とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

我が家の家業

2016-02-06 23:41:03 | 昔の話
給水塔(ポンプで地下水をくみ上げ、水圧のみで鶏舎へ配水していた)高さ4m

我が家の家業は養鶏業であった。
そうは言っても、息子たちは自覚していないようなので書いておく。
両親が高齢となり廃業したが、それまでは専業農家として養鶏場を営んでいた。
我が家は、不動産収入のある農家とは異なり、農業のみで勝負していたガチンコ農家だった。
畜産業は、生き物が相手なので、365日休みがない。
最盛期には朝の7時から、夜の11時ごろまで働いていた。
鶏のエサやりから、採卵、出荷準備、配達まで、すべて家族労働だった。

現在では、ほとんどの養鶏場が企業経営となっており、(上場企業も経営している)
個人の養鶏場の出る幕はほとんどない。

父親は、技術にこだわる人間だったので、いろいろ研究して鶏を育てていた。
鶏の餌も、単純に配合飼料をそのまま与えるやり方ではなかった。

細かいところまで言うと大変なので、
ざっとのところを説明しておく。

鶏の餌づくりの工程1.
まず始めに鉄の鋳物で出来た大釜で大量の湯を沸かす。(かまどで沸かした)その中に、一袋20キロのトウモロコシの飼料や、一袋30キロのふすまなどを次々に投入していく。さらに細かく裁断した燕麦や菜っ葉を入れて、ぐらぐらと煮詰めていく。 


大釜(横幅1.4m深さ0.65m)

工程2
これを、トウモロコシの粉やふすま、魚粕、牡蠣殻など、各種調合した飼料を予め敷き詰めておいた長さ6mほどの縦長の箱の中に、スコップで均等に載せていく。

工程3
かくはん機という、くじらのあばら骨のような鉄の棒がグルグル回る機械を動かし、餌をかき混ぜる。箱の両サイドには専用のレールがあり、かくはん機は、レールの上を自走し2往復ぐらいで、煮込みのエサと配合飼料がきれいに混ざり合う。
出来立ての餌からは湯気が出ていた。

ここからは餌やりの工程
工程1
出来上がった餌を、鳥小屋まで運ぶのに、魚市場で使うトロ箱のようなヒノキで出来た四角い箱を使っていた。スコップで箱に餌を入れ、リヤカーで運ぶ。量があるので、2回に分けて運んでいた。
縦長の鶏舎が何列も並んでおり、各ゲートに2箱づつ、餌箱を下していく。

工程2
各ゲートの餌箱の餌を、給仕機と呼ばれる自走する餌箱に移し替える。
手やりでは縦に長い鶏舎の鶏に均等に餌を配膳するのは不可能だ。そこで、ある一定の長さの餌箱をゆっくり動かしながら食べさせる。これだと鶏も均一に餌が食べられるし、人間も楽だ。

ここまで書いて、少し疲れてきた。

餌は、午前と夕方の2回与える。

餌作りの工程はちょっとした町工場のようだった。
各種の機械やローテクを駆使して作業が行われるが、基本的にすべての管理は自分たちが行う。機械はむろん専門業者に発注したものだが、メンテナンスはすべて自分たちが行っていた。
父は、土木、電気系統の知識に精通していた。

かんじんな卵だが、やはり手間をかけただけのことはあったと思う。

廃業してから、生まれて初めて市販の卵を買ってきたときのことだ。
驚いた。
自分の思っていた卵のイメージと違っていた。

失って初めてありがたさに気づくのは世の常だろうか。


僕らは少年探偵団

2015-11-28 22:32:18 | 昔の話
古い話で恐縮です。
昭和40年代の武蔵野には、まだまだ「となりのトトロ」に描かれた農村が残っていました。そんなトトロの丘を歩いた懐かしい思い出です。

