを受けて下さった。そのことをいつも忘れるわけにはいきません。
最後に、今日の聖書で、神の規定は「~してはならない」という禁止命令の口調に聞こえますが。その本質は、神が罪深く、小さなイスラエルの民を罪の咎もあるまままるごと抱えこんで、エジプトにあって寄留の民であり奴隷の状態から救い出して下さった、という大いなる恵みであります。ですからその「~してはならい」というお言葉は、この大いなる恵みを体験したあなたがたは、決して「~しないであろう」という積極的で未来志向的な意味の言葉なのです。
イエスさまはマタイ7:9-12でこう言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。
それはまさに、~してはならないという否定形でなく、~しなさいという積極的な関与なのであります。ただで受けたのだから、惜しみなく分け合う豊かさを主は示しておられるのです。
それは又、自分自身が悲しみ、苦しみ、寂しさ、辛さを知っているのなら、今同様の悲しみや苦しみ、寂しさや辛さを抱える人が、何を求め、欲しているのかを知り、接することができるでしょう。
神はキリストのからだなる教会を通してなされる救いと平安に大きな関心をよせておられます。まず主にある兄弟姉妹が互いに支え合い、助け合い、主の霊がキリストのからだなる教会に満ち溢れるほどに充満していきますように、アーメン。