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神が選んだ宝の民

2011-10-23 16:48:07 | メッセージ
宣教 申命記7:6-11

モーセの物語の出エジプト記から始まって、レビ記、民数記、そして本日の申命記、さらにヨシュア記と続く聖書物語を礼拝で読んでいきますが。旧約のイスラエルの民のお話を今日、私たちはどう聞いて受けとっていけばよいのでしょう。そこでまずその読み方について触れておきます。
聖書教育の執筆者が「物語」の始まり、という欄で次のように述べておられます。ここまで読んできました聖書記事を、「一つとなるためのひけつ」を語る書物として読むのではなく、「一つとなろうとする時になお切り捨ててはいけないもの」があると語っている点に注目したい」。今日はこのような視点で私たちの信仰の歩みにリンクさせながら聖書のみ言葉を聞いていきたいと思います。

本日の個所ですが。イスラエルの民がこれから入っていこうとしているカナンの土地には、多くの神々の偶像があり偶像崇拝や農業神が祀られていました。これらの偶像によって、人が神ならざるものを拝み、利用して人が栄え、豊かになることによって、様々な弊害が生じていくのです。
これはある意味現代の私たちの生きている世界や社会と重ねて読むこともできるでしょう。
カナンの土地には多くの神々の偶像の他にもアシュラの母神(70神の母神)が崇拝されていました。それは目に見える繁栄や豊かさを称える文化として圧倒的な力をもっていました。
現代社会も又、都市や地方、都会や田舎の如何を問わずそういった異教世界は様々に形を変えて、私たちの身近なところに存在します。私たちは文明や科学技術の進歩や発展によって確かにその恩恵に与り、快適な生活を送っているわけですが。その一方で、繁栄や豊かさ、効率性、利便性、快適さをあたかも崇拝するごとくに追求していくことで、自然や環境が破壊され、それが生態系を狂わせ、想定しようのない大災害を引き起こす要因にもなっています。
3月11日に起こった未曾有の東日本大震災と福島原発によって、多くの方がたがお亡くなりになり、未だに行方不明の方も多くおられます。又多くの町が壊滅的な被害に遭い、多くの家も地域のつながりも無くなってしまい、職場や仕事を失った方々も数知れません。又、原発の事故は、人が生きることを根底から危うくしています。そこからまさに「いのち」の問題、又「人として生きるとはどいうことなのか」、ライフですが。その本質的な事柄が問われています。
戦争もそうですが、いつもこのような時、真っ先に災害の犠牲となったり、影響を受けるのはお年寄りであり、小さな子どもたちであります。又原発事故処理のために貧しい日雇い労働者が雇われている現実であります。小さな命、弱い立場にある人たちの「いのち」「生きる」権利は保障されなければならないでしょう。国をあげて復興を目指していこうとする中で、なお切り捨ててはならないもの、置き去りにしてはならない人々がいるのです。

聖書に戻りますが、本日の個所は荒れ野ですでに語られた教えであり、民数記にも出てくるものでありますが、これからまさに偶像の土地カナンに入ろうとするイスラエルの民に向け、改めて述べているのです。申命記の申とは、「重ねる」という意味があるということから、主の教えを重ねて、つまり大事なこととしてモーセの口を通して語られているのです。
それは、イスラエルの民が偶像をほめ称えるカナンの土地において、目に見える繁栄と豊かさに足もとをすくわれ、まことの神を捨て、神ならざるものに心奪われ、罪を犯すことのないように、との強い願いがあったからであります。

モーセはイスラエルの民に向けて、「あなたは主の聖なる民である」「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」と告げます。「神が選んだ宝の民」として生き貫きなさいと命じます。
その「主が選んだ宝の民」。主のお選びになったその理由が何とも興味深いのでありますが。
7節「主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と述べられています。
一般に宝といえば、最も素晴らしいもの、何ものにも替えることのできないようなものでありましょう。それは大概、麗しいもの、秀でたものであり、高価なものであるのではないでしょうか。   