当時小学生であった私と兄は、今でいう電車オタクで、
二人してよく意味もないのに国鉄に乗っては、遠くまで出かけていました。

中央線の小仏トンネルを電車で通ってみたい。
水戸と福島県の郡山を結ぶローカル線の水郡線に乗ってみたい。
そんな理由だけで、朝早くから出かけたりしていたものです。

そんなあるとき父親から、
「お前ら、ぷらぷらしているなら、埼玉県の入間市のあたりに俺の同級生がいるから探して来い」との指令を受けました。

当時父は同窓会名簿を作るため、同期の人の消息を確認していたようで、どうしてもその人と連絡が取れないから直接現地へ行って確かめようと考えていたようです。

情報は、
1.本人の名前(Tさん)
2.父と一緒の学校の同窓生
3.埼玉県の入間のあたりに住んでいるらしい
4.家は入間川の北側らしい
5.家は田んぼなどが広がる低地ではなく、丘陵地のようだ
以上

兄と私は父からTさんに宛てた手紙を託されました。

当日、朝一番の電車でまずは飯能へ向けて出発。
この時初めて八高線に乗りました。
飯能へ着くと、なぜか入間川へ向かい入間川を見学。
この辺はもう断片的な記憶しかありませんが、川に石など投げて遊んだ記憶があります。
その後、東飯能の駅から、直接入間方面へ向かって歩き出しました。
情報どおり丘陵地の旧道と思われる道を進み、
この辺の記憶は、ますます断片的ですが
トトロの漫画でいうと、五月ちゃんが、めいちゃんを探しに
七国山へ向かって走っていった田舎道のようでした。

ある程度歩くと、さっそく道沿いの農家で聞き込みを開始。
「この辺に××学校を出た、Tさんと言う人は住んでいないでしょうか」
「Tさんね〜」
「あんた知らない」
「分かんね〜な〜」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まあまあ、あんたたち横浜から来たの、そりゃ〜大変だ」

田舎の人は親切なので、なんだ、かんだと一生懸命になってくれます。
おまけに、これ飲んでいきなさい、これ食べていきなさいと、お遍路さんのような接待を受けることに。

もっとも、このへんはもっぱら兄が対応していたので、私はお供の犬状態で
ただ付いて歩いているだけでしたが。

それでも奇跡は起こるもので、こんなアバウトな情報だけで3軒目ぐらいで聞いた
農家の人がTさんのことを知っていました。
(当時Tさんは浦和高校の先生をされていたようです)
Tさんの家は、ここをこう行って、ああ行った所の家だと親切に教えていただくと、
生憎Tさんは留守でしたがが、無事ポストに父の手紙を投函することが出来ました。

この快挙に父も驚きました。
兄は今でもこの時の話が出ると鼻高々です。

ロックな中学生

2015-07-05 19:50:30 | 昔の話
アメダス アメダス ルルルルル

今日は雨なので
外の仕事もお休み

しかたがないと
テレビを見ると、
つのだひろや五輪真弓など
ちょっと懐メロ風のメンバーが出ている。
おお、やはり歳を取ったとはいえオリジナルは違う。
しばらく聴いてしまった。
なつかしいと思う曲は、
だいたい中学や高校生のころに聴いていた曲が多いのではなかろうか。

中学生のころ、
同じ方向に帰る者同士がつるんで帰り
道すがら、歌手の話なんかをよくした。
ただし、背伸びをしたい年頃の中学生のこと、
そこは、日本の歌手はあまり話題とせず、
洋楽の話が多かった。

一人は特にイギリスのロックバンド、ピンクフロイドの大ファンで
アルバム「原子心母」がいかに素晴らしいかを歩きながら熱く語っていた。
もう一人は、レッドツェッペリンの大ファンで、
「ピンクフロイドなんて気持ち悪い曲だ。原子心母のどこがいいんだ。」と
お互い相手のバンドにケチをつけ、たわいのないやりとりをしていた。
しかしながら、両グループとも、
中学生をも感化させるほど偉大なバンドなのであった。


