とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

じいさん達の戦争 その3、運命の戦闘

2014-07-05 10:08:22 | 昔の話
祖父の中国戦線での所属部隊がわかったので、
昨年は、ネットや本で何か情報はないかと探してみた。
所属部隊名は
独立混成第17旅団
独立歩兵第90大隊(第8105部隊)
第一中隊
旅団長は、高品 彪 少将
第90大隊長は、舛尾 芳治 中佐 であることが、わかった。
その後祖父のいた独立混成第17旅団は「江南殲滅作戦」に参戦することになる。

旅団という軍単位は普通5000人ほどの規模のようだが、
祖父のいた旅団は補充兵も多かったと思われるので、
もっと少ないものであったのかもしれない。
旅団の構成は
歩兵大隊5
砲兵隊1
工兵隊1
通信隊1
という編成で
1歩兵大隊は、およそ600人~800人ぐらいの規模で、
中隊4つほどから構成されているようだ。
祖父は第一中隊の小隊長という地位にあり、
通常であれば50人くらいの兵隊を指揮することになる。
ケロロ小隊(漫画)は4、5人(匹)だが本当の小隊はもっと多い。

小隊長ともなれば、戦場での現場責任者となるので、
部下の兵隊に後れをとることはできない。
体力的にも精神的にも大変なものであったと思われる。

作戦は有名な洞庭湖の北西側で行われた。
日本軍は北から南へ向けて進軍し、
中国軍を掃討するという作戦だったようだ。
祖父の旅団は安郷県という所を北から南に行軍しているのだが、
祖父はこの時、中国軍の迫撃砲、あるいは手りゅう弾かもしれない
砲弾の炸裂により、瀕死の重傷を負っている。
祖父はその後、船で後方へ運ばれる途中で、亡くなった。
この戦闘はかなりの激戦だったようで、祖父の他、中隊長も負傷、
第90大隊長の舛尾 芳治 中佐は戦死しており、
5人の大隊長のうち3人が戦死するというものだった。

来週は祖父の命日だ。
このブログに書いているのも、そんな時代があったことを忘れないようにするためだ。

じいさん達の戦争 その2、中国へ

2014-07-05 07:41:55 | 昔の話
昭和17年7月25日 東部第六十二部隊に召集

昭和十七年七月二十五日臨時招集ニテ東部第六十二部隊ニ召集同日陸軍機密第二五四号ニ依り補充交代要員トシテ東京出発

昭和17年7月25日同日東京出発
昭和17年7月27日宇品港出帆
昭和17年8月2日呉淞に上陸江湾兵営着
昭和17年8月9日飯田桟橋出航
昭和17年8月13日揚子通過 部隊宿舎に到着
昭和17年8月16日同地発
武昌に一泊
昭和17年8月17日任地岳州着 第九十大隊第一中隊に編入
中支派遣 峯八一○五部隊 第九十大隊第一中隊に編入

以上が祖父の軍隊手帳に書かれていた任地までの記録だ。

(注)
東部第六十二部隊(当時東京の赤坂にあった部隊)
宇品港(広島の港)
呉淞(上海の港)
飯田桟橋(上海の揚子江の桟橋)

招集令状が届いてから2,3日後に入営しているので
あわただしい日程だったことが想像できる。
普通の日常生活を送っていた者が、命令とはいえ
いきなり2、3日後に軍隊に来いと呼び出され、
そのまま最前線へ向けて出発したのである。
戦時中とはいえ理不尽なものだ。

おまけに祖父はこの時47歳
戦前であることを考えると年寄とも言っていいくらいの歳だが、
後方勤務ではなく、最前線へと送り出されている。
しかも歩兵なので任務には相当な体力が必要だ。

小銃や弾薬などの他、背嚢など
かなりの荷物を背負っての行軍となる。
現代人ならすぐにネを上げてしまうことだろう。

祖父はもともと歩兵第一連隊の所属だったので、伯母はこのことを、歩兵第一連隊が起こした二二六事件のせいだと今でも思っている。(二二六事件を起こした部隊はその後最前線へ送られ多くの兵が戦死している。)

その後の祖父の任務がどんなものだったのかは、記録にない。
ただ、任地の岳州から、家族一人一人にはがきが届いている。
昨年そのはがきを伯母に見せてもらった。
はがきの内容は次のようなものだった。

「うるさい父親がいないからと言って、仕事を怠けてはいけませんよ。
お金は少しずつ父が送りますから、正月には母に言って良い着物を買ってもらいなさい。
小さい弟達は叱らないでよく面倒をみてやりなさい。」

父親らしい家族を気遣う優しい内容の手紙であった。