ところが、聖書は「あなたを宝の民として選んだのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民より貧弱であった」と述べます。まさに驚きです。
それは何か数が多くて強大で力があるという理由ではなく、他のどの民よりも貧弱であった、つまり他よりも小さく弱々しかった。そこに主が心引かれて選ばれたというんです。
8節で「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と述べられていますが、主のこの愛はへブル語で「ヘセド」;それは腸がちぎれんばかりに憐れむというとこから来た言葉ですから、主はただ、その小さく弱い民を深く憐れみ、共にその痛みと苦しみに共鳴されるしかなかったというのであります。子をもつ母親には、その子が何か優れているとか、才能があるとかという理由で愛するでしょうか。中にはそういう母親もいるかも知れません。しかし、たいていの母親は、その子が優れているとか、才能があるという理由ではなく、本能的に、ただ愛おしいという事以上の理由はないでありましょう。神の愛、神の憐れみのゆえにとは、そのイスラエルの存在そのものを値なしに受け入れられた。殊にその子が小さく、弱いのなら、なおさらのこと強く愛されたというのですね。これが主の愛であります。

今日の個所の「貧弱」であったというところから思い浮かびましたのは、使徒パウロの言葉です。
彼はイエス・キリストと出会い、救いを得て大伝道者となる前迄は厳格なユダヤ教徒として、バリバリのエリートであり、優れた才能や功績を得ていました。そのおごりと熱心さのゆえにキリスト教会とその信者を激しく迫害した人物でありました。ところが、イエス・キリストとの出会いを経験した彼は完全に打ち砕かれ、イエス・キリストに敗北宣言をするのです。
彼は自らの経験に基づいて次のように言っています。一コリント1:26‐28「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみてください。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
パウロは自分が迫害をしていた人々のうちにまさにイエス・キリストを見たのです。
そして神の愛、その深い憐れみは、世に小さくされている人、弱い立場に置かれた人に注がれていることを痛いほど思い知らされたのです。

本日の聖書の個所は、イスラエルの民が偶像崇拝や神ならざるものを拝んでいたカナンの土地に入ってからの心得について述べられています。それはイスラエルの民自身が、先祖の時代から主の約束と「ただ主の憐れみ」によって選び出され、主の「宝の民」として救い出され、導かれて来た。そのことを心に留め続けて生きる。それを「忘れてはならない」ということであります。

カナンの土地には様々な神を祀る偶像礼拝が満ちておりましたから、イスラエルの民にとってもそれは大変な誘惑となるのです。殊にイスラエルの民がカナンのい土地に入るや、そこにあぐらをかき、目に見える豊かさや繁栄に目を奪われて、主の選びとその救いを忘れて偶像礼拝の罪に陥ってしまう危険性がありました。それとともに、イスラエルの民は旅をしている最中は飢え渇きという一種の危機感からモーセや神に不平不満をぶつけて、過去の奴隷の状態の方がまだましであったなどと言っていましたが。さらにカナンの定着後に予想されますのは、目に見える繁栄や豊かさや、又効率性や才能のあるものが大事にされていくなか、小さくされた人、弱い立場の人が置き去りにされたり、群にとどまれず孤立してしまうという事態がおそらく想定されたのではないでしょうか。

そういう時にイスラエルの民の本質というのでしょうか。その依り所としてる原点は何かという事が非常に重要なのです。それは「おまえたちイスラエルの民はもともと小さく弱い立場」の者でなかったのか。「ただ、主の愛、深い憐れみによっておまえたちは選ばれ、宝の民とされた」者ではないのか。「主はその小さく弱い立場にある者たちのうちにおられる」のではないのか。世の繁栄や豊かさを第一としていく偶像にではなく、愛と憐れみの生ける神を仰ぎ見、その神に聞き従っていくところに、イスラエルの民の希望があります。その点に立ち返ることこそ重要なのです。

ひるがえって、今日のこの「イスラエルの民」について述べられた個所は、私たちの大阪教会にも向けられたものではないでしょうか。私たちの教会はイエス・キリストの体であると同時に、共にそのキリストのからだを建てあげていく働きが託されております。
一番最初に触れましたが。「教会が前進していく時」、又「一つになろうとする時、なお切り捨ててはいけないものがある」という視点は新鮮です。敢えてそこで取り残され切り捨てにされがちになっている事柄はないのか。自己完結せず、正論だけを振りかざさず、声なき声に耳を傾け、弱さに共感できる感性をもち心に留めてゆくことは大切なことです。
特伝の講師でお出でくださった安藤榮雄先生のお話にもありましたが、「私の中のキリストではなく、キリストの中の私」という立ち位置から、共に謙虚にされ、主のみ言葉に聞き従っていく。そのことが今日私たちに語られているメッセージであります。
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