私はといえば、当時映画音楽に凝っており、
外人の歌手が歌っている曲では、映画「卒業」のサイモンとガーファンクル、
小さな恋のメロディーのビージーズ
ベンのテーマのマイケルジャクソン(当時は、曲を歌っているのがマイケルと知らずベテランの女性歌手だと思っていた。そのくらいマイケルの歌唱力はずばぬけていた。)
ぐらいしか知らず。二人の話題について行けなかった。

私がピンクフロイドやレッドツェッペリン、キングクリムゾンなどを聞くようになったのは、ほとんど、大学生ぐらいになってからのことであった。


昔はLPレコードのことをレコードアルバムと言ったが
確かに、彼らのレコードジャケットは凝っており。
曲を聴きながら、ジャケットのイラストを眺めていると
いよいよ怪しく不思議な、彼らの音楽世界に引き込まれていくのであった。

横浜の風景、今昔物語5

2015-04-26 09:05:42 | 昔の話
横浜の宅地開発が本格的になったのは私が小学生のころだった。
私のお気に入りの場所だった近所の雑木林にも、
とうとう宅地開発の看板が掲げられた。

私は溜息をついた。
そこには、クワガタの集まるくぬぎの林があり、
谷戸の小川には、タニシやヤゴ、蛙や、沢蟹などが生息していた。

宅地造成が始まると、
ブルドーザーは、ねこそぎ山を削り取り、谷を埋めた。

雑木林の中に自生していた植物は、
この地にもともとあった植物が多かったのではないかと思うが、
連綿と続いてきた生物の営みは、
昭和の時代になって突然断ち切られてしまったのである。

春の雑木林は、子供心にもなんて美しいのだろう、と思ったものだ。
そこには、春蘭やエビネ、草ボケや山百合といった
今では、園芸店に行かなければ手に入らないような山野草が沢山生えていた。

私は、やがて失われてしまうであろうこれらの植物達がお宝のように思え、
雑木林の中に分け入っては、これはと思う植物を、
せっせと自分の家の庭に運んで植えた。

山百合などは、一時は盛大に我が家の庭を飾っていたのだが、
いろいろ変遷の末、今でも残っているのは、このエビネだけになってしまった。
それでもエビネの花を見ると、
あのころの雑木林の様子を思い出すのである。

小学生のすてぜりふ

2015-01-29 22:20:26 | 昔の話
ふと思い出しました。

「バーカ、カーバ、ちんどんや
おまえのかーちゃんデベーソ
ついでにおまえもデベーソ」

そういえばもう久しく聴いたことがありません
小学生が友達とケンカして帰る時、別れぎわに相手を罵る決まり文句です。

なんであのころには、こういう節の付いた捨て台詞や
はやし立てるような歌があったのでしょうか。
言葉そのものにはたいした意味もなく、
調子のよさだけを楽しんでいたように思います。

このバーカ、カーバーというのも、
最初にバーカというのが来ますが、
相手にバーカと吠えて勢いをつけているだけで、
続いてくるカバやちんどんやというのも
勢いを持続させるために並べているだけですね。
しいて言えば能天気な動物のカバ、
お化粧してラッパや太鼓を鳴らしねり歩くへんな人たち、
ぐらいのニュアンスでしょうか。

おまえのかーちゃんデベソというのだけが、具体的な誹謗中傷となるわけですが、
今ここにいる当事者ではなく、
おまえのかーちゃんには、
とりあえず聞こえないわけです。
最後の「ついでにお前もデベソ」というのだけが、
本人のことですが
本当にデベソだと言っているわけでもありません。
なにしろ、ついでのレベルです。

他にもいくつか思い出しました。

女の子を男の子が泣かしたときの囃子歌

「あーららこらら、しーらないよ、しらないよ、せーんせにいってやろ」
「いーけないんだ、いけないんだ、みーんなに、いってやろ」

これを数回繰り返す。

「みっちゃん、みちみち、☆して、紙がないから手で拭いて、もったいないから食べちゃった。」

最近テレビでも紹介されましたが
友人の口元の両側をひっぱてから
金沢文庫て言ってみなで盛り上がった

「金沢☆んこ」
というのもありましたね。

まだなんかあったかな?

横浜の風景、今昔物語4

2015-01-17 21:09:10 | 昔の話
今は昔
我が家は農家でしたが、田んぼがほとんどありませんでした。
戦前、そして戦後もしばらくの間は、農家で田んぼがないということは致命的でした。
なにしろ江戸時代には、その地域の経済規模は石高で表示され、
お米がどれだけ取れるかで、収入額がわかったのです。
商品作物としてのお米の価値は不動のものでした。
イコール、お米の取れない農家は貧乏だったのです。

そこで、じい様やひいじい様は、畑で取れた野菜やイチゴ、はたまた鶏の卵などを大八車に乗せ、遠く東京や、横浜の六角橋商店街などへ売りに行っていたそうです。
地元にも市場はありましたが、安く買い叩かれてしまいました。
そこで遠かろうと、いくらかでも高く売れるならと、えんやこら運んで行ったのです。
昔の人は粘り強く、体力がありました。

戦前、横浜北部の農産物で有名だったものには、桃とイチゴがありました。
遠藤周作などは、慶大生だった当時、日吉の農家でイチゴを仕入れ、渋谷あたりで売るアルバイトをしたとエッセイに書いています。

我が家でもイチゴを作っていたようです。
(イチゴの出荷組合というのもあったそうです)
桃は日月桃という品種が綱島の名産品でした。
私の家でも日月桃と思われる木が私の小さいころまでは何本かあったのですが、
その桃を売っていたのかどうかまではわかりません。


横浜の風景、今昔物語3

2015-01-16 22:49:03 | 昔の話
今は昔
このごろは、私のおじやおば達もそろそろ怪しくなってきました。
一人欠け二人欠け
昔のことは、今のうちに聞いておかないと、
本に書いていないようなことは、
永遠になぞとなってしまいそうです。
そこで、おじやおば達が話した昔のことを最近は書き留めるようにしています。

今回は戦時中の話です。

私の家の近くには高射砲の陣地がありました。
全部で6門の大砲があったそうで
近いので砲がいっせいに火を噴くと、けっこうな音がしたと思われます。

昭和20年、B29の編隊は連日のように私の家の上を東京へ向けて飛行していたそうです。

そして気まぐれに私の村にも焼夷弾を落として行きました。
戦後70年経ちましたが、これがそのときの焼夷弾です。


このため村の何軒かは焼夷弾の犠牲となりました。
(同じ市内にある私の祖母の実家は焼夷弾のために全焼となっています)
鶴見川沿いには工場があったので、250キロ爆弾も投下されたそうです。
叔父の証言
「隣村に250キロ爆弾が落ちた。すさまじい音がした。翌日落ちた場所を見に行ったが、大きな穴が開いていた」

焼夷弾についての証言
「焼夷弾は爆撃機から落ちると、トラックが荷台を上げて砂利を空けているような音がした。」

飛来するB29には対空砲火の他、厚木基地から飛び立った戦闘機が迎撃しました。
おじ達は実際に日本機とB29の空中戦も見たそうです。
以下叔父、伯母の証言。
「日本軍の戦闘機はB29の後方から近づいて機銃掃射を浴びせかけたが、爆撃機はそのまま飛んで行ってしまった。」
「日本の戦闘機がB29へ体当たり攻撃をしていた」
「日本の戦闘機が撃墜され、機体の一部が近所の畑に落ちてきた」

「突然、アメリカの戦闘機が低空で飛んできた。あぶないと思い、あわてて茶畑に隠れた」

轟く大砲の音、降り注ぐ焼夷弾。
戦争末期は一般国民にとっても過酷なものでした。

横浜大空襲のあった晩、私の母は
「防空壕の中からそっと港の方を覗いたら、空が真っ赤になっていた」
と言っていました。

旧制中学の1年生であった叔父の証言です。
勤労奉仕の配属先を決めるのに、事前に面接試験があったそうで、
叔父はそこで、優秀と判定され
目黒の海軍技術研究所への配属となりました。

その後、秦野にあった専売公社の工場などにも行ったそうですが
最後は厚木飛行場だったそうです。

軍の基地なんかで中学生がなにをしていたのかと聞いたところ
叔父は得意そうに、「偵察機に無線機を取り付ける仕事をしていた」と話していました。
叔父はもともと、理工系の知識が豊富な人でしたが、整備兵でもない中学生に
そんな仕事をさせなければならないとは、
戦争末期の人材不足は、相当にひどいものだったようです。。
ちなみに叔父は、空襲警報が鳴ると一目散に飛行場の外に広がる森の中に駆け込んで隠れていたそうです。

横浜の風景、今昔物語2

2015-01-14 21:31:28 | 昔の話
今は昔
横浜の観光と言えば
マリンタワーに登り、山下公園を散策し、氷川丸の前で写真を撮り、
南京町で食事をするというのが定番でした。(横浜のごく狭い一画だけで済んだ)

私の幼稚園の時の遠足は、山下公園と野毛山動物園でした。

横浜の田舎に住んでいる私には
めったに横浜の中心街へ出かける機会はないので、
横浜駅のあたりへ出かける時には、
「横浜へ行ってくる」と言って家を出ます。・・・・・・(・□・;)


たまに出かける時は、ちょっとした観光気分です。

そんな調子だから、たまに見る横浜港の変貌ぶりには驚かされます。
なんてオシャレな街になったものだろう。
かつて港の大部分を占めていた倉庫だのクレーンだのがあった一大港湾施設街は、
その面影だけを遺して
彼女とデートするのにうってつけな開放的で美しい街となりました。
今の人達が羨ましい。

しかも今でもどんどん変化しています。

横浜の風景、今昔物語

2015-01-12 22:37:33 | 昔の話
今は昔
私なんかが小学生だったころのことです。
横浜の田舎のなんにもなかった田んぼの中に
突如として新横浜駅が出来ました。
(当時、横浜市の北側は横浜のチベットなどと呼ばれていて、広大な面積が港北区でした)

ところが新横浜駅へ行くのに乗る横浜線なんかは、
まだ、ひどいローカル線で
小机から先は単線でした。
電車もこげ茶色の地味な車両で、
終戦直後の電車とあまり変わらない様子でした。

新幹線は、普段われわれとは縁のない乗り物でしたが、
さほど近くもない私の家からでも、新横浜の駅がよく見えました。
しかも新横浜駅に入線するこだま号の姿も確認できるほどでした。
(当時ひかり号は新横浜駅には止まりませんでした)

そして北に目を転じると東京タワーが見えました。
さすがに東京タワーは夜景でないとよくわかりませんでしたが、
その横には霞ヶ関ビルもハッキリと見えたものです。
当時の東京の高層建築はそのぐらいのものでした。

あれからいく星霜
今では信じられないかもしれませんが、
マリンタワーのライトすら見えたのです。

クワガタ取り(少年の日の思い出)

2014-08-03 11:29:37 | 昔の話
小学生のころの夏休みの日課は
毎朝クワガタ取りに出かけることだった。
家の者が起きないうちから布団を抜け出し
家に近いクヌギの木から順番に回って行く。
回る場所は決まっていて
目的の木の1本、1本にクワガタが来ていないかを確かめながら回るのであるが、
猟師が仕掛けた罠を確かめに回るのと同じで
妙に興奮した。

まずは、目で見てチェック、
続いて幹を足蹴り3発、
パラパラと、枯れた木の皮などと一緒に、
大きな音がして落ちたものがあれば、
それは
大抵クワガタだった。

落ちたとおぼしき場所に駆け寄ると
そこには、手足や触角をすぼめて死んだふりをしたクワガタが転がっていた。
クワガタは「へへへ、坊ちゃん、あっしは、もう死んじまったつまらない虫けらですぜ、こんなのは、ほっぽっておいて、もっといいのを探したらどうです。」と無言のアピールをしているのだが、非情な少年はお構いなしに虫かごに入れていく。

大きなクヌギには
幹から樹液の出ているものがあり、
格好なクワガタ取りのポイントになっていた。
こういった所には、カブト虫やクワガタの他にも、スズメバチやカナブン、ヒョウモンチョウ、といった虫達も集まっていた。

少年の獲物のランクはこうだ
最上位にランクされるのは
大型のノコギリクワガタで
カブトムシをも凌駕する風格がある。
赤黒く光るボディには、ブランドシンボルのおおあごが絶妙なバランスで付いており、
スポーツカーのようなフォルムがまた美しい。

捕まえた時
身をのけぞるようにして威嚇するおおあごには、
野生の力がみなぎっており
男の子を興奮させる雄々しさに溢れていた。

他は、
定番のカブト虫、コクワガタ
シロスジカミキリなどだ。
また、少年のその日の気分で捕獲するものには、
メスのクワガタ(メスは基本的には狩猟対象外だがサンプルとして何匹かを持ち帰る)
コメツキムシ
ヨツボシケシキスイ(ちょっとマニアックな甲虫)
コフキコガネ
カナブンなどがあった。


<クワガタ取りのポイント>
1.雨の日にはクワガタは来ない
  雨の中では、クワガタも飛ぶことができないのだろう。
  クワガタ取りは中止となった。(休養日)

2.やはり明け方が一番
  あまり暗い内だと人間様の方の目が見えないので無駄足となる。

3.日中は虫達もお休みだ
  クヌギの木の下に掘れるような土がある場合にはその中にクワガタが隠れていることがある。
  (夕方から活動開始となる)

4.虫は果物がお好き
  桃やスイカの皮など、(傷んでいるものがgood)を周りの視界のきく木の下などに置いておくと、
  カブト虫が取れまくりとなることがある。
  しばらく同じ所に置き続けることでやってきたメスのフェロモンが定着するのか、
  日増しに取れる量が多くなった。

5.コクワガタは5月くらいから取れる
  越冬する成虫がいるのか、枯れた木の幹が転がっていると、
  その下にコクワガタがいることがよくあった。
  季節ハズレと思っていてもコクワガタだけは例外的に取れる。

じいさん達の戦争 その3、運命の戦闘

2014-07-05 10:08:22 | 昔の話
祖父の中国戦線での所属部隊がわかったので、
昨年は、ネットや本で何か情報はないかと探してみた。
所属部隊名は
独立混成第17旅団
独立歩兵第90大隊(第8105部隊)
第一中隊
旅団長は、高品 彪 少将
第90大隊長は、舛尾 芳治 中佐 であることが、わかった。
その後祖父のいた独立混成第17旅団は「江南殲滅作戦」に参戦することになる。

旅団という軍単位は普通5000人ほどの規模のようだが、
祖父のいた旅団は補充兵も多かったと思われるので、
もっと少ないものであったのかもしれない。
旅団の構成は
歩兵大隊5
砲兵隊1
工兵隊1
通信隊1
という編成で
1歩兵大隊は、およそ600人~800人ぐらいの規模で、
中隊4つほどから構成されているようだ。
祖父は第一中隊の小隊長という地位にあり、
通常であれば50人くらいの兵隊を指揮することになる。
ケロロ小隊(漫画)は4、5人(匹)だが本当の小隊はもっと多い。

小隊長ともなれば、戦場での現場責任者となるので、
部下の兵隊に後れをとることはできない。
体力的にも精神的にも大変なものであったと思われる。

作戦は有名な洞庭湖の北西側で行われた。
日本軍は北から南へ向けて進軍し、
中国軍を掃討するという作戦だったようだ。
祖父の旅団は安郷県という所を北から南に行軍しているのだが、
祖父はこの時、中国軍の迫撃砲、あるいは手りゅう弾かもしれない
砲弾の炸裂により、瀕死の重傷を負っている。
祖父はその後、船で後方へ運ばれる途中で、亡くなった。
この戦闘はかなりの激戦だったようで、祖父の他、中隊長も負傷、
第90大隊長の舛尾 芳治 中佐は戦死しており、
5人の大隊長のうち3人が戦死するというものだった。

来週は祖父の命日だ。
このブログに書いているのも、そんな時代があったことを忘れないようにするためだ。

じいさん達の戦争 その2、中国へ

2014-07-05 07:41:55 | 昔の話
昭和17年7月25日 東部第六十二部隊に召集

昭和十七年七月二十五日臨時招集ニテ東部第六十二部隊ニ召集同日陸軍機密第二五四号ニ依り補充交代要員トシテ東京出発

昭和17年7月25日同日東京出発
昭和17年7月27日宇品港出帆
昭和17年8月2日呉淞に上陸江湾兵営着
昭和17年8月9日飯田桟橋出航
昭和17年8月13日揚子通過 部隊宿舎に到着
昭和17年8月16日同地発
武昌に一泊
昭和17年8月17日任地岳州着 第九十大隊第一中隊に編入
中支派遣 峯八一○五部隊 第九十大隊第一中隊に編入

以上が祖父の軍隊手帳に書かれていた任地までの記録だ。

(注)
東部第六十二部隊(当時東京の赤坂にあった部隊)
宇品港(広島の港)
呉淞(上海の港)
飯田桟橋(上海の揚子江の桟橋)

招集令状が届いてから2,3日後に入営しているので
あわただしい日程だったことが想像できる。
普通の日常生活を送っていた者が、命令とはいえ
いきなり2、3日後に軍隊に来いと呼び出され、
そのまま最前線へ向けて出発したのである。
戦時中とはいえ理不尽なものだ。

おまけに祖父はこの時47歳
戦前であることを考えると年寄とも言っていいくらいの歳だが、
後方勤務ではなく、最前線へと送り出されている。
しかも歩兵なので任務には相当な体力が必要だ。

小銃や弾薬などの他、背嚢など
かなりの荷物を背負っての行軍となる。
現代人ならすぐにネを上げてしまうことだろう。

祖父はもともと歩兵第一連隊の所属だったので、伯母はこのことを、歩兵第一連隊が起こした二二六事件のせいだと今でも思っている。(二二六事件を起こした部隊はその後最前線へ送られ多くの兵が戦死している。)

その後の祖父の任務がどんなものだったのかは、記録にない。
ただ、任地の岳州から、家族一人一人にはがきが届いている。
昨年そのはがきを伯母に見せてもらった。
はがきの内容は次のようなものだった。

「うるさい父親がいないからと言って、仕事を怠けてはいけませんよ。
お金は少しずつ父が送りますから、正月には母に言って良い着物を買ってもらいなさい。
小さい弟達は叱らないでよく面倒をみてやりなさい。」

父親らしい家族を気遣う優しい内容の手紙であった。

じいさん達の戦争 その1、軍隊手帳

2014-07-04 19:54:14 | 昔の話


他人にはどうでもよいことだが
本人にとっては、どうも気になるのが
ご先祖様のことだ。
どんな人物だったのか、何をしていたのか、

祖父は、私が生まれる大分前に亡くなっているので、
あまり具体的なイメージはなかった。
ところが、昨年初めて祖父の「軍隊手帳」というものを見せてもらい、
かなりリアルな面が見えてきた。

軍隊手帳の中には、履歴という欄がある。
そこには20歳で徴兵検査を受け、入隊した所からはじまり、
時系列で、何をした、
給料が何等級になった、
軍隊の階級がどうなったということが書いてある。
日本の歴史に重ね合せると、なるほどと思われる点も多々あり、興味深い。

祖父は東京麻布の歩兵第一連隊、第一中隊に入隊している。
第一連隊、第一中隊というと、ちょっとエリートぽく聞こえるが、
所属連隊は出身地で決まることなので関係ない。
ところがこの歩兵第一連隊、
後に二二六事件を起こすことになる軍隊なのだ。

祖父は徴兵期間が終わってもそのまま軍隊に居続けた。
長男ではあったが、家が貧乏だったのでそのまま居残ったのだろう。
その間、中国の青島へ守備隊として出征したり、(第一次世界大戦後のことで青島など中国のドイツ統治領を日本軍が占領していたころのことだ)また、大正12年の関東大震災では、東京の治安維持活動や震災の被害状況の調査などをしたりしている。
予備役として除隊となったのは32歳の時なので、都合12年間軍隊暮らしをしていたようだ。
ここで手帳の記録は一旦終了している。

ところが履歴の欄は、祖父が47歳の時に突如再開するのである。
ミッドウエイ海戦で日本軍が歴史的大敗北を喫した直後のことだ。

わさびーず

2014-06-11 20:04:58 | 昔の話
わさびーずとは長野県で活動していた地元密着型フォークソンググループの名前です。
私はFM放送で流れたライブ演奏をカセットテープに取ったのをよく聞いていました。

「信濃の人とお茶の話」はグループのテーマソングのような曲で、
安曇野の「八面大王」も歌詞の中に出てきます。
以下録音していた曲
「わさびの花」
「山国の祈り」
「月見草」
「信濃の用心棒」
「どうしても信濃ゆき」
「あばなあばな」

FM放送のDJ、高橋もとこさんは「どうしても信濃ゆき」を聞いて涙をながしたとおしゃっておられました。(高橋さんは長野出身の方だったと思います)
そんな郷愁をさそわれるフォークグループでした。

ネットで検索したら今でもリーダーのろっぺいさんは活動しているようです。
機会があればコンサートを聞きたいものです。

当時は他にも、(40年近く前)

秋田県の「田吾作」というグループ
「秋田田吾作節」
(荒々しく、泥臭いがとてもインパクトのある曲)
「ポンポン船」
(漁に出かける漁船をイメージした曲だが、曲の初め、とっくりの口を手のひらで叩き、
ポンポンポンという音を漁船のエンジン音に見立てた粋な演出で始まる曲)

宮城県の吉川団十郎一座
「ああ宮城県」
「きゅうぴーちゃん」
などの曲が有名
団十郎さんは一時東京のラジオ局のレギュラー番組も持っていましたね。

当時地方のフォークグループが魅力的でした。
残念ながらその後に続く歌手は現れませんでした。
(あるいは私が知らないだけで今でもそんなグループがあるのでしょうか)


勇気ある行動

2014-01-26 15:41:38 | 昔の話
怖いもの知らずの小学生でも
一瞬ひるむもの、
それが肥溜めであった。

当時は、肥溜めを作るのに補助金でも下りたものなのだろうか、
コンクリートで出来たしっかりした作りの肥溜めが、
畑のあちこちにあった。

ところが一部にはまだ、一昔前の木造のものもあった。
肥溜めの水面の上には小さな屋根があり雨水の侵入を防いでいた。

コンクリート作りのものは大抵中には雨水ぐらいしか入っておらず、
浮草とか蛙が浮いているぐらいのものだった。
一方、木造の方には、モノホンが入っていることが多く、
妖気漂う、一種異様な雰囲気があった。

その中に例のものが固まりとなって浮いているのだが、
不気味に浮かぶグロテスクな浮遊物を棒でつつく行為は、
勇気ある行動として、
男子小学生の賞賛の対象でもあった。

実際私には、中のものを肥料として畑に撒いている農夫の姿が記憶にあるので、
当時が化学肥料と人糞との端境期であったのだろう。
昭和40年代初めごろの話だ。